【戦う飛行士】―Pawn Roller―No.1
ドーラへの経過報告をしようと、ヨハンは飛行場の電信係にブガレストクに無事着陸したこと、積荷を無事送り届けたこと、飛行所要時間などを書き込んだメモと料金を払い、それをバンナウィッツ飛行場まで電報で送ってもらっていた。
「……最近はお隣のルージアが内戦状態でさぁ、おちおち夜間電信係なんて仕事してていいのかなって思うんすよ。ただでさえついこの間まで戦争でしたし」
「でもさ、貯えがあるわけでもないんでしょ?」
「んまぁ……、あるっちゃありますけど、ないも同然ですね」
分厚いダッフルコートに身を包み、口に鉛筆を咥えながら電鍵を叩く青年と話しながら、ヨハンはそこら辺の椅子を引き寄せて座る。机の上に置かれたカンテラの優しげな灯りが、そばかすだらけの青年の横顔をおぼろげに浮かび上がらせていた。
痩せた木から切り出したと思われる粗雑な作りの机の上には、電信に必要な機材一式と、使い終わったメモ用紙、まだ使っていないメモ用紙が山のように積みあがっている。鉛筆を削るためのナイフは机に垂直に突き刺さり、錆だらけの灰皿は吸い終えた煙草が積み重なっていた。机と同じようにあまり良くない木材で建てられた小屋には、それ以外にあるものといえば、メモ用紙を焼却するための薪ストーブくらいなもので、ストーブの上には茶を淹れるためのポットが置かれている。
「………ヨハンさんは、前の戦争の英雄だったんすか?」
「電報は?」
「打ち終えました。返事が来たらすぐ翻訳します」
「そう。なら時間はあるわけか」
背もたれに寄りかかり、ぷかぷかと蒸気船のように煙草を吹かしながらヨハンは言う。ぼんやりとした目つきは、どこを見ているのかよく分からない。天井の汚れを見ているのか、天井のさらに上を見つめているのか、それとも、こことは違うどこかを見据えているのか。
そんなことを考えていた電信係の青年は、突如ハッとして、ストーブの上からポットを取り上げた。それを慣れた手つきでカップに注ぐと、小屋のなかに仄かなハーブの匂いが漂う。ポットの中身は、ハーブティーだったようだ
「――僕はね、英雄なんかじゃない。他の飛行士たちの買いかぶりだ。他の連中だって、ゲルマニアやルージアで飛んで生き残ったんだ。僕だけが特別ってわけじゃないよ」
「でも、激戦を経て終戦まで五体満足で生きてた飛行士って、ヨハンさんがいた部隊じゃ片手で数えるほどで、……その中でもヨハンさんは撃墜スコアが飛びぬけてたって話でしたよ?」
「それは事実だけどさ。だからって、僕が戦争の英雄ってわけじゃないよ。本当の英雄っていうのは、もっとかっこよくて逞しい奴のことを言うんだ。ギンヌメールとか、フォンクとか、リヒトフォーヘンとかヴェルケとかね」
「……まあたしかに。こう言っちゃ失礼かもしんないですけど、ヨハンさん華奢でひょろってしてますもんね」
「うん。重くてもいいことないからね、この仕事」
カップに注いだハーブティーを飲みながら電信係の青年が言うと、ヨハンはくすりと疲れたような笑みを浮かべ、煙草を吸い、ゆっくりと紫煙を吐く。紫煙は隙間風だらけの小屋の中を、往く当て無しにぼんやりと漂い、ふっとどこかへ掻き消えてしまった。
ぱちぱちと、ストーブの中の薪が乾いた音をたて、小屋に吹き込む隙間風が楽器のようにか細く鳴る。遠くからは夜間飛行を試みる郵便機のエンジン音や整備員たちの掛け声が響き、虫の音が時折訪れる静寂を彩っている。それは東欧の片隅、戦争から復興し始めたような街並みの息遣いのようだ。
ハーブの匂いが鼻を擽り、ヨハンのモノクロにくすんでしまった記憶に色が付きかける。鮮明に思い出せるあの頃の記憶が、色を取り戻しヨハンの中に戻ってくる。ガリアの田園風景の中を駆ける、無垢な少女の笑顔が浮かぶ。花畑の中、清清しい青空の下で過ごした人間らしい彩の日々が。モノクロではなく、すべてに色と生命が与えられた動きのある世界が。だが、しかし、ヨハンは煙草を吸い、香草が燃える匂いでそれを掻き消した。懐かしい日々が遠ざかり、戦争の記憶が飛び去り、写真の中へと戻っていく。染み付いた煙草の匂いが、ヨハンを今、そして戦争の後を生きる自分に引き戻す。郵便飛行士という、ちっぽけな流浪の肩書きをひっさげた、ただのヨハン・ボドギンへと。
