09.知らない声
その日は、朝から雨だった。
細かい雨粒がずっと降り続いていて、空は薄い灰色のまま動かない。
教室の窓ガラスには水滴が張りついて、外の景色をぼんやりと歪ませていた。
こういう日は、全体的に空気が鈍くなる。
声も、動きも、少しだけ重い。
「最悪……」
陽咲が小さく呟きながら、濡れた傘を畳んでいる。
「何が」
「髪」
「そこ?」
「大事でしょ」
いつもの調子に戻っているようで、ほんの少し安心する。
でも、その裏で。
変わっていないものも、ちゃんとある。
鞄を机に置いて、陽咲はすぐにスマホを取り出した。
一瞬だけ画面を確認して、またすぐにしまう。
――確認してる。
多分、あの写真。
もう習慣みたいなものだ。
「ねえ」
私は前を向いたまま声をかける。
「今日、行けないね」
「え?」
「色麻工業高校」
一拍置いて、陽咲が小さく「あ」と言った。
「……うん」
それだけ。
でも、その“うん”の中に、少しだけ落ちた温度が混ざっている。
分かりやすい。
「まあ、雨だし」
「別に、行く気なかったし」
「はいはい」
本当に行く気がなかったとしても、“選べない状況”になると、少しだけ違う。
それが人間だ。
授業が始まって、いつもの時間が流れる。
黒板の音、ノートを取る音、先生の声。
全部がいつも通り。
でも、その中で。
陽咲の意識は、ほんの少しだけ別の場所にある気がした。
昼休み。
「今日さ」
七海がパンを持ってやってくる。
「うちの中学のグループ、また動いてるんだけど」
「へえ」
私は適当に返す。
でも、隣の空気が少しだけ変わる。
分かりやすすぎる。
「なんか、今度みんなで集まろうって話しててさ」
「同窓会みたいな?」
「そんな感じ」
七海は楽しそうに話す。
その中に、自然に混ざる名前。
「新堂くんも来るって」
――来た。
私は横目で陽咲を見る。
ペンを持つ手が、ほんの少しだけ止まっていた。
「へえ」
できるだけ普通に返しているつもりなんだろうけど、声が少しだけ硬い。
「まあ、全員来るか分かんないけどね」
「どこでやるの」
陽咲が聞く。
自然を装っているけど、少しだけ早い。
「まだ決まってない。多分、駅前とかじゃない?」
「そっか」
短く返す。
でも、その一言の中に、いろんな計算が混ざっている気がした。
場所、時間、距離。
会える可能性。
「興味あるの?」
七海がにやっと笑う。
「別に」
即答。
でも、その速さが逆に怪しい。
「じゃあなんで聞いたの」
「なんとなく」
「その“なんとなく”便利だね」
七海が笑う。
陽咲は少しだけむっとした顔をして、それ以上は何も言わなかった。
――でも。
その後の時間、ずっとどこか落ち着かない様子だった。
放課後。
雨はまだ降り続いている。
校舎の外は、水の匂いで満ちていた。
「ねえ、美鈴」
帰り支度をしながら、陽咲が小さく声をかけてくる。
「なに」
「もしさ」
また来た。
「その集まりで」
「うん」
「新堂くんが来たら」
少しだけ間があって。
「……どう思うと思う?」
私は手を止めて、陽咲を見る。
その顔は、少しだけ真剣だった。
「どうって?」
「分かんないけど」
言葉を探している。
「写真と、違うかもしれないし」
「そりゃ違うでしょ」
「でも、同じかもしれないし」
その不確かな言い方が、妙にリアルだった。
私は少しだけ考える。
「多分さ」
「うん」
「声が一番違うと思う」
「声?」
「うん」
顔は写真で見てる。
動きも、なんとなく想像してる。
でも。
「声って、想像つかないでしょ」
「……あ」
陽咲が小さく息を呑む。
「確かに」
「でしょ」
それは、まだ知らない情報。
完全に空白の部分。
「もし全然違ったら」
私は続ける。
「そこで一気に現実になると思う」
良くも悪くも。
想像が崩れるかもしれないし、逆に強くなるかもしれない。
でもどっちにしても、“ただの写真”ではいられなくなる。
「……そっか」
陽咲は小さく頷く。
その顔は、少しだけ不安そうで。
でも同時に、少しだけ期待しているようにも見えた。
「じゃあさ」
「なに」
「どんな声だと思う?」
来た。
こういうの、始めると止まらない。
「知らないって」
「いいから」
「……低めじゃない?」
適当に言う。
写真の印象だけで。
「えー、そうかな」
「じゃあ高め?」
「それも違う気がする」
「めんどくさいな」
思わず笑う。
でも、陽咲は真剣だった。
「なんかさ」
「うん」
「静かな声な気がする」
ぽつりと呟く。
その言葉が、妙にしっくりきた。
「ぼそっと話す感じ」
「へえ」
「でも、たまにちゃんと笑うときだけ、少しだけ変わるの」
「細かいな」
「なんとなく」
またそれか。
でも今回は、その“なんとなく”が少しだけ具体的だった。
それだけ、想像が進んでいる。
知らないはずのものに、輪郭ができ始めている。
「当たるといいね」
私は軽く言う。
「外れたら?」
「知らない」
肩をすくめる。
「そのとき考えればいいでしょ」
「……うん」
陽咲は頷く。
その顔は、少しだけ覚悟を決めたみたいだった。
雨の音が、少しだけ強くなる。
窓の外を叩く音が、教室の中に響く。
知らない声。
まだ聞いたことのない声。
それはきっと。
この物語の中で、一番現実に近い“未知”だ。
そして、それを知ったとき。
何かが変わる。
私は鞄を持ち上げながら、小さく息を吐いた。
――いよいよ、かもしれない。
そんな予感が、静かに広がっていた。




