プロローグ 2
ドアを開ける。
広い部屋だ。照明は薄暗く、室内には何もない。綺麗に掃除されているようだが、どこか嫌な気配がする。床や壁に、どこか汚れた跡があるような。
撮影係の若い男に続き、角刈りの男と、巨漢の玄次が部屋に入った。ドアが閉まると、それまで聞こえていた外からの音も消え、重苦しい無音がのしかかってきた。
蓮華の煙草の臭いがする。
「……女はどこだ?」
めぐは問うた。薄暗い照明の部屋のどこを見ても、女の幽霊の姿は見当たらない。
「隠れているんだ」
と、答えのは玄次だった。心なしか、先ほどまでとは声の調子が違った。
震えている。
「あいつはいつもそうだ。どこかに隠れて、俺たちの事を見ているんだ」
「おい、やめろ」
角刈りの男が窘めたが、玄次の声は止まらなかった。
「兄貴は閉じ込めたなんて言ったけど、あいつは自分の意思でここにいるんだ。ここは血の匂いがするから……あ、あ、あ、あ」
玄次の様子は普通ではなかった。口からは尋常ではない量の涎が垂れ、眼球は白眼を剥いている。部屋の空気が冷え切っている。
「げ、玄次……おごぁっ!?」
角刈りの男も無事ではすまなかった。突然腹部を突き上げられたかのように、身体をくの字に曲げると、口から大量の水を吐き出す。どことなく、磯の香りがする水。
……海水?
「おいおい。こいつら――」
「ああ、そうだね」
さすがにさっきまでのふざけた調子ではなく、蓮華が答えた。
「とり憑かれたみたいだ」
二人の男たちの背から、同時に赤い粒子のようなものが噴き出した。血ではない。エネルギーだ。負の感情から生まれ、邪気を伴い、心を悪へと陥れるマイナスのエネルギー。
――《呪力》。
退魔屋たちが対処する、幽霊や怪物どもの力の源である。
「ひ、ひひひ、出た。出た出た出た!」
スマホをこちらに向けたまま、若い男がはしゃぐような声を上げた。
「おい、あんた! この部屋にいるんじゃねえ! とっとと出ろ!」
「何言ってんだ! こんな面白れぇもん、撮らなきゃ損だろうが!」
スマホを構えたまま、若い男はそう言い返して壁に背を預ける。
「馬鹿野郎が……!」
あまり気を散らしている余裕はなかった。白眼を剥いた玄次の拳がめぐの鼻先を掠めた。反射的に、鞘に納めたままの大太刀を振り上げ、鞘尻を相手の腹に叩き込む。巨漢の動きは止まらない。鞘を掴み、もの凄い力で引っ張りこんでくる。反射的に身体が動く。床を蹴って、引かれる力に任せるまま跳躍。玄次の後方へと弧を描いて跳んだ。鞘を掴んでいた玄次の手首が捻られ、白眼を剥いた巨漢が呻き声を上げる。
「ひゅー。軽業師だねえ、めぐちゃん。――おっと!」
呑気に感想を述べていた蓮華は、顔面に迫ったナイフを寸でのところで躱した。同じくとり憑かれた状態の角刈りの男が、どうやら私物らしいナイフを素早い動作で蓮華に突き込む。だが、蓮華は煙草をくゆらせたまま、両手をポケットに入れて、ひょいひょいとそれらの攻撃を躱す。むかつく話だが、蓮華にしてみればあんなのは攻撃でも何でもないのだろう。
「余裕ぶっこいていると怪我するぞ、くそ坊主!」
「こんなのはダンスみたいなもんでしょ。援護してあげようか? めぐちゃん!」
「いるわけねえだろ!」
僅かな隙を突いて玄次の両膝の辺りに鞘尻を叩き込み、バランスを崩した足を棒術のように大太刀で刈り上げる。玄次の大きな身体が盛大に床に倒れた。
今だ。
「因幡巫八上流――」
ふっ、と。めぐは自らの右手に息を吹きかけ、とん、と玄次の胸の辺りにその掌を押し付けた。
「〝花伊吹〟」
パン! と。
めぐの掌から放たれた魔力が、玄次の胸で花紋を咲かせた。日の光に似た輝くような黄色の魔力――それが金雀枝の花の紋を描き、玄次にとり憑いた呪力を一気に吹き飛ばす。
