第13話 あれれ〜? おかしいぞぉ〜
「葵、二十歳の誕生日おめでとう」
社長が掲げたグラスの中で、琥珀色の液体がシャンデリアの光を反射してキラキラと揺れていた。
都内でも指折りの高級個室レストラン。
今日は、新人アイドル「城山葵」の二十歳の誕生日を祝う会だ。
「……ありがとうございます」
俺は、慈愛に満ちた笑顔で一礼した。
今日は妹・葵の誕生日。――ということは、双子の兄である俺、大輔の誕生日でもある。
葵は誰にも祝われることがない誕生日。
少しだけ胸がチクリとしたが、修行僧たるもの、この程度の感情(煩悩)は捨て置かねばならない。
今は「葵」として、この場を完璧に演じ切る。
それが俺の使命だ。
「ハハハ、堅い堅い! 二十歳のお祝いなんだ、葵。一口だけ、どうだ?」
社長が上機嫌でシャンパンを勧めてくる。
俺は困惑して、マネージャーの栞里さんを盗み見た。
彼女は「一口ならセーフ……よね? バレないわよね?」と自分に言い聞かせるような必死な顔で頷いている。
断れば場が白ける。
それに、主役が一口も飲まないのは不自然だ。
俺は覚悟を決めた。
「……では、いただきます」
細長いフルートグラスを手に取り、そっと口に含む。
シュワシュワとした泡が舌の上で弾け、芳醇なマスカットのような香りが鼻腔を抜けた。
美味しい。
これくらいなら、一杯飲み干しても大丈夫そうだ。
俺は十年の修行で不動心を鍛えてきた。
精神を統一していれば、アルコールの分解速度だって制御できるはず――。
――カァァァァッ。
飲んで三秒。
全身の血液が、まるで溶岩のように沸騰した。
視界がふわりと揺れ、天井の模様が万華鏡のように回りだす。
……あれれ〜? おかしいぞぉ〜。観音様が三人に増えたぞ?
俺の理性が、音を立てて木っ端微塵に崩壊した。
まずい。
痛恨のミス。
……俺、めちゃくちゃ酒に弱かったのか……。知らんかった…。
「……葵ちゃん? 顔、真っ赤だよ? 大丈夫?」
ひなたが心配そうに身を乗り出し、俺の顔を覗き込んでくる。
至近距離に、大きな瞳と、イチゴのような甘い匂い。
普段なら「近い近い!」と後ずさりするところだが、今の俺は、いわば「悟り」を超えて「本能」のステージにいた。
「んぅ……ひなたちゃん、ふわふわしてるぅ……可愛い……」
「えっ、ええええっ!? か、可愛いって……」
俺の口から出たのは、自分でも引くほど甘ったるい声だった。
身体が重力に従順になり、隣に座っていた茜の肩に、こてん、と頭を預ける。
「……あ、葵ちゃんっ!? な、ななな、何をっ!?」
茜の身体がビクッと跳ね、細い肩が小刻みに震える。
でも、俺は止まらない。
茜の肩はちょうどいい高さで、凛とした花の香りがして、すごく、すごく安心する。
「茜さんの匂い……。滝行のあとに見る、朝露のついた百合の花みたい……。落ち着きます……すー……」
「ひゃああああっ!?」
俺が鼻先を肩に擦り寄せると、茜は沸騰したヤカンのように顔を真っ赤にした。
「ちょ、ちょっと葵ちゃん! もっとくっついてもいいけど……じゃなくて!社長が見てるから!」
クールなリーダー・茜が、俺の頭を両手で抱えながらあわあわと狼狽している。
その様子を隣で見ていたひなたが、頬をこれ以上ないほど膨らませて抗議した。
「ずるい! 茜ちゃんばっかりずるい! 私も葵ちゃんにくっつくの!」
ひなたが反対側の左腕に、ギュッとしがみついてきた。
「葵ちゃん、私ともくっついてよー!」
「うん……ひなたちゃんも、あったかい……。春の陽だまりに咲く、たんぽぽみたいですね……」
俺はひなたの頭に大きな掌をポンと乗せ、慈しむように優しく撫でた。
「えへへ……葵ちゃんの手、あったかくて、大きい……」
ひなたがうっとりと目を細め、俺の二の腕に頬を擦り寄せる。
俺は完全にリミッターが外れていた。
正面に座っていた沙織ともバチリと目が合う。
「沙織さんも……。その厳しい目の奥にある優しさ、観音様みたい。笑うと、もっと、もっと素敵ですよ……」
「……っ! な、何言うてんの、このアホの子は……!」
沙織がバッと扇子で顔を隠したが、隠しきれていない耳たぶまで真っ赤なのが丸見えだ。
彼女たちの「乙女心」という名のダムが、俺の無自覚な天然タラシによって決壊寸前になっていた。
茜は、自分の肩に預けられた俺の重みに、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていた。
なにこれ……。女の子同士のはずなのに、なんでこんなにドキドキするの?
