ガラスの城
10日後、社内でのオレの進退を考える会議での結論が出て、オレは体調不良で長期静養が必要のため、依願退職するとされた。事実上、離婚となるが、病を持つ夫を放り出す悪妻にはしたくないとの社長の意向で、別居すると発表された。オレは社長の配慮でまとまった金をもらい、この家を出て行くことになった。
この大邸宅で過ごす最後の朝。理央はいつかと同じようにキッチンに立ち、またごそごそしている。少しすると真っ白い皿に黄色いものを乗せて来る。いつかと同じだ。
しかし、今回は違っていた。黄色いものは明らかにオムレツだし、以前のような崩れたものではなく、レストランで見るような、ふっくらとして旨そうな形の整った
オムレツだ。「すごいね。キレイに出来てるよ」オレは本当にそう思った。理央は柔らかい表情で「誉めるのは召し上がってからになさって」と言う。一口食べるが、卵がとろけるように程よい甘さで口一杯に広がる。「とてもうまいよ。卵がやわらかくて味も丁度良いし。パリで食べたオムレツみたい。腕を上げたね」嬉しくてついまくしたてる。黙って見ていた理央は
「良い妻ではなかったわ。妻らしいことはして来なかった。信じてもらえないけど私なりに貴方を愛していました。でも、どうして表せば良いのか、分からなかった。女性として自信が持てなかったのです。何かをしても貴方に喜んで貰えるとは思えないし。お料理も裁縫も貴方とテニスでもしたかったけれど、指や腕を痛めてはピアニストとして失格だし出来なかった。結局、母に知られてゴルフも止めたし。この通りからだも貧弱で貴方に見せるのが、恥ずかしかったんです」そう言うと部屋を出て行こうとする。オレは慌てて
理央の腕を掴み抱き寄せた。オレを振り払わず、理央はじっとしている。こんなに暖かい温もりを持っていたのに、オレは気が付かなかった。いや、気付こうとはしなかった。「今日のオムレツは、一生忘れないよ。有り難う。愛してるよ」オレは心から思った。「愛してるなんて簡単に言うのね。でも、優しい言葉だわ。私ももっと早く、もっと素直に使えば良かった」
やっと心が少しは通じ合ったと思った途端もう終わりだなんて皮肉なものだ。身の回りのものを詰めたバッグと理央が買ってくれた外国土産のショルダーバッグを掛けて、玄関まで来たオレに理央は「貴方に会えて良かった。今度は同じ間違いはしません。お元気で」と涙も見せずさばさばと言う。理央の精一杯の感情表現なのだろう。「オレも理央に会えて良かったよ。オレも同じ間違いをしないから。幸せに」
見送りに来た、世話をしてくれたお手伝いさんに礼を言って外に出た。
振り返ると「ガラスの城」は春の光を浴びて輝いている。この世のものとは思えない美しさだが、人を撥ね付けるような冷たさも秘めている。美しいだけに、儚げで小さい石ころ一つで、もろくも崩れ落ちる危うさをもはらんでいる。オレの心の中で、「ガラスの城」は音をたてて崩れて行った。