《魔力》。呪力と対となる力。呪力がマイナスのエネルギーであるならば、魔力はプラスのエネルギーである。負のエネルギーに支配されてしまったのならば、正のエネルギーを送り込み、蹴散らせば良い。めぐが修めた因幡巫八上流は呪いを祓い、怪物を討つ巫術の流派である。
「っ、はあ、はあ、はあ――!」
玄次の目から涙が流れ、呼気が荒れる。だが、目の色は正気に戻っていた。
「あ――ぁ、っ、お、俺……」
「立てるか。早くこの部屋から逃げな」
そう言いながらも、めぐは即座に顔を上げ、前方を見つめる。
ちょうど同じタイミングで、角刈りの男が倒れていた。蓮華が呪力を祓ったのだろう。やはり涙を流しながらも正気に戻っている。
「カメラマンを連れて逃げろ。あたしらは仕事をさせてもらう」
息も絶え絶えに頷いた男たちが、何とか立ち上がりドアのほうへと向かう。呪力の高まりを感じる。めぐと蓮華に対峙するかのように、負のエネルギーが集合し、人の形を形成する。
幽霊のお出ましだ。
「――どうして邪魔をするの?」
女の声がした。部屋中の壁という壁に、床一面に、赤い光の線が脈のように巡った。
「あ、開かない! ドアが開かない!」
ドアノブをガチャガチャと回しながら、玄次が叫んだ。スマホを構えた若い男は引きつった笑顔のまま一部始終を撮り続けている。
「ひ、ひひひ、駄目だ。手が離せねぇ……」
「駄目。誰も逃がさない」
女が、言った。
長い、黒髪の女だった。ぐっしょりと濡れた髪は腰の辺りまで伸びており、顔も髪に隠されてよく見えない。服はロングのワンピースで、身体のところどころに真っ黒な穴が開いている。
海の匂いがする。
「ここにいる奴らが、わたしを殺して海に捨てちゃったの。ずっと復讐したかったけど、わたしには力がなかった。でもこの部屋にいると、どんどん力が湧いてくるの。この部屋で殺された人たちがわたしに力を貸してくれるの」
突然、めぐたちの鼻を凄まじい臭気が突き刺した。周囲の景色が歪んで見える。殴られ、蹴られる人。腕を折られる人。刃物で刺される人。何重にも重なる、夥しい量の血、血、血。
過去のリフレイン。呪力が引き起こす現象の一つだ。惨たらしく、人を地獄に突き落とすような行為が、生きている者もその負の連鎖に巻き込もうと、何度も何度も再生される。
「……拷問部屋か」
胸糞が悪くなる。ただのだだっ広い部屋ではないだろうと思っていたが、最悪の答えだ。大太刀を握る手に力が入った。
「今ならこいつらを殺せるの。何度も何度も苦しめられるの。だからお願い、邪魔をしないで。ようやくわたしは救われるの」
「よせ。あんたそれじゃあ悪霊になっちまう。ずっと憎しみに囚われて、この世に縛り付けられちまう」
「いいの。わたしはこれから何人も、何人も殺すの。そうしないとわたし、救われないの」
「復讐する権利についちゃ、おれらに何か言えた義理はないけど」
携帯灰皿に煙草を仕舞い、蓮華が言った。
「死んだあとも不幸になろうとする人は見過ごせないよ。この事務所の奴らについてはおれらに任せてくれないかい? 何とかしてみせるから」
「――嫌」
女の周りにいくつものきらきらとしたものが浮かび上がった。
刃物の光。包丁だ。何本、何十本とある包丁。それらの刃先が全て、蓮華とめぐに向けられている。
「わたしがやるの。絶対にやるの。わ た し が――」
女の背から何本もの腕が生える。左側に生えた幾本もの腕が、宙に浮かんだ包丁を掴み取るや、右側にも腕がたちどころに生え、包丁を掴み取る。
「殺してやるの」
生えてきたのは腕だけではない。真っ赤な呪力に染め上げられた人型が、血の川のようになった床から次々と身を起こす。
「おいおい。仲間も出てくんのかよ」
「とにかく彼女を祓わないと」
サングラスの位置を直し、蓮華が言った。
「行くよ。めぐちゃん」
「ああ。やるしかねえな」
言って、めぐも得物を腰の辺りに構え、
「――起きろ、《鮫島》」
と、言った。