それに、この手の大きさ……骨格……。
包容力が凄すぎて、吸い込まれそう……!
ひなたもまた、頭を撫でる大きな手の感触に、溶けそうになっていた。
この手……お父さんとも、誰とも違う。
……男の人の手みたい。
きゃー!
私、変態!?
葵ちゃんは女の子だよ! 落ち着け、私の心臓!!
三人がそれぞれの「甘い違和感」に悶絶し、ニヤニヤとデレデレが飽和状態になったその時。
唯一、正気だった(というか死にそうだった)栞里の顔色が青ざめた。
まずい!絶対まずい。
大輔くん、完全に「男のオーラ」が漏れ出してる!
フェロモンというか、徳の高い男気がダダ漏れよ!
このままじゃバレる!!
「しゃ、社長! 葵、だいぶ回っちゃったみたいなので、少し裏で休憩させてきますね!」
「お、おお。そうだな。いやあ、葵は酔うとさらに愛嬌が増すなあ。ハハハ!」
社長が豪快に笑う中、俺はふらりと立ち上がった。
「……といれ」
「あ、私が付き添うよ! 立つのも大変でしょ!」
茜が慌てて腰を浮かすが、俺はゆらりと手を振って、それを制した。
「らいじょぶ……ひとり、いける……。己の煩悩は、己で始末せねば……」
「わけがわからないこと言ってるわよ!? 大丈夫!?」
俺は千鳥足で個室を脱出した。
静かな廊下に出ると、ひんやりとした空気が心地いい。
トイレ……トイレ……。
頭がぐわんぐわんと回る。
だが、俺の肉体には二十年間、男性としての「習慣」が染み付いていた。
酔っ払った男が、理性のタガが外れた状態でトイレを探す時。
脳が認識するのは、社会的な立場ではなく、生物学的なアイデンティティだ。
「……あった」
俺は視界の端に捉えた、青い暖簾を目指した。
女子トイレを示す赤いマークを無視し、吸い込まれるように、迷いなく、男子トイレへと手を伸ばす。
その瞬間。
「あ・お・い〜〜〜っ!! そっちじゃなーーーーいっ!!!!」
背後から、栞里さんの決死のタックルが炸裂した。
「ぐふぇっ!?」
俺の体は、男子トイレの入口数センチ手前で強引に軌道を逸らされた。
そのまま、向かいの壁にズドンと押し付けられる。
「あ、葵!? 足がふらついて、反対側に倒れ込んじゃうなんて、もうお茶目なんだからぁ! こっちよ! こっちが、女の子のトイレ!!」
栞里さんが狂気を感じさせる笑顔で、俺の首根っこを掴んで赤い暖簾の方へ引きずっていく。
俺はされるがままになりながら、朦朧とした意識で「あ、赤は、不動明王様の色だなぁ……」なんて考えていた。
間一髪。
社会的な死(大輔としてのアイデンティティの暴露)を、マネージャーの執念が食い止めた。
だが、その騒ぎに気づいて、個室から覗き見た人物がいた。
「あら……。あの子、今……」
女子トイレに引きずり込まれる「葵」の背中を、怪しむような、それでいて興味深そうな瞳で見つめていた。
「面白いわね、あの子」
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