04.距離の測り方
その日、七海は珍しく機嫌がよかった。
「ねえ聞いて、美鈴。昨日さ、久しぶりに中学のグループで通話したんだけど」
朝からテンションが一段高い。
こういうときは大体、どうでもいい話か、ちょっとだけ面倒な話のどっちかだ。
「へえ」
とりあえず相槌を打つ。
隣で陽咲が、ほんの少しだけ反応したのが分かった。
――分かりやすすぎる。
「でさ、そのときに新堂もいて」
「ふーん」
興味ないふりをする。
でも、陽咲の方は違った。
ペンを持つ手が一瞬止まる。ほんの一瞬だけ。
でも、それで十分だった。
「相変わらずだったよ。なんかこう、マイペースっていうか」
七海は楽しそうに続ける。
「全然変わってないの?」
陽咲が、できるだけ自然に聞こうとしているのが分かる声で言った。
……いや、全然自然じゃないけど。
「うーん、どうだろ。ちょっとは大人しくなったかも?」
「へえ」
短く返す。
でもその“へえ”の中に、妙にいろんな感情が混ざっている気がした。
「でもさ、あいつ昔からああだったし。文化祭のときも、なんか一人でぼーっとしてたし」
「……あの写真のとき?」
陽咲がぽつりと呟く。
七海は「あー、そうそう」と軽く頷いた。
「よく覚えてるね」
「……なんとなく」
嘘が下手すぎる。
私は思わず目を細める。
「で? なんか話したの」
話題を少しだけずらす。
これ以上、陽咲の方に寄せると面倒なことになる。
「別に普通だよ。近況とか、誰がどこの高校行ったとか」
「新堂くんは?」
間髪入れずに聞いた。
……ほんとに分かりやすい。
「え、なんでそんな気になるの?」
七海が不思議そうに首を傾げる。
そりゃそうだ。
普通に考えて、ただの写真の中の人の話をここまで拾うのはおかしい。
「いや、なんか名前出たから」
陽咲は慌てて取り繕う。
でも、完全に後手だ。
「ふーん……まあいいけど」
七海は少しだけ意味ありげに笑って、それ以上は追及しなかった。
助かったのかどうかは分からないけど。
「新堂はね、別の高校行ってるよ。そんな遠くないとこ」
「そうなんだ」
陽咲の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
距離が“測れるもの”になった瞬間だった。
今までは、ただの写真の中の存在。
どこにいるかも分からない、現実感のない誰か。
でも今は違う。
“そんな遠くない”という情報だけで、一気に現実に引き寄せられる。
会おうと思えば、会えるかもしれない距離。
それは、希望でもあるし。
同時に、逃げ場を失うことでもある。
「ねえ」
私は小さく口を挟む。
「七海、その高校ってどこ」
「え? なんで?」
「なんとなく」
陽咲と同じことを言ってみる。
少しだけ意地悪な気分だった。
「色麻工業高校。知ってるでしょ?」
「あー、はいはい」
名前は聞いたことがある。
ここから電車で数駅くらいの場所。
本当に、“遠くない”。
「へえ」
私はそれだけ言って、陽咲の方をちらっと見る。
案の定、何も言ってないのに、いろいろ考えている顔をしていた。
……ほんとに分かりやすい。
「別に会えるわけじゃないけどね」
七海が軽く付け足す。
「学校違うし、用事なきゃ行かないし」
「……うん」
陽咲は頷く。
その“うん”が、どこか自分に言い聞かせているみたいに聞こえた。
――会えるわけじゃない。
でも、会えないわけでもない。
その中途半端な距離が、一番厄介だ。
完全に遠ければ諦められる。
完全に近ければ動ける。
でも、その間は――
ずっと、揺れ続ける。
ホームルームが始まって、会話はそこで途切れた。
先生の声が教室に響く中で、私はぼんやりと窓の外を見た。
春の空はやけに澄んでいて、どこまでも遠くまで見える気がする。
でも実際は、そんなに遠くなんて見えていない。
せいぜい、数キロ先くらいまでだ。
それでも、“見えている気になる”のが厄介で。
――距離って、そういうものかもしれない。
近いのか遠いのか、よく分からないまま。
でも確かに、そこにあると感じてしまう。
昼休み、私はあえて陽咲に何も聞かなかった。
どうせ聞かなくても分かる。
頭の中は、さっきの情報でいっぱいだろうから。
放課後になって、帰り支度をしながら。
「ねえ、美鈴」
やっぱり来た。
「なに」
「色麻工業高校ってさ」
「行く気?」
「行かないよ」
即答だった。
でも、その速さが逆に怪しい。
「ほんとに?」
「ほんとに」
少しだけ強く言う。
私はその顔をじっと見て、それから小さくため息をついた。
「まあいいけど」
「なにその反応」
「別に」
それ以上は言わない。
言っても、多分意味がない。
陽咲は少しだけ不満そうにしながらも、それ以上は何も言わなかった。
教室を出て、いつもの帰り道。
昨日と同じ道のはずなのに、どこかだけ違う。
たぶんそれは、“距離”ができてしまったからだ。
今までは、ただの写真の中の誰か。
でも今は、“行こうと思えば行ける場所にいる誰か”。
その違いは、大きい。
「ねえ、美鈴」
「なに」
「もしさ」
少しだけ間があって。
「偶然会ったら、どうする?」
――来た。
私は心の中でため息をつく。
「知らない人でしょ」
「そうだけど」
「じゃあ何もしないでしょ」
「……そっか」
陽咲は小さく頷く。
でも、その顔は納得していない。
「声かける?」
私はわざと聞く。
「無理」
即答だった。
迷いもない。
「でしょ」
「でも」
「なに」
「……見ちゃうと思う」
ぽつりと呟く。
その言葉が、やけに現実的で。
私は少しだけ笑った。
「それくらいなら自由じゃない」
「だよね」
陽咲も小さく笑う。
でも、その笑いはどこかぎこちない。
たぶん、想像してしまったんだろう。
“偶然会う”という状況を。
そのとき、自分がどうなるのかを。
そして、それが簡単なことじゃないって気づいた。
――距離は、縮まった。
でも同時に、その距離の“重さ”も分かってしまった。
私は空を見上げる。
夕焼けはまだ少し遠くて、空は淡い色のままだった。
たぶん、この話は。
少しずつ、現実に近づいている。
その分だけ、面倒になっていく。
でも――
もう止まらないところまで来ているのは、間違いなかった。




