【東方郵便機】―Gambit―No.4
郵便飛行士の名前は、パウルだ。
ゲルマニア空軍の偵察部隊で高速偵察機を飛ばしていた。
ヨハンもあのそばかす交じりの赤毛の若者に会ったことがある。
ヨハンと同年齢だというのに両親の反対もあって従軍が遅れたのだという。
飛行士となった頃には戦争はもう末期に入っていた。
吸いなれない煙草を吹かしてはむせ返り、ビールを煽っては真っ赤になってはしゃいでいた。
戦争に反対した両親は、郵便飛行士を安全な仕事だと思い込んでいたのだろうか。
郵便飛行士とは、銃弾よりも恐ろしい自然の猛威に人間が立ち向かうというあまりにも愚かしい行為を何度だって繰り返さなければならない、自殺者か勇者、あるいは空に取り付かれた亡者たちの集まる仕事だというのに。
「スデーティ山地で連絡が途絶えたそうだよ」
ヨハンの視線に気づいたドーラは悲しみを孕んだ声で静かに呟く。
ドーラはこれからパウルの死亡を両親に宣告するために手紙を書かなくてはならない。
『ご子息は○○発××往何時発何時着予定の第何某番郵便輸送機と共にゲルマニアからベーヘン=メーヘン共和国に跨るスデーティ山地で消息を絶ちましたことをご連絡申し上げます』
という、お決まりの文章と共に、その生存が絶望的であることを通知しなければならないのだった。
「燃料はあとどれくらい残ってるかな」
溜息を吐くような声でヨハンが言った。
「どれほど節約したかにもよるが、おおよそ十分かそこらが限界だろうね。パウルの乗っていたブレゲー16に積み込まれた燃料から計算すると」
「運がよければこの飛行場の近くに墜ちているかもしれないってことだ」
可能性はないではない。
しかし、その可能性が万の一つのものだということをヨハンも、そしてドーラも知っていた。
期待してはならない。
死人は期待を受けても蘇る事はなく、ただ死という現実を我々に突きつけてくる。
いずれお前もこうなるのだという現実を、容赦なく真っ直ぐに。
まるで死体そのものが死神の使者であるかのように。
けれど、死体が見つかるだけましだと思わなければならない。
死体すら見つからず、まるで空に吸い込まれてしまったかのように消えてしまう飛行士もまた、この世には存在していたのだ。
「結局、パウルの運が良いことを祈るしかないか」
しばらくすれば帰ってくるさ、とヨハンは言わない。
しばらくしたって、時間がなにもかもを流し去ってくれるわけでもなければ、時流によって忘却してしまうわけでもない。
時間はなにも流し去らない。
時流は記憶を忘却しない。
いつだって忘れるのは人間の方だ。
しばらくすれば、なんていうのは、死んだ人間を死なせてやらないということだ。
記憶の中ではまだ彼は生きているといって、その頭蓋の中で怠惰に生きながらえさせていく。
蜻蛉の一生のようにうたかたな存在である人間の生き様を祭り上げたところで、生きながらえさせその生存をぼんやりと信じたところで、救われるのはその人間の精神だけであって、死んだ人間ではないのに。
ヨハンは滑走路から格納庫の中へと目を移し、木製四翅プロペラを回しながら機嫌よく騒音を撒き散らすウォルズリー・ヴァイパーピストンエンジンに胸をときめかせた。
二百馬力を発揮するこのエンジンはいつだってヨハンの戦友であり、相棒であり続けている。
ただ質の悪い燃料を入れるととすぐ機嫌が悪くなるものだから、ヨハンを困らせることも多々あった。
戦時中などは臍を曲げてしまったヴァイパーエンジンが自殺しないようにあの手この手で慰めながら、失速墜落の危険に耐え、なんとか飛行場に帰ったことも何度かある。
そういう時に限って、けちな士官が燃料槽の底に溜まっている員数外燃料を戦闘機に給油したとか、パリのガスステーションから貰ってきたとか、そんなくだらない理由で泥水にも等しいガソリンをヴァイパーに飲ませていたりするのだから、死ぬに死に切れない。