その言葉に、長大な日本刀がほのかに熱を持った。めぐの得物であるこの刀は、刃長三尺五寸、柄まで合わせた総長は四尺一寸の大太刀である。拵は艶やかな朱色漆塗、鍔は無骨な黒の美濃鍔、柄巻は金糸の平巻で、さながら貴女が甲冑を纏ったかの如き気品と勇ましさを兼ね備えている。
『――――あい』
声がした。めぐのものでも、蓮華のものでもない声。
刀の声が。
「邪魔を――」
女の幽霊の声に、明確な怒気が混ざった。
「しないでぇえぇ――――っ!」
赤い人型たちが一斉に動く。宙に浮いた包丁を掴み、素早くこちらへ向かってくる。引き下がりはしない。めぐは前方へと飛び込む。正面に斬り込んできた包丁を鞘で受け止め、次いで下段を狙うさらなる一撃を防ぎ、側面から迫った刃を防いだその瞬間、くるりと大太刀を背に回す。
鯉口を、切る。素早く、抜いた。めぐの魔力と同じ、黄色の火花が散る。
抜刀の勢いそのままに、刃長三尺五寸の刀身が、赤い人型を袈裟懸けに斬り捨てる。
「悪いが」
鞘を軽く放り、めぐは両手で大太刀を構えた。
「こっちも仕事なんでな。邪魔立てするなら、斬らせてもらうぜ」
赤い人型たちが、一瞬、身を固くした。めぐの身体は黄色い仄かな燐光を帯び、呪力を寄せ付けぬエネルギーを放っている。
『おはようございます、めぐ様』
嗄れた、しかしどこか愛嬌のある声が、刀からした。
『どうしていきなり起こしてくれやがるのかと思いましたが、どうやらお仕事の時間のようですね。ワタクシ、心底めんどくさいです』
丁寧さと乱暴さを同居させた可愛らしい声で、長大な霊剣《鮫島》が言った。
「ちったぁあやる気を出しやがれくそ刀。手入れしてやんねえぞ」
『手入れしてもらうのは契約のうちですの。だいたいめぐ様は普段から扱いが雑ですわ。今もすぐ鞘を捨てて。ワタクシの大事な鞘なのですからもうちょっと優しく扱ってほしいものですわ』
「わかった。わかったって。悪かったよ。なあ、頼むから集中してくれ」
『ワタクシは集中していますが――』
霊剣はどこかだるそうにそう言いつつ、
『――右』
霊剣がそう伝えるのと、めぐが右手に迫った赤い人型を斬り捨てたのはほぼ同時だった。
「言っとくけど、今のは気付いていたからな」
『はいはい。そういう事にしておきましょ。ほら、次』
言われる数秒前に、めぐは動く。赤い人型が振るう包丁を大太刀の切っ先で絡め取り、流れるように斬り捨てる。止まらず二人目を斬り上げ、背後に迫る三人目の胴を両断し、四人目の胸を突く。
因幡巫八上流は呪いを祓い、怪物を討つ巫術の流派である。起源は平安時代にまで遡るが、時代とともに剣術をその術理に取り入れ、現代では古流剣術としての側面も持つ。その剣は、常に人ならざる怪物たちに向けられ、闇の中で閃いた。
『……なるほど。状況は理解できましたわ』
静かに、鮫島が言った。
『誰も彼もが惨い目に遭わされ、死後も憎しみ深く怨霊となった者……ですか』
霊剣鮫島には特殊な能力がある。そのひとつが強力な霊視だ。鮫島の刀身で斬った相手の過去――特に強烈に心に残っている記憶を読み取り、鮫島が望む相手に共有できる。
『未だ現世に留まりながら、尽き果てぬ怨憎に身を苛まれるのは苦しかろ。この鮫島が浄土へ送って差し上げます』
「斬るのはあたしだっつーの」
『それではめぐ様。どうぞ存分に』
異様に強い殺気が、めぐの背筋を突き刺した。反射的に、大太刀で身を隠す。ガキン、と刃同士のぶつかる音が響いた。幾本もの包丁が同時に叩き付けられていた。
女の幽霊が、めぐを見下ろしている。
『こいつ――』
重たい何本もの包丁を受けながら、鮫島が淡々と言った。
『台湾に伝わる《八つ裂き女》に似ていますわね。この部屋の怨念を啜り集めた結果、カタチが進化しましたか――』
「んな分析してる場合か!」
気合いを入れて包丁を弾き返す。勢いそのまま後退し、距離を取る。
「邪魔をしないで邪魔をしないで邪魔をしないで邪魔をしないで邪魔をしないで邪魔をしないで」
