11.土曜日の手前
金曜日の放課後は、いつもより少しだけ軽い。
明日が休みだから、という単純な理由で、教室の空気が緩む。
誰かが笑って、誰かが早く帰ろうとして、誰かがだらだら残る。
その中で、陽咲だけが少し違っていた。
軽いはずなのに、どこかだけ重い。
浮いているのに、沈んでいる。
そんな中途半端な状態。
「ねえ」
私は鞄に教科書を詰めながら声をかける。
「明日だね」
わざと何のことか言わない。
でも、陽咲はすぐに反応した。
「……うん」
短い返事。
それだけで、十分すぎるくらい伝わる。
「行くの?」
そのまま続ける。
逃げ道を残さない聞き方。
陽咲は一瞬だけ手を止めて、それから小さく息を吐いた。
「……まだ決めてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「半分くらい決めてるでしょ」
図星だ。
視線が逸れる。
「……半分」
「ほら」
分かりやすい。
でも、それくらいでいいとも思う。
全部決めて動けるほど、簡単な話じゃない。
「七海は?」
「行くって」
「そりゃそうか」
元々そっちの集まりだ。
行かない理由の方が少ない。
「で、どうするの」
私はもう一度聞く。
今度は少しだけ優しく。
陽咲は黙る。
考えているというより、整理している感じだった。
「……近くまでは行くかも」
やっぱり、そこに落ち着く。
「中には入らない?」
「入れないでしょ」
「まあね」
当然だ。
知らない顔で混ざれるほど、現実は甘くない。
「でも」
陽咲は続ける。
「外からなら、見えるかもしれないし」
「ガラス越しとか?」
「うん」
私は少しだけ考える。
やってることだけ見れば、だいぶ怪しい。
でも、それを言っても意味はない。
「で、見えたら?」
「……分かんない」
正直だ。
「見えなかったら?」
「それも分かんない」
「じゃあ何しに行くの」
いつもの質問。
でも、今回は少しだけ違った。
「確かめに行く」
陽咲はそう言った。
迷いなく。
私は少しだけ眉を上げる。
「何を」
「いるかどうか」
シンプルな答え。
でも、その中身は重い。
「来るって言ってたじゃん」
「でも、本当に来るかは分かんないし」
「まあね」
それはそうだ。
約束なんて、簡単に変わる。
「だから」
陽咲は小さく言う。
「ちゃんと、“いる”って思いたい」
その言い方が、少しだけ引っかかった。
思う、じゃなくて、思いたい。
願いに近い言葉。
「……それ、見てどうするの」
「どうもしない」
「じゃあ意味なくない?」
「あるよ」
すぐに返ってくる。
その速さが、珍しかった。
「今まではさ」
少しだけ間があって。
「“いるかもしれない”だったけど」
「うん」
「明日で、“いた”になるかもしれないから」
過去形。
その違いは、大きい。
曖昧な可能性が、確定した事実に変わる。
それだけで、人は変わる。
「……なるほどね」
私は小さく頷く。
それは、ちゃんとした理由だと思った。
少なくとも、今までよりは。
「美鈴は?」
「何が」
「来る?」
予想外の問いだった。
「私が?」
「うん」
私は少しだけ考える。
正直、興味はある。
この先、どうなるのか。
この子が、どうなるのか。
「行ってもいいけど」
軽く言う。
「ついてくだけね」
「……ほんと?」
陽咲が少しだけ驚いた顔をする。
「一人で暴走される方が困るし」
「ひどい」
「事実」
でも、それだけじゃない。
たぶん私は、見届けたいんだと思う。
この“恋”が、どこに行くのかを。
「じゃあ、一緒に行こ」
陽咲が少しだけ笑う。
その笑顔は、どこか安心したみたいだった。
――やっぱり、一人じゃ怖いんだろう。
それはそうだ。
何が起きるか分からない場所に行くんだから。
帰り道。
空は少しだけ晴れ始めていた。
雲の隙間から、薄い光が差している。
「明日さ」
陽咲が言う。
「晴れるといいね」
「雨でも行くでしょ」
「……行く」
即答だった。
思わず笑う。
「意味ないじゃん」
「気分の問題」
「はいはい」
軽く流す。
でも、その気持ちは分かる。
どうせなら、少しでもいい条件で迎えたい。
そう思うのは自然だ。
駅が近づく。
いつもの別れの場所。
でも今日は、少しだけ違う。
明日があるから。
その先が、少しだけ見えているから。
「じゃあね」
「うん、また明日」
いつもと同じ言葉。
でも、その意味は少しだけ重い。
私は改札をくぐりながら、小さく息を吐いた。
――土曜日。
ただの一日。
でも、たぶん。
この物語の中では、少しだけ特別な日になる。
そうなる予感が、はっきりとあった。




