第五話「父の秘密」
父が丘の方向を見ていた。
夕方、ルカが集落に戻る前に気づいた。父クダが、集落の外れに立って、北の丘の方を見ていた。誰も傍にいなかった。ただ、一人で見ていた。
その背中が、いつもと違った。
族長の背中ではなかった。
子供の頃の、何かを恐れている者の背中のような気がした。
ルカは声をかけなかった。
その夜、床についても眠れなかった。
父が丘を見ていた目が、頭から離れなかった。
翌日、丘へ行った。
セナは来なかった。体の具合が少し悪いと言っていた。
ルカ一人で、サブレ様の前に座った。
「一人か」とサブレ様は言った。
「セナは今日は来られません」
「そうか」
「サブレ様」とルカは言った。「父のことを教えてください」
サブレ様は少しの間、ルカを見た。
「クダのことか」
「昨日、父が丘の方向を見ていました。一人で。その目が——怖れているような目でした。父がそんな目をするのを、初めて見ました」
「そうか」
「父上は、サブレ様を怖れているんですか」
「怖れているかもしれない」とサブレ様は言った。「しかし、怖れているのはサブレを怖れているのではない」
「では何を?」
サブレ様は少しの間、黙っていた。
「クダには、伝えてある話がある」とやがて言った。「クダが族長の座についた時に、私が話した」
「どんな話ですか」
「炎の話だ。この族には、炎を持つ者が時々生まれる。代々の族長がそうだった。クダもそうだ。そしてお前もそうだ」
「それを父上に話したんですか」
「話した。そして、こう伝えた。炎を持つ者は、やがてその炎を次の者に継がせなければならない、と」
「継がせる」とルカは言った。
「炎を持つ者には、役目がある。常火を守ることだ。この山の奥に、常火がある。消えることのない、古い火が。その火を守るのが、炎を持つ者の役目だ」
「父上もその役目を持っているんですか」
「持っている。しかしクダは——その役目を、果たすことを、恐れている」
「なぜ」
「常火を守ることは、この集落を離れることかもしれないからだ」とサブレ様は言った。「常火のある場所に留まることが、役目の一部だ。そこを離れないことが、常火を守ることに繋がる」
「集落を離れる」とルカは言った。「父上が族長を辞めて、常火の傍へ行くということですか」
「それを恐れている。しかし——その時は、まだ来ていない。来るかどうかも、分からない」
ルカは考えた。
「父上は、俺が丘へ来ていることを知っていますか」
「知っているかもしれない。知っていて、黙っているかもしれない」
「なぜ止めないんですか」
「それは、クダに聞け」とサブレ様は言った。
「また父上に聞けと」とルカは言った。
「子が親に聞くことを、やめてはいけない。前にも言った」
「言いました。でも父上は——」
「怖れている親は、子に聞かれた時に、本当のことを言いやすい」とサブレ様は言った。「怒っている親より、怖れている親の方が、聞きやすい場合がある」
ルカはその言葉を考えた。
「今夜、聞いてみます」と言った。
「聞け。そして聞いたことを、次に来た時に教えてくれ」
「教えます」
「セナにも伝えておけ」
「はい」
ルカは立ち上がった。
下りかけて、振り返った。
「サブレ様」
「何だ」
「俺が炎を継ぐことになったら」とルカは言った。「父上は、解放されますか」
サブレ様は少しの間、ルカを見た。
「解放、という言葉が合うかどうかは分からない」とやがて言った。「しかし——クダが背負ってきたものの、一部が、お前に移る。それは確かだ」
「それでいいと思います」とルカは言った。「父上が、あんな目をするのが——嫌だから」
サブレ様は黙っていた。
その金色の目が、温かかった。
悲しい目ではなかった。今日は、温かい目だった。
「行け」とサブレ様は言った。「父上のところへ」
その夜、ルカは父に聞いた。
「父上、サブレ様のことを話してください」
父は、しばらく黙っていた。
それから、囲炉裏の火を見たまま言った。
「知っていたか。お前が丘へ行っていることを」
「止めないんですか」
「止められない」と父は言った。「止める権利がない気がして」
「なぜですか」
父は囲炉裏の火を見たまま言った。
「お前は、俺より炎を継ぐのに向いているかもしれないから」
その言葉が、ルカの胸に落ちた。
重かった。
しかし、父の声が、少し軽くなった気がした。
言えた、ということで、少し軽くなったような。
「父上」とルカは言った。「俺が炎を継ぎます。だから、父上は族長でいてください」
父はルカを見た。
長い間、見ていた。
「まだ決めることではない」とやがて言った。
「分かっています。でも、そう思っています」
父は囲炉裏の火に目を戻した。
何も言わなかった。
しかし、背中が、少しだけ変わった気がした。
いつもの族長の背中に、少しだけ近づいた気がした。
(第五話 了)
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