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【東方郵便機】―Gambit―No.2

 冷たく隔絶した空を渡って来た体は凍えきっていた。

 バスタブに張った湯に体を滑り込ませると、まるで自分の中にあった氷が溶け出していくような錯覚を覚える。

 飛行機の排気管から漏れ出す青白い燃焼炎。

 ぼうっと光る計器たちに囲まれ、無数の星たちに見下ろされながら、幾百キロを飛んできた疲労が体から染み出し、湯の中に溶けて行くかのようで、ヨハンはしばし眼を閉じ、眠りたくなるのを堪えた。

 湯気が部屋の中に充満し、空気がまるで彼を労わるかのように暖かく水気を帯び、包み込む。


 絶対なる孤独の中飛び続けることは、それこそ大航海時代の船乗りのように、危険即ち死と隣り合わせの行為であり、こうして感じるささやかな母性的感触でさえ、ヨハンは楽しみ、味わい、そして一段と増した倦怠感に表情を曇らせる。

 たしかに水気を帯びた空気はヨハンを包み込んだが、それでは重い。

 微細な重みが空への渇望を押し潰さんとし、それに耐え切れなくなったヨハンはバスタブから立ち上がるとすぐに服を着て自室へ戻る。




 飛行機乗りという職業は、多種多様な人種人格を引き寄せる。

 その中でもヨハンはストイックな嫌いがあるから、部屋の中も私物が異様に少ない。

 もともと飛行士という奴は決まって誰かかなにかの都合であっちこっちに住居や部屋を移すもので、荷物を少なく最低限に留めるというのはとても合理的な判断ではあったけれども、ヨハンの場合はそれが過剰で、彼の荷物といえば、ボロボロになった付箋だらけの地図が数冊と、古びたアルバムが一冊、拳銃が一丁、銃剣が一振り、新大陸軍の欧州遠征軍兵から貰った食器セット(メスキットパンと彼らは呼んでいた)くらいなものだ。

 キャンバス地のナップザックにそれらを突っ込めば、ヨハンは着の身着のままどこへでも行ける。

 住む場所も食べるものも、最低限、貧相で質素な、簡単なものを好む。


 ドーラが思っていたように、やはりヨハンは子供だった。

 それは子供がなにかに憧れを抱くように、彼はやはり空に憧れと思いを馳せているからだろう。

 決して空が綺麗だとは言えない、むしろ空は汚れているといって良いかもしれない。


 けれど、それでもまだ人間が汚しきっていない空は頭上に広がっているのだ。

 ヨハンは、恐らく生涯を終えるまで手の届かない高空の蒼に手を伸ばし続けているに過ぎない。

 まるで子供のように純粋に、しがらみに囚われず、障害に打ち負けず、断固としてしなやかに、頭上に広がる雲上の夢を胸に抱きながらヨハンは生きて飛んでいる。



「………」



 だから、地上には、地上で歩いている限り、しがらみだけしかないように思えて仕方がない。

 地上というのは、どこにいっても重力で僕らを縛り付けている看守のようなものだ。

 いつも僕らを見上げて、踏みにじられてもなにも言わない不気味な奴だと、ヨハンは思う。


 母なるのは海であって空であって、地上にあるのは人間が住む土地、田園、その他なんだかんだ。

 ヨハンはそれらを見る。

 空から、数百キロの速度で飛びながら、目的地へ向かうために。


 ただ、地上はそれだけにあればいいと思う。

 他に地上というやつは、いいところがない。

 しがらみばかりで、気がつくとなにかに束縛されている。


 それが地上だ。

 まだ世界が戦争をしていた頃は、空にさえしがらみがあった。

 けれどそこには、互いの技量だけを認める極端な騎士道が存在していて、年功序列なんてものは存在せず、ただ己の腕前を遮二無二ぶつけ合い、死ぬか生きるかの戦いに興じ、束の間の生に喜びを感じることができた。


 年齢と空論だけで驕っている人間はすぐにイカロスのように墜死するか、火達磨になって彗星のように、かつては牧草地だった地上へ墜ちていく。

 月の表面みたいになってしまった地上は美しさもなにもなくて、空しくなるだけだった。

 あれが地上の本性だとヨハンは思っている。


 あれが地上の、そして人間の本性そのものなのだと。

 砲弾で抉れた地面に死体が溜まり、肥え太った鼠が腐臭を放つ水溜りを這いずり、ブリキの兵隊のように生身の男たちが銃を抱えて鉄条網と塹壕で守られ、機関銃で武装した敵の前線へよろよろと向かって、バタバタと銃弾の雨に薙ぎ倒され、死んで、腐っていく。


 それがヨハンの眼下に広がっていた世界、つまりは、地上だった。

 ヨハンがそれまで信じていた美しい風景や騎士物語の栄光は、そんな地上の地獄を見下ろした瞬間に砕け散り、風に流されて消えてしまったのだった。

・塹壕戦


 塹壕が海岸から中立国のスイスまで掘り進められると、数百メートルの前進に十数万の人命が消耗される防御側絶対優位の塹壕戦が始まりました。以後、数年間はこの塹壕と塹壕の間の『中間地帯』と言われた地域や各地の主戦場は、数万発の砲弾によってそれまでの景観が文字通り消滅しました。


 草木は吹き飛び、クレーターだらけの土地に雨が降り注げば、そこは泥で支配され、兵士たちは泥だらけになりながら砲弾と銃弾の雨のなかを進み、鉄条網の壁を抜け、敵の塹壕へと突撃することもありました。そうした戦場では、もはや機動力がどうのこうのという理論は通用しませんでした。


 また、航空戦においても人命の流失はすさまじく、例としてはイギリス航空隊の飛行士たちの平均寿命は、配属から二週間ほどであったそうです。

 撃墜されるならまだしも、当時は事故もまだ多く、敵に殺される前に機体に殺される飛行士もいたでしょう。

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