【東方郵便機】―Gambit―No.1
星が地面を流れ、滑り、去っていく。
それは眼下を流れる人工の光、人類の灯火だ。
町がやってきた。やっと科学の恩恵に預かる土地へと帰ってこれたのだ。
時速は百九十キロ。
高度、二百メートル。
二百馬力のエンジンが機首で四翅の木製プロペラを回す。
、胴体から伸びた上下左右四枚の羽根が風を掴み、
胴体からすっと伸びた尾部の方向舵と昇降舵が流れる風を受け流す。
蛍光塗料のぼうっとした明かりで浮かび上がる計器類を見ながら、飛行士は白いマフラーをくいっと持ち上げ、口元を覆い、震える手足で環状操縦桿を握り、スロットルを絞り、ペダルを操る。
燃料タンクにたっぷりと燃料を給油して飛び立ってから、すでに一時間。
元々航続距離が長い方ではない戦闘機を改装し郵便輸送機に仕立てたので、燃料に余裕がない。
そのため、急ぎながら低燃費飛行を続けてきた。
飛行士の努力もあり燃料計のメモリはまだ右に傾いたままだ。
それは燃料に十分に余裕がある、ということを意味している。
メモリが左に傾いていた時は、すぐに不時着できる飛行場を探した方が良い。
特に燃料警告灯が赤く点灯している場合、一刻の猶予を争う。
だからこうして燃料計を見て成果を確認すると、エンジンの出力を下げて燃費を低く保って飛んできた甲斐があったものだと飛行士は嬉しくなる。
自分が思うように機を操れているのだという証拠が、すぐそこにあるのだから当然だ。
『バンナウィッツ飛行場。定時連絡、東方郵便機。バンナウィッツ飛行場。定時連絡、東方郵便機。送れ』
雑音交じりの声を吐き出すのは、オンボロの通信機。
鉄色で箱型の、あれこれメータやダイヤルがついた物々しい玩具箱みたいな外見をした故障の多いラジオだ。時折、雑音しか聞こえなくなるけれど、適度な強さで叩くと直る。
適度ではない強さで叩くと、雑音すら聞こえなくなることで知られている。
今夜は調子が良いようで、雑音は混じっているけれど目的地の飛行場からの通信がよく聞き取れた。
「東方郵便機。東方郵便機。市外上空、バンナウィッツ飛行場。着陸灯点灯準備願う。送れ」
飛行士は白いマフラーで隠れた喉頭マイクを手で押さえる。
マイクが喉にごつごつと当たるのに顔を思い切り顰めながら、飛行士はぼつぼつと言う。
声帯の震えをそのまま音声にする喉頭マイクはエンジン音と風の音をシャットアウトしてくれ、飛行士の声だけを相手に伝えることが出来るものだけれど、飛行士はこの喉頭マイクの形が気に入らなかった。
喉にごつごつ当たる。
そんなものをずっと付けていると、空を飛んでいるのに首輪でもつけられたような気分になるのだ。
『バンナウィッツ飛行場。東方郵便機、了解。無事を祈る。バンナウィッツ飛行場。終わり』
「東方郵便機。終わり」
それきり人の声は消え去り、エンジンと風と夜の静寂だけが鳴る闇と、地上の光が返ってくる。
コンパスは正しい方向を指している。
故障していなくて幸いだと飛行士は思う。
この前、同僚のジョバンニがコンパスの故障でアドリア海に墜落した。
夏だったし夜間ではなかったから、ジョバンニはなんとか助かった。
けれど、これが水温の低い季節で夜間だったらと考えると、笑えもしない。
それは蒼暗い海の中へ白い飛沫をあげて墜ちていく飛行機。
意味するところは、死だ。
コンパスが狂っているというだけで、郵便飛行士は死ぬこともある。
もちろん、飛行士が星を見て位置を観測することもできる。
けれど、そもそも誰も壊れてるよなんて言ってくれない機上でコンパスの狂いに気づくようなときは、決まって手遅れになってからなのだ。
プリフライトチェック――離陸前点検で大丈夫だからといって、飛んでいる間になにもおきないわけではないから、やはり飛行するということは、命がけだ。神話時代からそれは変わっていない。