パウルもそんなくだらない理由でどこかに墜落してしまったのだろうかと、ヨハンは思う。
誰かが良かれと思ったこと、こんなもので良いかと思ったことでエンジンが機嫌を悪くし、飛行士を戸惑わせ郵便機を振動させ、心中しようとする。
平静を装って飛行士がエンジンを宥めながら不時着しようとすれば、今度は母なる大地が飛行士の眼前に広がるのだ。
寛容な母にしか見えなかったあの大地が、不時着というここ一番になって信じがたいほどの凹凸や岩、木や草といったありとあらゆる障害物を持って飛行士を殺しにかかってくる。
跳ね上がりそうになる郵便機を地面に押し付け、尻を蹴飛ばされ頭が首の中に引っ込みそうな衝撃に耐え、不時着は成功するかもしれない。
あるいは全身が潰れるような衝撃を最期に、飛行士の運命はそこで潰えるかもしれない。
「戦争よりは、良い」
どこか遠いところを見るような目で、ヨハンは呟く。
血の四月は酷かったと、彼は脳裏に浮かぶあの惨劇を思い出す。
一回出撃するたびに誰かが死んでいた。
名前を覚える暇すらない。
気がつくと誰かがいなくなっていた。
いつ自分の番が来るのかと誰もが内心怖がり、そのうちなにも感じなくなっていった。
一度戦いに赴くたびに死に段々と近づいていくのが感ぜられた。
その輪郭も感覚も感触もなにもかもが理解できるようになっていき、生死溢れる地上が煩わしく、しがらみや慣習に縛られた生き方が馬鹿らしくなっていく。
そうして荒み、飛び続け、エネルギーを使い果たして生き残った一握り。
ヨハンは、その中の一人だった。
けれどヨハンは今でも戦争の始めの頃の楽しかったことをすべて思い出すことが出来た。
ユニオンジャックを振るう可愛らしいガリア娘たちや、ガリアのとても澄んだ夏空や、歓声を上げる大人たちや子供たちや、ワインの香りに包まれたあの宴会場を。
ズンチャカと騒がしく音色を叩き出すピアノや下手糞なヴァイオリンの響きを。
昂揚で赤らんだ肌を酒で真っ赤にし、酔い潰れて床で寝る男たちを。
だがその日々も終わりを告げ、思い出の世界はブリタニアの空のように曇り出す。
しとしとと雨が降り始める。
単独飛行をし、空の上で命がけのダンスを演じ、そして引き金を引いて人を殺す。
何度も何度もダンスを踊り、何度も何度も引き金を引いて敵を叩き落してきた。
それでもヨハンは楽しかったことのすべてを思い出すことができた。
苦しかったこと、悲しかったこととまた同様に。
すべてをまだ、しっかりと思い出すことができた。
「離陸前点検が終わりました」
オイルで汚れたツナギを着た整備員がエンジン音に負けじと声を張り上げる。
ヨハンは頷いて手提げ袋を背負いながら、朱嘴号のタラップに足をかけ、その操縦席に滑り込む。
計器を一瞥し環状操縦桿を上下左右に振り、ペダルを踏む。
すべての動翼が動作することを確認し、ヨハンはぼんやりと佇むドーラに敬礼してみせた。
ドーラはそれを見て文民の敬礼を返す。
二人の間に別れの言葉などいらなかった。
「お気をつけて!」
整備員の一人が両手をメガホンのようにして叫ぶ。
巡業曲芸飛行士たちにもそうしているのかなとヨハンは思いながら、サムズアップでそれに答えた。
スロットルを絞り、整備員たちの声を背に受けながら滑走路へと出る。
プロペラトルクに負けないようにラダーをペダルで操作し、機速が上がったところでピッチアップ。
地面の凹凸で殴打されていた尻が座席に収まり、振動が消える。
機体を支えていた主脚は重力から解放され、からからと空回りしている。
唯一、ヴァイパーエンジンと手紙だけが、ヨハンと共にあった。
太股のマップケースに入った航路図を今一度確かめ、ヨハンは操縦環を右へ倒し、旋回する。
風を味方に、その背中に乗るようにして、彼は旅立つ。
透明な足跡を辿り、道端に無名の墓石が立ち並ぶ航路へ。
いつもそうしてきたように、今日もまた彼の旅が始まる。