「あの、こんな質問するのも変ですけど………もし隣から革命だ、民族だ、独立だなんだって、軍隊が攻めて来たら、どうしたらいいですかね、俺」
「その時は逃げるしかないよ。君は軍人でもなんでもないし、ただの電信係なんだし。軍に徴用されるのが嫌ならいの一番で逃げ出せるようにしないと。逃げ遅れると大変なことになる」
「た、大変なことって……?」
ごくり、と唾を飲み込み、カップをぎゅっと握り締める電信係の青年に、ヨハンはぷかぷかと紫煙を燻らせながら、遠くを、もしくは過去を思い返すような目をして言った。
「死にたくても死ねないような目にあったり、死にたくなるような目にあったり、死ぬような目にあったりするよ」
「それって、ヨハンさんの実体験からくる忠告、ですか?」
「……僕じゃないよ」
煙草を吸い、赤い火が薄暗い部屋の中でぼんやりと光る。じっと息を潜める電信係の青年に、ヨハンは目を向けてそっと紫煙を吐き出す。
「僕と一緒にいたガリア娘がね、そうなったんだよ」
「え………」
「良い娘だったんだ。よく笑って、よく僕らに悪戯して、でもね、綺麗で可愛くて健気な娘でね。僕はその時、今よりもっともっと若くて、夢見がちだったからさ、一緒にブリタニアに行こうって約束してたんだ。ちょうどね、戦線が逼迫してた頃だよ」
「それで―――」
「僕らは一度撤退した。飛行場もなにもかも置き去りにして、飛行機と鞄、そして身一つで逃げ出したんだ。それで数年たって戻ってきたときには、飛行場も家もなにもかもなくなってた。家があったところには、なんだかよくわからなくなった死体が二つ分あったよ。砲撃だと思ったんだ、最初は。でも、違うんだ。そんなんじゃなかったんだよ。酷い死体だった。でもその髪は、その手は、その娘のもので間違いなかった」
ヨハンの紡ぐ言葉は、まるで復讐を決意した男の言葉のようではあったけれど、そこには怒りも憎しみもなく、ただ淡々と起こったことを、覚えていることを話しているだけだった。
西部戦線の思い出はヨハンの中でモノクロとなっている。血の赤も炎の赤も、どれも同じような白黒に塗りつぶされている。牛乳に蜂蜜を混ぜ込んだような色合いの肌が、まるで蝋人形のような色に変色していたことも、白と黒で大雑把に記憶されているだけに過ぎない。
だから、今更思い出したところでヨハンは特別なにかを感じることはなかった。嘆き悲しむ日々は、昔にあった。毎日が地獄のような日々、悲しみにくれ、悲愴という言葉の意味を噛み締めた日々があった。それが過ぎ去り、ヨハンは知った。どんな苦しみにも終わりがあり、永遠と言う苦痛はないのだと。
「……すいません、そんなことを聞くつもりじゃなかったんです」
カップを机の上に置き、電信係の青年は静かに言った。あきらかに聞いてはいけないことを聞いてしまった、というような表情をして自分の発言を悔いている。
それをぼんやりとした目で見つめ、ヨハンは口元に珍しく笑みを浮かべて言う。
「良いんだ。僕が目にしたこと、耳にしたこと、体験したことが、誰かの教訓になるのなら、これに勝ることはないんだから。それにもう僕は気にしてないよ。もう、あの娘の名前すら思い出せなくなってしまったのだし」
それは嘘でもあったし、本当のことでもあった。ヨハンにとってその思い出は過去の自分というフィルターを解して見る無声映画であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。ヨハンは映画館の席に座り、銀幕を見ながら第三者の活弁士が喋っている内容を聞いているだけだった。ヨハンはその映画の主役になるのなんて真っ平だと思っていた。その映画の主役が自分であり、その映画は自分の過去なのだということも、忘れ去りたかった。だがそれはできないのだ。記憶は忘れ去られぬ限り、記憶され、思い出され、連想させ、噴出する。制御できない感情の濁流が記憶からは生まれる。ヨハンはそれを嫌った。今の彼は過去の自分を遠目に見る傍観者だった。