イカロスのような勇気を持つだけでは、やはり彼のように墜落してしまうだけ。
というのが、この広大な空の冷たく残酷な真実だった。
緩やかに機を旋回させながら、飛行士は顔をコクピットから出して眼下の闇をじっと見つめる。
闇の中には光が浮かんでいた。
あれは支配人ドーラの部屋の明かりに違いないと飛行士は考え、しばらくそのあたりを見つめていた。
するとその明かりの横、二列になって細長い道のような明かりが出現する。
天の川が地上に張り付いたとすれば、それはこんな形になってしまうのだろうか。
だとすれば星は天にあったほうがいい。
地上の星はチープでいけない。
人類、科学の温もりがあるという点だけは、天上の星よりも優れているけれど。
「……………」
スロットルを操作、エルロンで機体をゆっくりと旋回させ、ゆっくりと地上に降りていく。
鳥が木に止まろうかと考えるかのように。
けれども鳥よりももっと長い時間を要して、東方郵便機は地上の天の川へ降りていく。
ぽつぽつと灯っているのは、ドラム缶の中にガソリンを閉めこませた布を巻きつけた木を入れたもので、焚き火として使うには少し危険で、けれど闇世の中、明かりとするにはぴったりの代物だ。
その円形の中にはメラメラと燃える炎があり、それは浄化の炎のように不思議な魅力で闇を追い払い人々を魅了する。
けれどそれを長く見続けてはいけない。
なぜならそれが目に焼きついてしまうと、計器を見るのに少しばかりピントが狂ってしまう。
じっくりと見続けるものではない。
ちょっと見てすぐに計器を見て、そういう過程を繰り返すのが大事なのだ。
目に見えるものだけが大事なものだとは限らない。
高度計と速度計の針がクルクルと周り、風が段々と弱弱しくなっていく。
風よさらば、空よ暫しの別れ、と飛行士はもごもごと口を動かす。
無形のものと戯れる時間は終わってしまった。
車輪が地面に接地。
ガタガタゴトゴトと機と一緒に揺さぶられ、がつんと尻を地面から突き上げるような衝撃を貰ったりしながら、飛行士は東方の辺境、バンナウィッツ飛行場に着陸する。
真夜中、月も灰黒い垂れ幕に隠れてしまっているような夜、闇の中から降り立った金属と木、布でできた東方郵便機。
エンジンを回しながら格納庫までヨタヨタと、二本足で歩く鳥みたいに移動して、そこで飛行士の飛行は終わり。
「……着いた、か」
振動と寒さで痺れた体から力を抜き、コクピットにもたれかかって、飛行士は冷たい息を吐く。
ずっしりと重い体。倦怠感。疲労感。それらが圧し掛かってくるような、圧迫感。
眠たくて疲れて、寒い。
まるで抜け殻のような、玩具を取り上げられた子供の心境のような空しさが、飛行士が感じた全てだ。
体を引き摺るようにして、飛行士はコクピットを降りる。
後ろ席に積んでいた郵便を、職員がカートに乗せて運んでいく。
油汚ればかりついた服を着た整備員たちは、東方郵便機に群がって仕事に取り掛かる。
それらを見ながら、飛行士はマフラーを下ろした。
ポケットからクシャクシャになった煙草の袋を取り出し、そこから一本咥える。
それにマッチで火を点けた。
パッと輝く火が、飛行士の蒼い瞳に映って消える。
紫煙を夜空に振り撒き、ポケットから鉛筆を取り出して機の状態を確認しながら、飛行士は飛行日誌にスラスラと流麗な文字を書き記し、格納庫を後にする。
左手にぶら下げたバッグを肩に担ぎ、何も言わずに飛行士はどこかへ消えていった。
空気に溶け込むように、闇に溶けていったように。
―――
二階建ての建物の中央、支配人の部屋にドーラはいる。
窓辺で常闇をじっと見上げ、煙草を咥え紫煙を燻らせながら。
なにかに耐えるかのような厳しい表情で。
今年で五十にもなる男の頭はすっかり白く染まっていて、何をするにも皺が出来る。
若々しさは時間が搾り取り、今ここに残っているのは青春と理想が削げ落ちた、現実だ。
