第74話 あるがままにあるもの
扉の先には大量の本があった。本がかわいそうだと思うほど棚から溢れ乱雑に山積みされていて、全ての本の栞と栞紐は読破率七割あたりで尻尾を出している。その中心で書き物のためのデスクに座った少年がいた。見目は十代前半に見える程若々しく、ノックに反応した声も高かった。
「統制は?」
彼が本を読みながら聞く。部屋にはレコードが針を弾いており、壮大さを感じる音楽が鳴っていた。わたしは詳しくないので、その曲は知らない。同じ曲調を聞いたこともなかった。
「第参類だ」
「何しに来た」
「汚染地域を通りたい」
「死ね。帰れ」
彼は挨拶でもするかのようにそう言った。一瞬聞き間違いかと思ったが、彼が頁を捲る音が聞こえて、この男が言ったんだなと確信する。
「……帰るために通るんだよ、まァ、聞いてく「僕は政治屋では無く、馬鹿の声を聞く耳もない」
「説得できるの? 無理なら自力で突破するだけだけど」
「女。自身があるのは魔術か? 肉体か?」
「……どっちも」
「そうか。なら、お前は汚染地域に侵入する前に死ぬ」
「……聞く耳は無いのに口はあるんだね。わたしは空間魔術に自信がある。誰よりも」
「最もありふれたものを貫通させる欠陥魔術が? あまりに低能すぎて猿が喋っているのかと思ったよ。ご自慢の盾を持って気が大きくなっているらしい」
「ヤバイ。わたし、部屋を出た方がいいかも」
「ああ頼む。頭を冷やしてくれ」
わたしはそれ以上、火に油をかけられる前に退散した。拳を握りしめて、振り下ろす場所もなく握りを解く。自分の拳から出た熱気で火傷しそうだった。
「はァ、よく耐えた。よく耐えたわたし……イムのために、カッツィのために……我慢だ……我慢、我慢……」
それに、ヴァルターは伝手があるとか言っていたが、あれは明らかに初対面じゃないか。説得なんて本当にできるのか? せめてもの抵抗に、空間で上書きして部屋に小さな穴を開け、聞き耳を立てる。
「第参類ほどの情報を持っているなら、君らの言っていることがおかしいことだと分かっているはずだがね」
「あぁ。危険性は十分に「聞き耳を持っていないのは君の方か? 僕は危険性がナントカなんて聞いていない。生還率ゼロパーセントを、どうやって通過するつもりなのかと聞いているんだ」
「汚染は彼女の空間で耐える。特異生物は俺がどうにかする。対侵食域は、君らの防護服を借りれば確実だ」
「あぁ。そう。君 は…………つまり、君とやらは…………………………………………………………僕に、いや、ここを紡いできた全てのヒトに、喧嘩を売っているってワケかい? 舐めるなよクソガキが……! 何人が、何年と、ここを紡いできたと考えているんだ! えぇ!? 故郷を捨て、家族を捨て、汚染を、無限に進化する化け物どもを抑え続けているのは死んでいった彼らだ! 彼らがいなかったら、世界はとっくに滅びている……!」
「あぁ、分かってる」
「分かってるからムカツクんだよ! お前は『数えきれない人間の覚悟を無駄にしていいですか』とその後継者の僕に聞いているんだぞ! 帝国や王国のバカ者どもはまだそれを知らないから救いようがあったさ、適当に対侵食域に連れて行けば諦めたのだからな」
「そのバカ者とやらと、俺らには決定的に違うものがある。絶対に諦める事が出来ないこと、それと、彼女の魔術は特異点に到達しているという事だ」
そこで、初めて会話が途切れた。あの責任者にとって、この情報は意外なものだったようだ。ヴァルターの声がする。
「クソガキってのはよぉ。『ダメ』って言われるとかえってやりたくなるもんだぜ。そんな無謀な特攻をする俺らを放っておいたら……どうなるか分かったもんじゃないよな」
「…………………………」
「技術があるっていうのに……それを無視するってことは、それこそ、ここを紡いできた英雄たちへの侮辱なんじゃあないのかねぇ」
深い、深い長考があった。
