05.写真と記憶の境界
放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓の外には薄く赤みがかった夕陽が差し込み、机や椅子の影を長く伸ばしている。
その中で、陽咲はひとり机に突っ伏すように座り、スマホの画面をじっと見つめていた。
私が横目で覗くと、画面の中には例の写真が開かれている。
文化祭の雑多な風景の中に、新堂が小さな影として写っていた。
陽咲の指は、まるでその輪郭をなぞるかのように、画面の上でゆっくりと動いている。
「まだ見てるの?」
つい声をかけてしまった。
「見てないよ」
陽咲は即座に否定するが、その目は画面に吸い込まれるように一点を見つめていて、指先は動きを止めない。
――分かりやすすぎる。
写真の中の誰かに、恋をしてしまった瞬間を、私はまざまざと見せつけられた気がした。
でも、止めようという気は起きなかった。
むしろ、この子が夢中になるなら、それも悪くないと思った。
人が誰かを大事に思う瞬間を、傍で見られるのは、少し嬉しいことでもある。
「でもさ……」
私は少し間を置いて、言葉を選ぶように話した。
「写真と現実、混ざっちゃいそうじゃない?」
画面の中の人物は現実に存在する。
でも、会ったことはない。話したこともない。名前さえ、まだ苗字しか知らない。
「……うん」
陽咲は小さく頷く。その仕草が、妙に慎重で、少しだけ切なかった。
「だって、この人のこと、何も知らないのに」
「知ってるのは顔だけでしょ」
「うん、でも……それだけで、こんなに気になるなんて」
私は思わず胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。
まだ会ったこともない、ほんの一瞬だけ写真で見た相手に、こんなにも心を揺さぶられるなんて。
「そういうのって、危ないと思うけどね」
軽く警告するつもりで言ったけれど、陽咲はにっこりと笑った。
「でも、今はそれでいいの」
その言葉に、私は言葉を失った。
今はまだ、写真の中で完結している恋。
触れられないからこそ、美しいままの恋。
けれど、いつか現実に引き戻される瞬間が来る。
それが楽しみでもあり、怖くもある。
「……分かった。でも、あんまり夢中になりすぎないでね」
私は少し釘を刺すように言った。
「うん」
陽咲は画面をそっと閉じると、鞄にしまった。
その仕草は、まるで宝物を扱うように丁寧で慎重だった。
私はその背中を見て、考えた。
名前も知らない、会ったこともない人のことを、ここまで大事にできるのは、やっぱり陽咲だからなのかもしれない。
普通の人なら、こんな感情はすぐに薄れてしまうだろう。
でもこの子は、違う。
放課後の静かな教室の中で、私はそっと呟いた。
「たぶん、これは始まったばかりなんだろうな」
写真の中の誰かに恋をする少女と、それを見守る幼馴染み。
まだ何も起きていないのに、物語は確実に動き出している。
次の日も、陽咲は写真を大事そうにスマホの中にしまったまま登校してきた。
授業中も、休み時間も、ちらりと画面を確認するしぐさは、ほとんど癖になっている。
私はそのたびに微笑むしかなかった。
――たった一枚の写真で、こんなにも人の心は揺れるのか。
たった一枚の写真で、こんなにも日常が特別に変わるのか。
夕暮れの空は青い空を少しずつ変えていく。
でも、陽咲の心の中は、まだ赤く染まったままだった。
その赤は、きっと長く消えない。
そう思うと、私は少しだけ息を吐いた。
そして、隣で夢中になる陽咲を、そっと見守ることに決めた。
――それしかできないけれど、それでも十分なのだろう。