つまるところの、壮齢の男が一人。
茶色いスーツに真っ白なシャツを着て、灰色のネクタイを締めている。
が、そのどれもが皺だらけで、疲れ果てているように見える。
彼は痛みに耐えていた。
郵便飛行は危険な仕事だ。
荒天でもなんでも、飛ばさせなければならない。
鉄道よりも早く、鉄道では届かない場所へ、迅速に往かねばならない。
あまりに早くと焦るがあまり、飛行気乗りたちを死地へと追いやるような飛行を強いらなければならない。
それがドーラの仕事、使命、義務だ。
鉄道や船便に打ち勝つ力を持ちながら、夜その時間をむざむざと捨てるような真似はできない。
航空機は飛ばねばならないのだ、あの深く蒼黒い夜空の中を。
そしてドーラは今から一人の飛行士に危険な仕事を与える役目を負っていた。
闇夜よりも恐ろしいものと、その飛行士は戦わなければならない。
終わったはずの戦争を呼び起こすような目に遭い、炎に塗れて墜死するかもしれない。
しかし、ドーラは飛行士にそれでも言わなくてはならないのだ。
仕事の内容と目的地を告げ、明日飛べるか? と。
たったそれだけの言葉で、何人の飛行士が墜死しただろうかとは考えない。
航空機とは、前のみを見て進んでいく乗物であって、後退するようにはできていないのだ。
上昇下降と、その有り様はまるで人の生き様そのものであるとも思えるが、しかしそれはエンジンと羽根がなければ墜落するのみという厳しさを秘めている。
砂漠が永劫の不毛の大地に石英の輝きを孕んでいるのと同じように、延々なる海原が突如牙を剥き船を飲み込む危うさを持っているのと同じように、航空機もまたそうであるのだ。
木製のドアが音を立てる。
ノックだ。
ドーラは紫煙を吐きながら、入れと言う。
厳格に。
「――ヨハンだね。掛け給え、搭乗員割り通り、明日飛んでもらわないといけない」
ドアを開け入ってきたのは、二十歳になったばかりの若者だ。
ドーラよりも二回りは若く、瑞々しき精気を内に秘めたエネルギーのある男の青年。
それが、郵便飛行士、ヨハン・ボドギンなのだ。
白い絹のマフラーを首に巻きつけ、左手にはバッグをぶら下げている。
癖のある黒髪は煤けた鉄のような色合いをしており、それは陽光を浴びすぎて痛んでいた。
まるで枯れ掛けた草のように。
瞳は蒼い。アクアマリンのように澄んだ蒼だ。
ドーラは今までに男でこれほど澄んだ瞳を持っている人間を見たことがない。
混濁とした物事に流されず、常に井戸水のように潔癖で自分に従い続ける清らかさがそこにはある。
戦争に従軍した飛行士たちはくすんだ目を空に向けては、まるで遊び疲れ腹を空かせ母親の手料理を前にした少年のように顔を綻ばせるのだが、ヨハンだけは違うのだ。
彼は常に真っ直ぐ真実と現実を見つめ、空の強かさと厳しさを真っ向から受け止め、飛んでいる。
今現在の、きなくさい空気を漂わせている、敵のいない空を。
「了解しました。飛行日誌を置いておきます。明日の行き先はブガレストックで間違いないですね?」
壁に掛けられた地図を見ながら、ヨハンは訛りのあるガリア語を喋る。
その目はポルツキ国の東部にあるバンナウィッツ飛行場から、ダキア王国首都ブガレストックに注がれていた。
その間には内戦中のルージア帝国――今は、ルージア帝国だか、ボストルージア連邦だか、白軍だか緑軍だとか、国内勢力があちこちにできていて訳が分からなくなっている――の国境があったけれど、ヨハンはそれを気にもしていないようだった。
空から見れば国境など見えない。
壁も線も、どこにもないからだろうか。
とはいえ、ドーラはヨハンが油断しているとは思っていない。
飛行予定地域には革命騒ぎに順じて蜂起した、ペトリューラ将軍率いる空軍が展開している。
それを知らないはずはない。
ヨハンという男は、飛び続けるために飛んでいるのである。
空でで死ぬために飛んでいるのではない。
