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03.名前の輪郭

陽咲は、その名前をよく口にするようになった。

――もちろん、誰にでも聞こえるようにじゃない。

ふとした瞬間に、無意識みたいに。


「新堂くんってさ」

「なに急に」

「どんな人なんだろ」

「知らない人」

「それはそうだけど」

即答すると、少しだけ不満そうに眉を寄せる。

でも事実だ。


私たちは、その“新堂”を知らない。

顔は写真で見た。名前も聞いた。中学時代の断片的な情報も、七海から少しだけ。

それだけだ。

それ以上でも、それ以下でもない。


「七海に聞けば?」

「聞いたら終わりな気がする」

「なにそれ」

意味が分からない。

陽咲は少しだけ考えるみたいに間を置いてから、言葉を選ぶ。

「なんかさ、今のままがいいっていうか……」

「ああ」

なんとなく理解する。

理解したくはないけど。

「都合いいとこだけ見てたいってこと?」

「ちょっと違う」

「じゃあなに」

「……壊したくない」

小さな声だった。

でも、それは妙に真っ直ぐで、冗談で流せる類のものじゃなかった。


私は少しだけ黙る。

踏み込みすぎると、多分引っ込める。

この子はそういうところがある。

「まあ、好きにすれば」

結局、それしか言えない。

陽咲は「うん」とだけ答えて、それ以上は何も言わなかった。

――会話はそこで終わったはずなのに。


その“名前”だけが、ずっと残っている。

新堂。

たった二文字の苗字と、知らない下の名前。

それだけで、こんなにも人の中に居座るものなのか。

正直、理解はできない。

でも――


「ねえ、美鈴」

「まだ続くの?」

「ちょっとだけ」

少しだけ笑ってから、陽咲は続ける。

「名前ってさ、変だよね」

「どこが」

「だって、ただの呼び方なのに、その人そのものみたいになるじゃん」

「まあ、そういうものでしょ」

当たり前のことを言ったつもりだった。

でも陽咲は、納得していない顔をする。


「でも私、その人のこと何も知らないのに」

「うん」

「“新堂”くんって呼ぶと、ちゃんとその人のこと考えちゃう」

――ああ。

それは、ちょっと分かる。

分かってしまうのが、少しだけ嫌だった。


「便利だね、名前って」

「便利っていうか……ずるい気がする」

「ずるい?」

「だって、それだけで近くなった気になる」

そう言って、陽咲は小さく笑う。

自嘲みたいな、でもどこか楽しそうな笑い方。

私はそれを見て、少しだけ視線を逸らした。

――ほんとに。

厄介なものを拾ったな。


写真だけでも十分だったのに、そこに名前まで乗ってしまった。

これで完全に、“形”ができてしまった。

触れられないくせに、確かに存在しているもの。

しかも、それを手放す理由がどこにもない。


「……七海に聞けば、下の名前も分かるんじゃない」

なんとなく言ってみる。

深い意味はない。

ただの確認みたいなものだ。

でも陽咲は、すぐに首を横に振った。

「いい」

「なんで」

「そこまで知ったら、戻れなくなりそう」

「今も大概だと思うけど」

「それでも」

はっきりした声だった。

迷いがない。

「今はまだ、“新堂”くんだけでいい」

そう言い切る。

その横顔を見て、私は少しだけ息を吐いた。

――ああ、ダメだこれ。


完全に自分で線を引いてる。

どこまで行っていいか、どこから先はダメか。

でもその線は、多分すごく曖昧で。

気づいたときには、もう越えてるやつだ。

「後悔しても知らないよ」

「しないよ、多分」

「“多分”って言った」

「……言った」

少しだけ笑う。

その軽さが、逆に不安になる。


夕焼けが少しずつ濃くなって、影が長く伸びていく。

駅が見えてきて、人の流れが増えてくる。

いつもの帰り道。

いつもと同じはずなのに、どこかだけ違う。

たぶん、それは。

ここにいない誰かのせいだ。


「じゃあね、美鈴」

「うん、また明日」

改札の前で手を振る。

陽咲はいつも通り電車に乗って、いつも通り帰る。

……はずなのに。


そのポケットの中には、あの写真がある。

名前だけを知ってしまった、知らない誰か。

それを“宝物”って言った女の子。

私はしばらくその背中を見送ってから、小さく息を吐いた。


――名前の輪郭なんて、そんなにはっきりしてない。

なのに、一度なぞったら離れなくなる。

その程度のもので、こんなにも人は揺れる。

だったら。

もし本当に、その輪郭の内側に触れてしまったら――

どうなるかなんて、考えたくもない。

改札を抜けながら、私はほんの少しだけ眉をひそめた。

たぶん、この話は。

まだ、入口に立ったばかりだ。

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