女がうわ言のように繰り返す。妄執。負の感情が思考を支配している。たとえ彼女が元は善良な人間であったとしても、今は呪力の塊だ。まずはそれらを消し去らなければならない。
(蓮華の奴は――)
めぐはちらと様子を伺う。赤い人型の怨霊たちが、次々と蓮華に襲い掛かっている。一人二人倒しながら、蓮華は華麗な動きでそれらの攻撃を躱す。
おそらくは、めぐのほうに赤い人型たちが行かないように引き付けている。
「あたしがやるしかないようだな」
『あたしたち、ですわ。蓮華様がバテる前に、すぱっと終わらせて差し上げましょう』
「あいつはあれで体力あるぜ。でもまあ――」
めぐは、八つ裂き女と化した幽霊に目を向けた。
「いつまでもそんなんじゃ苦しいだろ。今楽にしてやる」
「邪魔をしないで邪魔をしないで邪魔をしないで邪邪邪邪邪邪邪魔魔魔魔魔魔魔――」
ぶん、と。
八つ裂き女が黒い風となった。
襲いくる包丁の連撃は、当然人間技ではない。曲がり、くねり、脳天と腹を同時に、足と手を同時に斬りにくる。全てを防ぐ事はできない。猛スピードで大太刀を操り、弾き、弾き、弾く。多少の傷は掠り傷だ。プラスのエネルギーである魔力を身体に巡らせていれば、治癒は速い。とはいえ、めぐの魔力量はそう多いわけではない。ただでさえ戦闘で運動能力を上げるために巡らせている魔力を治癒でも消費してしまえば、すぐにエネルギー切れが見えてくる。
「おらっ!」
大太刀の重量を利用した下段から上段への斬り上げ。甲高い金属音が連続し、何本かの包丁を弾き飛ばす。だが、尽きる事のない怨念が呪力を生み出し、その呪力が間を置かず宙に刃を生む。八つ裂き女の手が、それらを掴み取る。
「切りがねえ」
大太刀を下ろす。下段――脇に構える。身を少し前へ。
「嫌なの辛いの殺すの殺さなきゃいけないの許せないの悔しいの痛いの嫌なの絶対殺すの嫌嫌嫌嫌」
「わかってるさ――」
八つ裂き女が、くる。呪力を伴った猛突進。凄まじい邪気が伝わってくる。その怨念の底を見つめる。彼女の苦しみの元凶。それを断つ――
「疾く、疾くと参らん。我が身、我が剣、我が一刀。邪気災異断つ風となれ――」
まさに、一瞬。
言霊によって急激に増加しためぐの魔力が、疾風の如き速度でその身体を加速させ――
「嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌――!」
八つ裂き女の必中の間合いにめぐが入り込んだその時には、すでに大太刀が振るわれ――
「因幡巫八上流――!」
流派の名を、その剣技の名を、唱える。その名もまた呪いを断つ刃の一部――
「〝白兎疾駆一文字〟」
斬る。横薙ぎの一閃が、八つ裂き女の胴体を斬り裂き、魔力を帯びた霊剣の刀身が、纏った呪力を軒並み消し飛ばす。
「あ、ああああぁ嫌嫌嫌嫌嫌嫌――!」
断末魔めいた絶叫。部屋中の呪力を消し飛ばす激しい光。
一瞬ののち、部屋の中からは、呪いという呪いが、怨念という怨念が消え去っていた。
「――っ。はあ、はあ」
息が切れる。その場で、めぐはへたり込んだ。
元々、長大な霊剣を振り回すうえに、祓いの一刀は気力も体力も集中させる。斬れればまず間違いなく呪力を断ち切るが、強力なあまりめぐの身体がついていかない事もある。
『お疲れ様でした。めぐ様』
「……たく、本当に疲れたぜ」
息を整えながら言うと、目の前に鮫島の鞘が差し出された。
「ふぃー。お疲れ、めぐちゃん。やるね。おれ、見せ場なしだったわ」
そういう蓮華は、異様な数の赤い人型と包丁を相手にしていたはずだったが、傷はおろか汗一つかいている様子はない。嫌味な奴だ。
「まったくだぜ。元坊さんなんだからお経でぱっぱと成仏させてくれりゃいいのに」
「はは、落ち着いて唱えられればね」
めぐに鞘を渡し、蓮華はポケットから煙草を取り出すと、さっそく一本銜えて火を着ける。めぐが霊剣を鞘に納めると、蓮華は紫煙を吐き出した。