「そうだ。予備タンクまで目一杯積んで、出来る限り最短距離で。そのあとは、西に向かって飛んでもらう。ゲルマニア、ガリア、という具合に」
「長距離飛行だ。僕の朱嘴号より、デヴィットのブレゲー14やパウルの16の方が向いてるよ」
「デヴィットはハンドレページで大西洋航路についてる。パウルは今の仕事が終わったら、有給の消化がある。君しかいないんだよ」
「分かってる。搭乗員割が出たとき、そうだろうなって思ってたんだ」
口元に笑みのようなものを浮かべながら、ヨハンは肩を竦め、じっとドーラを見つめる。
それはその蒼い瞳で何もかもを見通そうとしているかのようで、ドーラは居心地が悪かった。
けれど、いつものことだと諦めて煙草を吸う。
ドーラの経営する郵便飛行会社でまともに戦争を経験したのは、このヨハンと新大陸人のデヴィットしかいなかった。
そしてその二人のうち、戦闘機乗りはヨハンだけで、デヴィットは爆撃機乗りだった。
デヴィットは大声で喋り賞賛も批判も受け止める大男だけれども、ヨハンはそれとは正反対の、華奢で飄々とした年相応の風貌の青年でしかない。
それでもどこか世捨て人のような振る舞いをするため、大人びて見えるのだ。
見えるだけであって、その奥底は未だに子供のままだということを、ドーラは感じ取っているが、誰もそれをまともに聞き入れようとはしないのだった。
「それじゃ、バスタブに浸かって、僕は寝ますよ」
「分かった。長い、長い飛行になる。しっかりと休んで、明日に備えなさい」
「了解。では、さよなら」
煙草を咥えたまま、ヨハンは敬礼をしようとした。
けれど、すぐにそれを止めて複雑な表情を浮かべ、部屋を去る。
しがらみを嫌う男が、昔のしがらみの中で身についた礼儀作法を嫌うのは当たり前のことだ。
だが、ヨハンは未だにどこかで戦争の記憶がまだ自分にこびり付いているのを喜んでいるようだ。
少なくとも、ドーラの年老いた灰眼にはそう映る。
敬礼をしようとした後の顔は、自己嫌悪と懐かしさの入り混じったもので、それは年老いた人間が若き青春の頃をほろ苦さをかみ締めながら思い出す時の表情に似ていて、ヨハンという青年から若者という印象を掻き消すには十分なエキスに成り得た。
けれどドーラはそうは思わないのだ。
彼は未だに若い、子供のままの大人なのだと知っている。
未だに傷つき、かさぶたを引き剥がして血を流すことに躊躇いを覚えない、そんな子供なのだということをドーラは知っているのだ。
窓辺から離れてドーラは煙草を灰皿に押し付け、ふと思った。
ヨハンに仕事の内容を偽るのが、これが初めてだったということに。
そしてそれが、最初で最後だということにも。
・夜間飛行
現実での1920年代は古くからあった鉄道や船といった移動、搬送手段に飛行機が立ち向かっていった時代でもありました。飛行機は障害物の少ない空を縦横無尽に飛び、時速百キロ以上の速度で目的地へ向かうことの出来る唯一といっていい高速輸送手段だったのです。
また、戦争が終結し世界の各国が増大した軍備を縮小する過程で、多くの飛行士、そして機体が民間に流出したこともその一因となっているでしょう。
しかし、当時の飛行機は技術的な問題で信頼性が低く、事故も少なくありませんでした。
また、視界の悪い夜間や濃霧、豪雨や嵐といった天候に大きく左右されてしまうという欠点もあり、そうして失った時間は鉄道や船のような『亀の歩み』を持つ彼女らに味方したのでした。
そのため、飛行機は夜間であっても飛び、不安定な無線と手持ちの地図、地形や月明かり、ときには飛行士の勘までも総動員して対抗しました。
新たな航路を開拓する為に飛び立つ飛行士たちもおり、そうした者たちはときに二度と戻ってきませんでしたが、それでも航路開拓のために飛ぶ飛行士たちは減りませんでした。郵便飛行もまた、その命脈を保っていくのです。




