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【越境飛行】―Illegal Move―No.1

 国境を越え、それを跨いで飛んだからと言って、すぐさま軍隊がやって来るわけではないということをヨハンは知っていた。


 飛行機と言うものはやはり我がままな女性のようであり、出かけるぞと言ってすぐ外に連れ出そうとすると、怒り狂ったり、ぐずぐずと露骨に乗り気でなく見せたり、うんともすんとも言わなくなったり、癇癪を起こして分厚いあのガラスの灰皿で後頭部を殴ってくるように、飛行士たちを様々な方法で殺しにかかってくる。常日頃からきっちりと愛情と熱意を込めていても、気紛れな女性は時折その愛情と熱意から目を背け、自分の欲望のままに振舞おうとするものだ。そんな時は仕方なく、扱いとあしらい方が上手い整備員を呼んで、機嫌を直してもらうしかない。そしてそうしたトラブルと言うやつは、急いでいる時に限って起こるものなのだ。


 ポルツキ国の東部にあるバンナウィッツ飛行場から飛び立ち、おおよそ二百キロほど飛行を続けた後、朱嘴号はルビンの飛行場で給油し、ルージア国国境を跨いで一路ダキア王国へと向かっている。戦争で革命騒ぎが起き、王室が斃れ各地で反乱が起きているルージアの内情を詳細に知ることは、できないも同然だ。


 丘では歩兵たちが小銃を担いで、昨日まで肩を並べていた友人と戦うためにあちこちに向かっているだろう。同じ言語、同じ人種、同じ国家に所属する人間であっても、主義主張が異なればそれだけで殺し合いになるのだ。たった一つ異なるだけで、人は人を殺すことが出来るのだから、異なる人種、異なる言語、異なる国家、異なる主義主張、異なる宗教を持った相手とは、もっと簡単に殺し合うことができる。


 誰もが戦乱を望んでいるわけではないのに、そうなってしまうのだ。それは平和を望む人々が、すべてが平和の下に終わると、平和そのものの信者と化しているからだと、ヨハンは思っている。平和と言う宗教が、見たこともない戦争から身を守ってくれるのだと、あちこちで嘯いている人が居るのを、ヨハンは見てきた。火の玉になって地面に叩きつけられる飛行士や、銃弾で瀕死の重傷を負った兵士、砲弾で半身が吹き飛ばされた馬に対しても、彼らは同じことを言うだろう。そこに居ない彼らに、彼らは問いかけることが出来る、宣言することが出来るといって、意思の強固さを塹壕線に喩える。知りもしない穴倉と機関銃座のように、我々の意思は強固だと、彼ら平和の信徒は叫ぶ。


 だが、しかし、彼らは神に祈りを捧げる信徒のように、平和にも祈りを捧げるのだろうか。


『ペトリューラ空軍、ムカチェーヴォ艦隊基地より国籍不明機へ。ペトリューラ空軍、ムカチェーヴォ艦隊基地より国籍不明機へ。貴機の飛行目的を明かされたし。送れ』

 

 ふいに、通信機が雑音交じりの声を吐き出す。ドーラの心配していた例の空軍か、とヨハンは思いつつ、白いマフラーで隠れた喉頭マイクを手で押さえて、マイクが喉にごつごつと当たるのに顔を思い切り顰めながら、ぼつぼつと言った。


「東方郵便機。東方郵便機。本機の飛行目的は、ダキア・ブガレストックへの渡航なり。積荷は郵便物、少量。送れ」

『我が領空における所要飛行時間を知らされたし。送れ』

「こちらの航法がたしかならば半時間程である。送れ」

『―――了解した。終わり』

「東方郵便機。終わり」


 喉頭マイクから手を離し、通信機のダイヤルやスイッチを弄りながら、ヨハンは溜息を吐き、独りごちる。心配するほどのことじゃないと。

 ペトリューラ将軍率いる空軍の主力は、四つのエンジンを積んだ巨人機、スヴェトーイ・ゲイオルギィー型爆撃機に、その護衛戦闘機として設計されたS-16戦闘機だ。大柄で低速なスヴェトーイ・ゲイオルギィーに合わせるためか、はたまた、単純にエンジンの製造技術の未熟さ故か、S-16の機速はそこまで早くない。

 

 機体の重さに反してエンジン馬力が足りていないため、いつも泳ぎ方の下手糞な魚みたいにあっぷあっぷしている。少しでも機敏に動こうものなら、それまで溜め込んでいたエネルギーが一気に使われてしまい、へばってしまう。息切れした戦闘機ほど仕留め易いものはないから、その時点で飛行士は死んだようなものだ。


