【戦う飛行士】―Pawn Roller―No.6
飛行機はすぐに飛び立てるものではない。
繊細な女性のようなエンジンは、そのような暴挙には墜死というしっぺがえしを必ず用意している。
暖機運転という過程を軽んじて温まっていないエンジンを無理矢理回すということは、自殺行為と言えた。
加えて古くて粗悪なオイルなど入れていれば、間違いなく飛行機は飛行士とともに無理心中を計るだろう。
そうした経験のあるヨハンは、スヴィータの小さな手を取って格納庫へと向かいながらも、夜勤についている整備士を説得して――金を握らせ――暖機運転をさせようと思いながら、歩んでいた。
機械油の匂いが充満している格納庫の中には、ヨハンの機体以外にもいくつもの飛行機があった。
戦争を駆け巡っていたであろうものや、最近工場から出てきてならし運転をしているような新品まで。
なかには珍しいことに、全金属製という重くてしかたのないものまでがあったけれど、ゲルマニアのそれと対峙したことのあるヨハンはその機体が異常なほど頑丈であるということを知っていた。
波打った軽量金属製の機体は『家具運搬車』と呼ばれ、重々しくもしぶとい相手だった。
他にも、ゲルマニア空軍から没収され市井に流れた飛行機が何機かあった。
ルーンプラー、ハルバーシュタット、どれも優れた飛行機で、どれも手強い相手だった。
それが今では戦場ではなく、平和な空を飛んでいる。
彼女たちはいったいどんな気持ちでいるんだろうかと、ヨハンは思った。
戦うために工場から出てきたというのに、もう戦争はなく、あるのは平和な空だけだ。
自分のように、なんとか割り切って日々を過ごしているのだろうか、と。
「いろんな飛行機があるんだね、こんなにいっぱい」
ヨハンに手を引かれながら、スヴィータははしゃいで言った。
「みんなそれぞれ用途が違ったり、重かったり軽かったり、人間みたいにいろいろさ」
「すごいね。これがみんな飛べるんだから」
「でもみんな、飛行士がいなかったら飛べないよ」
当然のことを淡々と語りながら、ヨハンは郵便物などを入れる後席を片付ける。
簡単な椅子とベルトはついているから、スヴィータのような少女くらいなら難なく乗れるのだ。
問題があるとすれば、それは長距離の飛行にスヴィータが耐えられるか、ということか。
飛行機というのは吹きさらしの座席に座り、寒さに耐えて耐えて耐え続けることしかできない。
ヨハンは防寒に関してはかなり気を使っているけれど、スヴィータの身につけているものでは少し寒い。
刺繍の美しい外套は品はいいかもしれないが、生地が薄い。
手袋はミトンのようになっていて分厚いから、手がかじかむことはなさそうだ。
あとは帽子かなにか、それと毛布かなにかがあれば十分だとヨハンは見積もる。
スヴィータの手を引きながら、ヨハンは夜勤の整備士が見当たらないことに気がついた。
格納庫にあるのは飛行機だけで、空気は冷え切っている。動くものは、ヨハンたちしかいない。
ヨハンはスヴィータを抱えあげ、後部座席に無理矢理押し込むように座らせる。
「んぅっ」
「ごめん。でもそこに居て。すぐ戻る。……絶対に」
「むぅ……わかった。スヴィータは良い子にしてる」
「もう十分良い子だよ」
さっきまでスヴィータの手を握っていた左手で頭を撫で、ヨハンはタラップを降りた。
右手に持った拳銃を握りなおし、ゆっくりと伏せ、耳を地面につけてじっとする。
しかし、飛行場の喧騒が邪魔をしてなにも聞こえない。
思わず舌打ちしながらヨハンは立ち上がり、頭に固いものを突きつけられ身を固くした。
頭に銃口を突きつけられた場合、することは決まっている。
動くな、―――だ。
「あの娘を狙っているのか?」
右手の拳銃の感触を確かめながら、ヨハンは言った。
しばしの静寂の後、突きつけられていた銃口が離れる。
