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06.触れない距離の熱

その日、陽咲は少しだけ遅れて教室に入ってきた。

始業のチャイムが鳴る直前。

息を切らすほどではないけど、ほんの少しだけ急いできたのが分かる足取りだった。


「珍しいね」

私は軽く声をかける。

「寝坊?」

「違うよ」

陽咲は首を振って、自分の席に鞄を置いた。

その動きが、いつもより少しだけ雑で――でも、すぐに気づいたみたいに、整え直す。

そういうところ、ほんと分かりやすい。


「じゃあ何」

「……ちょっと、寄り道」

視線を逸らしながら言う。

私は一瞬だけ黙って、それからわざとらしく頷いた。

「あー、なるほど」

「なにその反応」

「別に」

それ以上は追及しない。

どうせ、聞けば顔に出る。

そして案の定、ホームルームが始まる直前、陽咲は小さくこちらを見てきた。


「……ねえ、美鈴」

「はいはい」

「今日さ」

言いかけて、少しだけ言葉に詰まる。

こういうときは、大体ろくでもない。

「色麻工業高校の前、通った」


――やっぱり。

私は思わず額に手を当てたくなった。

「何してんの」

「通っただけだよ」

「わざわざ?」

「……通学の途中で、ちょっとだけ遠回りしただけ」

それを“わざわざ”って言うんだよ。

喉まで出かかった言葉を飲み込む。


「で?」

「でって?」

「何かあったの」

少しだけ低く聞く。

陽咲は一瞬だけ黙って、それから小さく首を振った。

「……何も」

その答えに、私は少しだけ息を吐いた。

当たり前だ。

何もあるわけがない。

ただ通り過ぎただけの場所に、都合よく“その人”がいるわけがない。


「当たり前でしょ」

「うん」

陽咲は頷く。

でも、その“うん”は納得じゃなくて、確認みたいな響きだった。

「でもさ」

まだ続く。

「校門、見ただけでさ」

「うん」

「なんか、変な感じした」

私は横目で陽咲を見る。

その顔は、昨日までとは少し違っていた。


「どんな」

「近いなって思った」

ぽつりと、静かに言う。

「今まで、どこにいるかも分かんなかったのに」

「まあ、場所は分かったしね」

「うん」

それだけで、世界は変わる。


知らなかったときは、どこまでも遠い存在だったのに。

場所を知った瞬間、急に現実に引き寄せられる。

それがどれだけ曖昧でも、関係なく。

「で、会えた?」

私はあえて聞いた。

分かりきってることでも、言葉にさせるのは大事だ。

「会えてないよ」

少しだけムッとした顔で返してくる。

「だよね」

「……でも」

また、“でも”だ。

「いそうだなって思った」

「何それ」

「分かんないけど」

陽咲は小さく笑う。

その笑いが、少しだけ浮ついていて。

――危ないな、と思った。


現実に近づいた分だけ、想像も具体的になる。

今までは“どこにもいない誰か”だった。

でも今は、“あの校門の向こうにいるかもしれない誰か”だ。

それはもう、完全に現実の延長だ。

「ねえ」

私は少しだけ真面目な声で言う。

「それ、あんまりやりすぎない方がいいよ」

「え?」

「通うとか」

「通ってないし」

「今日行ったでしょ」

「……一回だけ」

「一回でも同じ」

少しだけ強く言うと、陽咲は黙り込んだ。

傷つけたいわけじゃない。

でも、このまま放っておくのも違う気がした。


「だってさ」

言葉を選ぶ。

「それ、会えなかったらどうするの」

「どうもしないよ」

「じゃあ会えたら?」

その問いに、陽咲は詰まった。

数秒、沈黙が落ちる。

「……分かんない」

小さく答える。

その通りだと思う。


分かるわけがない。

写真でしか知らない相手に、実際に会ったとき、自分がどうなるかなんて。

「ほら」

「でも」

陽咲は顔を上げる。

「会えなくてもいいって思った」

「は?」

「ただ、同じ場所にいるかもしれないって思うだけで」

少しだけ言葉を探すように間があって。

「なんか……ちゃんと存在してるんだなって思えて」


――ああ。

それは、少し分かる。

分かってしまうのが、少し嫌だった。

写真の中だけじゃない。

ちゃんと現実にいる。

同じ空気の中にいる。

そう思えるだけで、安心する気持ち。


「……それで満足できるならいいけど」

私は小さく言う。

「できるよ、多分」

“多分”がつく時点で、できない。

でも、それも言わない。

言ったところで、意味がないから。


チャイムが鳴って、会話はそこで途切れた。

授業が始まる。

先生の声が遠くに聞こえる中で、私はぼんやりと考える。

距離は、確実に縮まっている。

でもそれは、いいことばかりじゃない。

近づけば近づくほど、“触れられない”ことがはっきりする。

手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。

その感覚は、多分。

今までよりずっと、厄介だ。


放課後、帰り道。

「もう行かないから」

突然、陽咲が言った。

「何が」

「色麻工業高校」

私は少しだけ眉を上げる。

「ほんとに?」

「ほんと」

少しだけ間があって。

「……今日は、もういいかなって思ったから」

その言い方が、やけに引っかかる。

「“今日は”って何」

「……別に」

視線を逸らす。

――ああ、ダメだこれ。


完全に終わってない。

「まあいいけど」

私はそれ以上は言わない。

どうせ、止められない。

だったらせめて、見失わないようにするしかない。


夕焼けが少しずつ濃くなっていく。

その中を、二人で並んで歩く。

いつもと同じ帰り道。

でも、その中に確実に混ざっている。

ここにはいない、誰かの気配。

触れられない距離のまま、熱だけが少しずつ上がっていく。


――この先、どうなるのか。

分からない。

でも一つだけ確かなのは。

もう、“ただの写真”じゃなくなっているということだった。 

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