「死体を回収するのは、お前たちだぜ」
そして、いつの間にか彼が協力することは当たり前のことになり、良く分からない専門的なことを話し始めた。汚染地域にいる特異生物や、汚染そのものの事らしいが、わたしには全く分からない。
そう時間も立たずに、話は纏まった様でわたしの方へ向かってくる足音が聞こえてきた。待っていたフリをして、扉が開くと責任者は開口一番に「来なさい」と言った。
「言っておきますが、僕は大気の動きに敏感です」
「あぁ……それは……ごめんなさい……」
わたし達をやっと客人と、いや『ヒト』だと認めたのか、丁寧にしゃべり出した責任者にわたしは丁寧に頭を下げた。
その後に連れてこられた場所は、研究室のような場所で、更に奥にある空間とその物々しさをほのめかす透明なガラス、そして、ケースの中で吊られた三着の服だった。全身を包み込む、養蜂家のような装備だが、その服の厚みは養蜂家のそれより何倍もある。その服の事を責任者は『防護服』呼び、わたし達にそれを装備するように指示した。責任者がそれを取り外そうとしたので手伝うと、腕にずっしりと質量を感じたじろいでしまう。
「なにこれ……重すぎ」
前時代的な鉄の鎧よりも重い。それに、ただの鎧とは違って中身の分からないバックパックや用途の分からないホースが繋がっている上に、手足も全て何かが詰まっている。
「90キロあります。ひとりで持てるとは驚きですね」
「持たせたんでしょ。それにしても、こんなもの、何のために……」
「それを今から教えます。循環系統の説明は省きますので、とりあえずは僕の言うとおりに装備してください」
わたし達三人はお互いを手伝いながらそれを装備した。責任者はもちろん、ヴァルターもそれを知っているようで、わたし一人だけ手こずった。
感想だが、まず、重い。あの鋼鉄の輪は手足だけに荷重がかかり、遠心力でだいぶんズルを出来たが、これは鎧と同じで肩にクる。次に視界が悪い。ガラスよりも滑らかな素材が顔面を覆って、さらに黒いフィルムが貼られており、控えめに言って最悪だった。だが、暑さや湿気は意外にもなかった。空気が循環しているようで涼しい。総評として、窮屈で憂鬱で、一分も着たくない。
〈ここの数字に注意してください〉
耳元から、ガサガサとした声が聞こえた。学園対抗戦で使わされた技構の技術だ。少しだけ懐かしい気持ちになった。責任者がそんなわたしのガラスの頭をつつく。
〈ネズミが引っ搔くような音や、規則的な甲高い鳴き声は聞こえますか? ……喋るときは防護服側が判断して声を飛ばしますので〉
「いいや、聞こえてない。なんで?」
〈高い音がしたら循環空気の残量不足を表しますが、それを着たままひと月いても鳴ることは無いでしょう。そして、ネズミの掻く音は、汚染が人体に到達したことを知らせるものです。それは――『ガイガー・カウンター』といいます〉
「ガイガー・カウンター……」
〈それが聞こえたら終わりだと思ってください。引き返せるのなら助かる可能性はありますが、あなた方には無いのでしょう? つまり、あなたたちにとってそれは『宣告』のようなものとなります〉
〈『死』の、だな、覚悟の一杯を奢ってくれるネズミちゃんだ。愛してやれよ〉
「炭鉱のカナリアみたい」
〈それと違うところは、瓦斯とは違って酸欠による即死じゃないってところだな。一週間からひと月ほど、苦しみながら死ぬ〉
「一週間、貰えるってわけね。だから『覚悟の一杯』」
〈残念ながら、その一杯と僕の人生は釣り合いませんので、それを頂くつもりは毛頭ありません。時間が無いのでしょう? テストに向かいますよ〉
わたしだって、毛頭無いし、イムにだって無いだろう。というか、生きようとしている人間なら誰にだって無い。カッツィだって、フクロウちゃんだって、学園のみんなも無かったはずだ。わたしがその傲慢なネズミを一匹残らず殴り殺したら、この世界、少しはましになるのだろうか。