「しかし、これで一つカタはついた。あとは――」
がちゃ、と。
ドアの開く音がしたのは、その時だった。
「――あれ? 終わってやがる。もしかして、あいつ祓われちまったのか?」
ほかの部下を伴って入ってきた山崎が、部屋の中を見回しながら言った。
玄次をはじめとする最初にめぐたちと一緒に入ってきた三人は、仲良く部屋の隅で気絶している。
「おいおい。案外弱っちいんだな。めちゃくちゃ俺らを恨んでいる悪霊だったのに」
「あ~~れ? 何か話が違いますねえ?」
皮肉気な笑みを浮かべた蓮華が、大声で問うた。
「『中の女を始末して』って依頼じゃありませんでした?」
「そりゃ、お前らと戦わせるにはそう依頼するのが手っ取り早いだろ」
もはや穏和そうな雰囲気を取り繕う事もなく、山崎はあくどい笑みでそう返した。
「どういう事だ? あたしらとあの幽霊を戦わせて何の意味がある?」
「はっ。正確に言えば、あの女にお前らを喰わせたかったのさ。こんな仕事を引き受ける低級退魔屋とはいえ、そこらの一般人よりかは強い魂を持っているわけだからな。そこで寝ている奴らと併せて、五人も喰わせりゃ強力な悪霊になるだろ」
「……よくわかんねえな。そんな事をしたって、次の標的はあんただろ」
「金だよ。心霊現象は今や新しいビジネスになるのさ」
つかつかと部屋の中に入り、山崎は何かを探すように辺りを見回す。
「ビジネスだあ?」
「強力な悪霊は確かに危険だが、もし飼い慣らせれば強力な武器になる。俺にこの話を持ち掛けた霊能コーディネーター……いや、あいつは絶対偽物だろうが、とにかく奴が言ったんだよ。もしあの幽霊が滅茶苦茶強い悪霊になるなら、高値で買い取るってな」
お、あった、と呟き、山崎は床に転がっていたものを拾い上げる。
包丁だ。柄を摘まみ上げて、山崎はしげしげとそれを見つめる。
「……うーん、ああ、こりゃ駄目だな。完全に呪力が消えてやがる。これはあの女を刺した包丁だったんだが。強い憎悪は因果となり器物と霊魂を結び付ける。あの女がこれにとり憑けば、持ち運びが楽になると思ったんだがなー」
「さっきも聞いたけど、持ち運ぶ前にやられちゃうんじゃないの? 普通の人間でしょ、あんた」
「……いいや?」
バキバキ、と骨が変形するような音がした。
山崎の右腕が、異形に変貌していた。スーツを破り、肥大化した苔のような緑色の腕。掌は大きく、指も爪も長く伸びて、まるで鬼のようになっている。
「あの霊能コーディネーターが俺を改造してくれたんだよ。怪物にな。同じ怪物同士なら、最悪あの女が襲い掛かってきたとしても、俺が始末して取り込めばいい。何せ、一度は殺しているんだしな」
怪物に改造……? 俄かには信じ難い話だ。あるいはめぐの知らない呪術か何かで、そんな事が可能なのかもしれないが……
「甘いね。彼女はこのめぐちゃんが本気でかからなきゃ勝てない相手だった。あんたみたいなセコくて、賢いつもりの、一枚上手ぶってるだけのおっさんがどうこうできるもんじゃないよ」
蓮華がずけずけとそう言うと、さすがの山崎も少々気分を害したようだった。
「おーおー。馬鹿な退魔屋風情が好き勝手言ってくれるぜ。わかってんだろうな。お前らはもう逃げられねえし、仮に逃げられたとしてもうちの組の仕事を請け負った以上、退魔屋としての評判は終わりだ。マッチョの兄ちゃんは俺が直々にいたぶってやる。姉ちゃんのほうはもう立つ事もできねえだろ。刀は俺がもらって、あとはここにいる全員で楽しませてもら――」
開け放したドアから、外の音が聞こえてくる。サイレン。それも何台も。
明らかに、このビルに近付いている。
「……何だぁ?」
「だから、賢いつもりだってんだよ」
めぐは、やはり皮肉気な笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。
