【越境飛行】―Illegal Move―No.4
月光に照らされ、ケボーロフは霞む視界に苛立って頭を思い切り搭乗席の縁に打ちつける。
血が足りない。血を流しすぎた。身体を動かす―――、いや、心臓を動かすだけの血がなくなっているのだろうと、ケボーロフは知った。もう手足の感覚はなく、身体が延々と繰り返してきた飛行という行為を繰り返しているだけに過ぎないのだ。しかし、しかしだ、ケボーロフはもう身体の半分以上の血が抜けたのではないかと言うような恐怖は、全く感じなかった。むしろ、血が抜けたことで軽くなったと思えた。 どうしてそう思えたのかは、まったく分からないし、根拠もない。けれど、そう思うことが出来た。
「前へ進め、ブレゲー………俺の人生の集大成が、この飛行なんだ……。俺は、墜とさない。この飛行は、俺だけのものじゃないんだ」
歯を食いしばる力もない。意識があるのが不思議だ。
ケボーロフは不意に、怒りを感じた。国は確かに裏切った。でもそれがどうしたというんだ。〝彼女〟は自分を裏切り続けて、やっと自分として生きられる道に踏み出せる、その地点にやっと辿り着いたのだ。厚く垂れ込めた雨雲が天蓋を覆う、長い長い雨の中から、やっと抜け出す事が出来たのだ。それだというのに、奴ら裏切りと切り捨てるのか。
もう残された血液も、体力もケボーロフにはない。身体は既にボロボロで、誰がどう見ても匙を投げるような状態だった。だが、ケボーロフは飛んでいる。飛び続けている。どんな動物でも成し遂げないであろう飛行を、淡々と続けている。
最終的に、こういう終わり方になるんだなとケボーロフは思いながら、心の中で〝彼女〟に謝った。もうこの飛行で、生きて返れるとは、思っていなかったのだと。
そして謝った後、思いつくだけの弱音を一気に吐き出した。俺はお前と一緒に生きたかった。俺はお前が自分自身のためだけに生きていくのを、その隣でのんびりと眺めていたかった。お前が傍に居てくれれば、それだけで嬉しかった。それ以外の事は、もっともっと嬉しくて――楽しくて、幸せだった。もっともっと、そういう時間が欲しかったのだと。
「……結局は、馬鹿なんだなぁ、俺は」
遣り切れない思いを無視することもできず、飛行士はそう呟く。
後悔も、未来へと馳せた幸せの夢物語も、優しい微笑みも、生き残ることの大切さも、死への恐怖も――ケボーロフの中を過ぎ去り、すべて消えていった。せめて〝彼女〟だけは幸せにしなければならないと、幸せにならなければ、こんな世界は嘘だと。
『―――ケボー、ロフ? どうかしたの?』
鈴のような音がする。幼すぎる声がする。呪われた血と聖なる血を受けついだ子の声が、耳に響く。
「いえ……、なんでも、ありませんよ……。あと少し、我慢してください……。そうすれば、大地に………ブガレストクに、やっと……」
目が霞む。声が遠のき、鉛のように重い体の感覚が徐々に薄れ、疲れ果てた身体を寝床に横たえるときのような感覚がケボーロフを包む。そのまま感覚に身を委ねてしまえば、どれだけ楽だろうかと彼は思う。きっと自分は救われるだろう。こんな痛みきった身体を捨て、魂だけの存在となれれば、しがらみなど捨て去り天上へと昇ることができるだろう。
だが、それではだめだ。自ら信じる。俺は救いなど求めてはいない。しがらみを捨て去る気などない。楽など元より望んでいない。飛び続ける。〝彼女〟のために。そのためだけに。
悔しさが、惨めさが、悲しさが男をつくる。ケボーロフは男だ。だが、それだけで彼は満足しない。強大な敵こそが、ちっぽけな男を真に偉大な男にする。であるならば、ケボーロフは戦わなくてはならない。自分と言う敵と、最期まで戦わなければならない。
「………ドーラ、すまねえな」
もう、お前に会わせる面がねえと呟き、ケボーロフは血を吐く。
しかし見よ。彼の眼前には、ブガレストクの灯火が燦然と輝いている。
・ブレゲー14
第一次世界大戦後期にフランス軍に正式採用された爆撃・偵察機。
機体性能が優秀で、戦後は郵便輸送初期の黎明期を支えた。
木材よりも金属を多量に取り入れた設計のため、頑丈で大量生産ができ、かつ大振りな機体であったにも関わらず、高速かつ機敏で、操縦性も素直だった。