背後で何者かが考え込むような沈黙があった。
「いいや、ヨハン。その逆だ。こっちを見るんだ」
言われるままにヨハンが振り向く。
そこに居たのは、聞きなれた声で喋る、見慣れた男だった。
鷲鼻で中年の郵便局員。
彼が拳銃を構えたまま、じっとヨハンを見ている。
「……あんた、いったいなんなんだ。これも、ドーラの考えたことなのか?」
鷲鼻で中年の郵便局員は拳銃を下ろし、ヨハンを見定めるように目を細めた。
「我々は帝政ルージア最後の正規軍、名誉あるルージア軍団。ロマノフ朝第十四代にして最後のルージア皇帝、ニコライ二世殿下に忠誠を誓った者たちだ。―――ニコライの置き土産、とドーラは言っていたね」
くつくつ、と苦笑しながら鷲鼻で中年の郵便局員はそう言った。
苦笑は、自分が古い時代の遺物であるということを自覚した、自嘲だった。
仰々しい名詞ばかりの言葉だというのに、声の主はそれを発する自分を馬鹿だと思っているような、そんな声だ
「……あんたが、西部戦線に派遣されたルージア派遣軍団の生き残り、なのか?」
目を細め、モノクロの記憶の一シーンから一つの噂話を取り出して、ヨハンが問う。
鷲鼻で中年の郵便局員はゆっくりと頷く。
「いかにも。だからこそ、そこのスヴェトラーナ様をお守りする義務がある」
「それとこれとどういう関係があるのか、僕には理解できない。皇帝一家は全員銃殺されたんだろう。社会主義者の代表は、一家は安全なところにいると言っているが、ブリタニアやガリア、それに合衆国はそれが嘘だと知っている」
「銃殺されたのは全員ではないんだ、ヨハン」
鷲鼻で中年の郵便局員は、苦笑しながら言った。
ヨハンは目を見開き、さきほど後部座席に押し込んだ少女の姿を追った。
スヴィータは座席の中で大人しくしているのか、顔は見えない。
「……嘘だ」
呻くような声で、ヨハンは言った。
あの戦争の忌々しい遺物が、あの少女だと思いたくなかったのだ。
しかし、鷲鼻で中年の郵便局員は、哀れむような表情をしながら言った。
「嘘ではないんだ、ヨハン。ドーラは君を選んだ。運び手に、君と、そしてケボーロフを選んだんだ」
「なぜだ。なぜ、よりによって僕なんだ。僕をまたあの戦争に引き戻そうとしているのか? 僕は、すべてあそこに置いてきたんだぞ」
ヨハンの表情が変わる。
それは怒りの表情だった。
しかし、鷲鼻で中年の郵便局員は、表情を変えずに言った。
「スヴェトラーナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ皇女殿下は、ここにおられる。君が運ぶんだ、他の誰でもない。君がだ」
そして、彼は言葉を続ける。
「彼女をブリタニアまで運ぶのが君の仕事だ、ヨハン。それが我々と、ドーラの願いだ」
ヨハンはただ、その言葉に呆然と立ちすくむことしかできなかった。
白黒の無声映画が音をたてて燃え上がり、ヨハンの記憶を蝕んでいく。
戦争の匂いが、風景が、感触が、生々しいそれらがヨハンの足元から、彼を侵食し始めていた。
・最後の帝政ロシア軍団
第一次世界大戦中、帝政ロシアは革命によって緩やかに崩壊し、ついにはソヴィエト社会主義政府が樹立されますが、西部戦線に派遣された帝政ロシア軍団にとって、これは帰るべき祖国の喪失を意味していました。
願わずとも最後の帝政ロシア軍団となった彼らはしかし、軍団内部で起った社会主義思想の蔓延や厭戦気運の高まりなどさまざまな問題に苦しめられながらも西部戦線で戦い続けました。
1918年のドイツ帝国軍春季攻勢、カイザーシュラハトにおいてはフランス第十軍第一モロッコ師団の一部としてソワッソン周辺に配置されていたロシア軍団は、戦闘に参加した八十五%の兵員を失いながらもドイツ帝国軍の前進を阻止することに成功しました。
派遣先であるフランスの人々は、彼らを『名誉のロシア軍団』と呼びました。




