【越境飛行】―Illegal Move―No.3
陽が傾き、空がオレンジ色に染まりはじめた。東の地平線には暗く紫色の夜が顔を見せ、西には夜から逃げるべく地平線に没しようとしている太陽がある。
夕刻。ダキア王国のブガレストック飛行場に機を止め、ヨハンは寒さでかじかんだ身体を搭乗席の中で軽く動かした後、胸ポケットから二枚ほど紙幣を取り出して搭乗席に置き、手提げ袋を二つまとめて片手で引っつかみ、朱嘴号から降りた。それまで吹き荒ぶ風の中に居たためか、地上の風はまるでそよ風のようで、氷のように冷え切った身体に心地よい。傾き、山々にその身を陰られた太陽の温もりが、凍える身体を癒してくれる。心臓が、血液が、心が温もりを感じ、平常へと回帰する。自然の如く、平静へと。
朱嘴号の温まったエンジンがちりちりと音をたてている。ヨハンはそれに手をかざし、その熱を感じた。冷え切り、感覚が鈍化して、ペンで自分の名前も書けそうにない状態から指が、感覚が回復していく。そうしている内に飛行場の整備員たちや仕切り屋が集まってきて駐機券を切り、ボードに留めた書類にペンで何事かを書きなぐり、大声をあげて朱嘴号を格納庫脇のローディングエプロンに運んでいった。その粗野な作業風景に不安と不満を感じつつも、ヨハンは踵を返す。燃料の補給やエンジンの点検は契約通りにやってくれるだろう。チップを置いておいたから、手抜きはないはずだ。
愛機を見送り、飛行場脇にある郵便局へと脚を向け、そこで片方の手提げ袋を手渡し、受け渡しの書類を確認して署名し、飛行士は一つ目の仕事を終えた。
「ドーラは元気にやっとるかい」
受け取りの署名を瓶底みたいなレンズのはまった眼鏡で覗き込みながら、鷲鼻で中年の郵便局員が言った。ヨハンは煙草を咥え、カウンターでマッチを擦り火を点け、紫煙を吐きながら淡々と返す。
「相変わらずだよ。それで、パウルのことはなにか聞いた? 僕が機上の人となっている間、随分と時間があったはずだけど」
「ああ、電報で聞いた。やはり山脈で消息を絶ったそのは確実だそうだが、まだ残骸すら見つかってないそうだ」
「そっか。雪壁に墜落して、埋もれていないことを祈るしかないね」
実際、そうなっていたら見つかるのはその雪壁が溶け出すほどの異常気象が起こる頃になるだろう。それが数ヵ月後か、数年後か、あるいは数十年後かは分からない。遺族は遺体と顔を合わせることなく死ぬだろう。最愛の血を分けた息子の死に顔も見れずに、棺桶に入ることになる。しかし、珍しいことではない。数年前までそんな死に方をした若者は数万、数十万といた。ヨハンのような若者が、飛行機とともに散り、死に、潰れ、消え去る。そんな死に方も最早、よくあることだ。悲観するようなことでは、なくなっている。
「おれは楽観主義だから死んでいないことを祈ることにするよ。パウルにはカードの貸しがあるしな。……よし、受け渡しの書類は整った。お疲れさん、郵便飛行士。荷物の到着がちょいと遅れてるようだから、明日の午前中はゆっくり休みな」
「今日の夜には着いてるはずだろ、まったく。……まあいいや、宿舎を借りるよ。宿泊料とかはつけといて」
「ああ、ゆっくり休みな。あとで酒と煙草と毛布を届けさせるよ」
「ありがと」
中年の郵便局員が差し出した煙草のパックを受け取り、ヨハンは郵便局の外へ出る。
外はもう暗がりになっていた。太陽は夜から逃げ切り、西の地平線に没し、東からは月が上がっている。何人もが魅せられるほど、月は美しく、その光は心地よい夜風のように身体に染みる。その月明かりの中、夜間飛行を試みる郵便飛行士と、郵便飛行機の一群がエプロンに並び、戦いに身を投じようとしていた。世界を等しく統べる夜と甘美なる月の下、郵便飛行士はぼんやりとしたラジウム光を放つ計器を見ながら、飛ぶ。
それは困難な道のりだ。ヨハンもそれを知っている。誰もが挫折し恐怖を感じる、厳しすぎるほどの道のりなのだ。視界も少なく、天候は読み辛い上に、もし重大な故障が発生していざ不時着しようとしたところで、暗闇から待ち構えていたかのように巨木がふっと現れて、次の瞬間、飛行機ごと飛行士を叩き潰すことだってある。そんな夜の海もかくやという中を、一人で、あるいは二人で、あるいは三人で、ちっぽけな飛行機に乗って飛ぶのだ。誰もが言うことだろう。彼らは月に魅せられたのだと。だが、違う。ヨハンたちは月に見せられたのではなく、空に、そして人間の営みの流れの中に、希望を見出しただけに過ぎないのだ。八百万の感情、八百万の文章が、飛行士たちの翼に乗せられ、届く。その心に、身体に、視界に、それは届くのだ。
「………月に魅せられて、か」
そのために飛行士たちは月のせいで狂って夜中飛び、墜死する。それがまるで馬鹿にされているように聞こえ、ヨハンは口元を歪め、咥えていた煙草を吸い、紫煙を吐く。両手をポケットに突っ込み、染み出してきた疲労で何度か眠ってしまいそうになりながらも、彼は宿舎に入り、煙草を消し、部屋に入り、私物の入った手提げ袋を傍らにベッドに倒れ込んだ。
まどろみの中、飛行士はふわふわとした心地よい浮遊感に包まれながら、眠りに落ちた。