ガラスの門をくぐる途中で、わたし達は消毒液の海のようなものに沈められて風を吹きかけられた。工場の部品になった気分で部屋に入ると、そこは生物研究室のようでケースの中で作られた生態系が何個もあった。
〈これは、リンクズモドキというものです〉
ケースの中で栽培されているらしい草をむしって取り出した。らしいというのは、その草がどこか『草』っぽくないからだ。一本の枝から他の枝に伸びて葉を生やすのは同じだが、その葉には葉脈が全くない。白い、コンクリートの上で根を地面の上に生やして、それでほかの個体と繋がって群体を成している。
〈あなた方にとっては特に障害にはならないでしょうが、僕たちにとっては最も忌むべき相手です。詳しいことはいいとして、これを使ってあなたの空間の能力を測ります〉
「それを囲めばいいの?」
〈えぇ。防護服が破損したことを考えての予備プランです。深部ならこの予備プランが本プランとなるでしょう。となれば、空間で汚染を遮蔽する必要がある〉
そう言うと、彼は合図もなしにリンクズモドキとやらを放り投げた。わたしが中空でそれを囲むと、草はみえない床に当たったように空に安置された。六方を空間で囲んだ。完全に密閉されたはずだ。空間からは何も通らない。
責任者が足のポケットから何かを取り出すと、それを空間に当てた。するとカリッカリと、ネズミの引っ掻く音がかすかに聞こえる……
〈ダメです。防げていません〉
「……どうして? 空間は壊されてない。どこを通っているっていうの?」
わたしは彼がダメ出しをして、無理やり通ることを拒否しようとしているのかと思った。それぐらい、空間には自身があった。だが、彼は、静かに質問を投げかけた。
〈なぜ、僕たちは中のリンクズモドキを確認できるのか〉
「……空間が透明だから」
〈はい。正確には道が繋がっているからです。天井のランプ、空間、リンクズモドキ、空間、防護服、僕の眼〉
その道を走るのは。
「光?」
わたしは忘れようとしても忘れられないほど深く刻み込まれた罵倒を思い出した。
『ハッ、最もありふれたものを貫通させる欠陥魔術が?』
汚染の正体は最もありふれた『光』の一種なのか? なら、透明の空間はその光をどうやって防げばいい?
「待って……」
それならば、この防護服はなぜ光を通して、汚染は通さない? わたしの顔を護る黒いバイザー。防いでいるのは黒い膜か、それとも厚さか。いや、両方か。
試してみよう。
空間を数百枚の大きな薄い膜に展開しそれを重ね合わせ、圧縮する。小さくなった空間の板は、象牙の色を持っていた。更に、それを六面作り、組み立て、リンクズモドキを囲むように設置する。
〈あなたは、最初に特異点到達者であることをアピールするべきだった。えぇ。汚染の遮断を確認しました〉
「でも、原理が良く分からない。なんで色がついたら汚染が止まるの?」
〈色に直接の関係はありません。光とは、波長です。ぐねぐねと這う蛇をイメージしてください。格子の目が細かければ、それ以上にぐねぐねとする蛇は通ることが出来ず、それ以下にぐねぐねとする蛇はそこを通過することができます。それが、今回は可視光と汚染だったという話です。厳密に言えば、汚染は直線のものもありますが、その粒子が通らないようにしてしまえば関係はありません〉
「格子の密度が高いから色がついてるって話なの?」
〈えぇ。そう見えるだけ。ともかく、これで最低条件はクリアです〉
「よし、これでイム達と帰れる」
〈は? あなた達二人だけでは無いのですか?〉
「二十人程度いるけど、何か問題があるの? わたしの空間で運べばいいじゃない」
〈……汚染地域を護り、汚染地域から世界を護る対侵食域は、防護服が無ければ通過できません。そして、防護服は管理局にある四着しかありません。貴重なものですので、一着は残してもらいます。つまり――〉
「三人しか、通れない……?」