 朱嘴号は違う。彼らが今ここにいたとしても、ヨハンは鈍足な戦闘機と《空中戦艦》とも形容できそうな、スヴェトーイ・ゲオルギィーから逃れることができると確信している。彼らは遅すぎる。ヨハンと朱嘴号は、彼らよりもずっと速い。強力なエンジンでプロペラを廻し、経験と直感に裏打ちされた巧みな操縦で銃火を避け切り、経験不足なペトリューラの飛行士たちを嗤うことも出来る。ここに機関銃があれば、彼らのことごとくを凌駕しつくし、空の恐怖と悪夢を最期の記憶として刻みつけることも出来よう。しかし今、ヨハンは戦闘機乗りではないのだ。今、ヨハンがやるべき使命は、積荷を無事に目的地に運ぶこと。ただそれだけなのだ。


「次の仕事は、パウルの捜索……かな」


 風に煽られる機体をなだめすかしつつ、飛行士は呟く。行方不明になった同業者を探すこともまた、飛行士としての仕事の一つ。大抵は雪に閉ざされた山の一角で不時着し、凍り付いて死んでいるか、尾根を上りきれずに失速して墜落する紙飛行機みたいにぐしゃりと潰れているかのどちらかだ。それでも飛行士たちは見つけようとする。共に語らった男だったものを、共に煙草を燻らせ、杯を交わして肩を組み合った人間だったものの残骸を、その飛行士の最期の瞬間まで共にあった飛行機とともに見つけ出そうと、知恵を絞り協力し合う。それができなければ、飛行士たちは遺体の発見の報が入るまで、いつもどおりに過ごすのだ。残骸が見つかるまで、奴は飛び続けているだけだと。


 口元の白いマフラーをぐいっと引き上げ、ヨハンは計器に目をやる。燃料計、速度計、高度計、コンパス、エンジン回転数、オイル温度計、水温計、気圧計、角度計、時計、水平器。すべて確認してから、気落ちする。やはりさっきから高度計の針が怪しい。細かく左右に振動していて、一定の位置で留まることがない。もちろん、飛行機という奴は一瞬だって停止するわけがないのでこの反応は正常とも言えるのだが、ヨハンはそこまで自分の機体が上下に揺さぶられているとは思えなかった。


 機体速度を落とすわけにもいかず、ヨハンは操縦環をぐいっと引き込んで機体を急上昇させた後、水平飛行に戻し、緩い角度で降下する。高度計はおおよそ千五百メートルを指したあたりで細かく左右に振動しているだけ。計器の故障だ。どうしようもない。幸いこの先の航路に山脈は控えていないため、この故障がすなわち死に直結するというほどの大問題ではない。だがそれでも、故障というやつは問題には違いない。人間に巣食う病原菌のように、故障は一度機上で起きてしまったらどうしようもないものだ。単発の単座機なら特に。


「………チェック、燃料、速度、高度、コンパス、エンジン回転、オイル温度、水温、気圧、角度、時計、水平器。……高度のみ故障。他に該当箇所なし。故障原因不明、か」


 計器にはめ込まれたガラスをこつこつと指先で突きながら、ヨハンは肩を落とす。

 飛行士は漁師のように迷信深い。天候が急転したり、故障が起こったり、些細なハプニングに遭遇すると、決まってこれはなにかの前触れではないかと警戒する。ヨハンもまたそうだ。彼はこの故障が遠くに見える小さな雨雲のように、気になるものになっている。地平線に見えていた小さな雨雲は、やがて物凄い速度で頭上まで到達し、無警戒の人々に雨と暴風と雷を浴びせかける。雨や雷を受けたくなければ、暴風で洗濯物を吹き飛ばされたくなければ、事前に備えておくのが一番だ。それができないのであれば、あとは自らの無事を天に祈って大人しくするしかない。


 けれど、祈る暇などない。操縦環を振り、ラダーペダルに掛けた足を踏ん張って風を受け流す。吹き荒ぶ風は地上では味わえないほどの冷気を孕み、それが銃弾のような速度で肌を撫で体温を奪う。澄んだ空気の中に、透明な刃物が紛れ込んでいるのではないかと思えるほど、寒い。ブーツと手袋の中で手足の指をしきりに動かしながら、ヨハンは操縦席の中で小さく丸まり、風防の影に隠れる。風音とエンジン音が心地よい子守唄に聞こえ、体の感覚が麻痺してしまいそうになるが、飛行士の意識ははっきりとしていた。手足の制御と、意識だけは手放さない。なにがあっても。手足と意識さえあれば、そして幾ばくかの視界さえあれば、飛行士は飛び続ける事ができる。


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