「あたしらが何の準備もなしにこんな怪しい仕事受けると思ったか? 退魔屋協会と打ち合わせして警察の加持祈禱班を呼んでもらってある。あたしらが今回受け取る報酬はてめらの汚え金じゃねえ。協会から支払われるお前らの捕獲料だ」
「こんな仕事でもきっちりやり切れば、あんたらのところに警察が踏み込む理由になるのさ。加持祈禱班が霊障の捜査がてら、あんたらの悪事の証拠もきっちり見つけてくれる」
めぐと蓮華の言葉に、山崎の額に青筋が浮き上がった。ほかの組員は動揺したかのようにどよいめいている。
「狼狽えんじゃねえ! 何人か下行け。エレベーターは動かねえようにワイヤー切って落とせ。あとの奴らはこの二人を抑えとけ。警察なんぞにしゃしゃり出てこられてたまるか!」
「は、はい! おい、行くぞ!」
組員の何人かが、慌てた様子で部屋から出ようと踵を返す。だが、蓮華の動きのほうが早かった。
「よ――ほいっ!」
ごく少量の魔力を込めて、蓮華が何かを投げた。青白い真っ直ぐな軌跡を描き、蓮華の手から放たれた何かが一番前にいた組員の頭に当たり、次いでその後ろの組員の額に、さらにその後ろの組員の側頭部に、さらに後ろのと、まるでリモコンで操作でもしているかのように次々とヒットする。七人目を倒し、次々と当てられた組員たちが呻きながら床に倒れ込むのと同じく、それも床に落ちる。
「な、何だ……何しやがった」
「うーん? 手裏剣みたいなものかな?」
そう言って蓮華が拾い上げたのは、ここの事務所にくる前に蓮華が作った、あの五〇〇円玉サイズになったビールの缶だった。
「さて、これで残るはあんた一人になったわけだけど」
サングラスの位置を直し、蓮華はにこりともせずに言った。
「まだ何か言う事、ある?」
山崎は、今や動揺のあまり、息が上がり始めていた。改造されたという右腕もぷるぷると震えている。
「な、な、舐めんじゃねえ……舐めんじゃねえ――――!」
「ひょい」
破れかぶれに突っ込んできた山崎の頭を、蓮華のハイキックが刈り取った。ごべ、という不明瞭な声とともに、山崎の身体がばたっと床に倒れる。
「ふー。見せ場があってよかった」
蓮華が煙草の煙を吐き出した。めぐは立ち上がり、山崎が落とした包丁を拾った。
彼女を殺し、怪物へと変えた凶器だ。
「あ、てめ、ふざけ……。俺、お前ら、何かに……」
ぴくり、ぴくりと動きながらも、山崎はまだ意識があるようだった。包丁を片手に、めぐは床の上に寝転ぶ山崎に近付く。
「……めぐちゃん?」
「心配すんな」
そう答えつつ、めぐは山崎に顔を近付けた。
「てめえに一つ送る言葉があるぜ」
言うや、めぐは山崎の顔面目がけて包丁を振り下ろし――
「ひっ、ひぃ――っ!」
「悪運尽きたな」
息を呑み、震え上がった山崎の顔のその真横に、振り下ろされた包丁が突き刺さっていた。
サイレンはいつの間にか聞こえなくなり、代わりに廊下のほうから何人もの足音が聞こえる。
警察の到着。そして怪しい仕事の終わりだった。短いようで、しかしかなり体力を使った。めぐとしては、このあとバイクで帰るのがだるいくらいだ。
「……ああ、そうだ」
一つ、大事な事を思い出して、めぐは立ち上がる。
「ん? どうしたの、めぐちゃん」
「あいつのスマホ。あたしらの動画が残ってる。消さねえと」
「勝手に触んないほうがいいんじゃなーい? 警察の捜査が終わったら消してもらおうよ」
「そりゃまあ……そうかもだけどよ」
言いながら、めぐは撮影を担当していた若い男の手の辺りを見る。
……ない。
「なあおい、蓮華。お前、こいつのスマホどっかやったか?」
「おれが? 触る暇なんてないよ」
だよな、と言いつつ、めぐは若い男の周辺や、玄次の背中の裏、角刈りの男の身体の影を探す。
ない。ない。ない。
「あのスマホが、ない……」
若い男の手の中に、確かにあったはずの物。
めぐたちと幽霊との戦闘を撮影していたスマホが、忽然と姿を消していた。