単純な、酷い映画だ。序盤では勇ましい戦士たちが晴れ晴れとした笑みを浮かべ、皆々がそれを祝福し戦場へと向かう。馬が大地を駆け巡り、歩兵が逃げ惑い、騎兵は勝利を確信する。しかしそれは演出だ。決定的な敗北を、時代の流れを印象付けるための、演出なのだ。すぐに騎兵たちは機関銃陣地の前で蹂躙され、泥だらけの地面へと突っ伏したまま動かなくなる。そうして死が、画面上を覆い隠していく。
ぎこちない動きでカップを煽る電信係の青年を見つめながらも、ヨハンはこの小さな、電信係の青年の城とも呼べる空間の中に、遠き日々の思い出を見出している。煙草の赤い光が薄暗い部屋の中に浮かんでいる。談笑が、咳が、分厚い飛行服が擦れ合う音がする。蓄音機が小さな音で交響曲を奏で、ストーヴの暖かさを求めて皆が寄り集まっている。けれど、それは昔のことなのだ。ここには、ヨハンと、そして電信係の青年しかいない。
「しかし、遅いものだね。電信には深夜番が着いているはずなんだけど」
「うーん……バンナウィッツの職員に限ってそんなことはないでしょうから、多分どこかで電信線が切れたんですかね。電信線に面白がって石を投げる子供、いるんですよ。警官に見つかったらただじゃすまないのに、怖いもの見たさで」
「………こんな深夜に、子供が電信線を切るかな?」
持っていた指が熱くなるほど短くなった煙草を、ストーヴの中へと放り込みながら、ヨハンは静かに言った。首都とはいえ、子供が出歩いていい時間はとうに過ぎている。それは地平線に沈み、次の朝日が再び現れるまでやって来ない。夜に人間が生き始めるようになったのは、人間が光を生み出すことができるようになってからのことで、人類史からしてみれば、極最近のことだ。夜という未開の世界は、それでもその短時間で制圧された。けれど、夜の空は別だった。夜の空は未だ、ヨハンたち郵便飛行士たちや、戦闘機、爆撃機パイロットに制圧されていない。そこは未だ、見えない怪物の住まう空だ。
どうなんでしょうね、と相槌を打つ電信係の青年に、ヨハンはまた警句を口にしようとしたが、それを喉の奥へ引っ込めて、耳をそばだてる。
「どうかしましたか?」
「夜間飛行機だろうけど、主機の音が変だ。気筒が死んでるような音がする。ちょっと見てくる」
「分かりました。それじゃ、バンナウィッツからの電信が来たら飛行場の方にいきましょうか?」
「君には君の仕事がある。僕は飛行士として行動するだけなんだ。君までそれに倣う必要はないよ」
ヨハンはそう言って立ち上がると、扉を開けてすぐにそこを出た。突き刺すような寒さが彼の肌に纏わりつき、ハーブの匂いや煙草の香りが消えうせた。そこにあるのは草と燃料の匂い、そしてアルコールやオイルの匂いだ。飛行場というのは、そういう危険な匂いが重なり合っている。
「……まさか」
徐々に大きくなってくるエンジン音を聞きながら、ヨハンは滑走路へ向けて走った。そのエンジン音は昔、聞いたことがある。ドイツの戦闘機から機関銃弾をいくつも貰って、ぼろぼろになりながらも基地へ向かって飛行を続ける僚機。エンジンからはオイルが染み出し、搭乗席に座る戦友は大声でガソリンが入ってきた、爆発する、もっと離れろと怒鳴っている。ヨハンはそうした。僚機は基地までなんとか辿りつき、着陸しようとしたところで燃え上がって、爆発した。
このエンジン音は、その時のものにそっくりだった。気筒がいくつか死んでいて、あちこちに機関銃弾の被弾痕のある戦闘機、あるいは単発の軽爆撃機のものに。
一瞬、ヨハンの中の映画が銀幕から飛び出し、彼を飲み込もうとした。けれど、気がつけば銀幕の中に映画は戻っている。ヨハンは冷静だった。擦り切れていた。だからこそ冷静でいることが出来る。




