第75話 三竦みの運命
「一人。わたしとイムを除いて、汚染地域に入れるのは一人だけ」
「……そうとして、『俺が行く』と言わない父親がどこにいる?」
「今のフィアも大人しく聞いてくれるか……」
「俺が隊長をどうにか説得してみよう。首と胴体が離れたら繋げといてくれ」
管理局から待機組へと向かう彼の冗談、わたしはそれにうまく返すこと、いや、言葉を発することさえできなかった。
まだ日の光は首を傾げていない。だが、馬車の枠に遮られ、覗くように差し込む白光は、無くなったあの日の、学園に背を向ける時間にそっくりだった。馬車の中だけが、ゆっくりと時が流れているかのように感じる。
「――先生も、私を、置いて行くんですか」
「フィアがわたしに何かをお願いするのは、これで二回目だね……」
フィアは外を見ていた。風に揺れる草木、風に置いて行かれた雲、外で待つファウンの赤い髪。
彼女は分かっている。物分かりのいい子だから。この先に自分の役目がない事を理解している。ただそれを黙って受け入れることは、優しいこの子にできることではないだろう。
「我儘ですよ。どうにもならないと分かっているから、お願いは我儘に変わるんです。――私に、もっと力があれば、もっと強く覚悟をしていれば、後悔や、寂しさを感じることは無かったんでしょうか?」
「いや」
「なら、私は、間違っていたんでしょうか」
「……それを決めるのは、わたしじゃないよ」
「時代ですか?」
「いいや、フィアが、それを決めてほしい者が決める」
「……私は、先生と皇女様を信じています」
フィアは抑えきれない痛みを堪えるように、自らの心臓の位置を握り潰した。
「皇女様は、いつも、おひとりでした。私なりに考えましたが、きっと、皇女様は強すぎるのです。救っても救っても、彼女自身は救われない。強いからこそ、誰に頼るまでもなかったから……対等な存在がいなかった。でも、分かりますよね。今は、違うんです。先生は皇女様を護ることができます。対等、なんです」
フィアはわたしの手を握った。心臓を直接握っているみたいに、とてもとても、熱かった。
「死なないで、なんて言いません。行かないで、なんて言いません。最初にそれを無視したのは私なのですから。ですが、これだけは願わせてください。ユウメさん、皇女様。どちらも、どちらにとっても、どうか、どうか、大きな幸せを掴んでください。二人にだけは、幸せになって、欲しいです」
フィアの心臓の熱をわたしの熱で塗り潰すために、手を強く握った。
「うん。分かった。フィア――ごめんね」
わたしはフィアと額を合わせた。死ぬつもりはない、決死でも、特攻でもない。わたしは生きて帰る。だが、この空気は、オレンジの光は、確かに別れのものだった。そんな感傷的な空気をぶち壊すように馬車の扉がはじけ飛ぶ勢いで開く。
「ユウメ!」
わたしは驚いて振り向くと、父がいた。その姿は、遅刻魔のわたしでもなかなか見ないほどだった。父は、わたしの肩を叩く勢いで掴むと言葉を選ぶような間を挟んで口を開いた。
「カルラは、父親というものは娘を疑う生き物だと言われた」
久しぶりに聞く、母の名前は妙にわたしの頭に響いた。
「だから、隊長として、再び命令する。〈絶対に生きろ〉」
「……?」
体中に電撃が走るように痛んで、呼び起されようとした記憶が頭の裏で遠ざかっていった。
「何? 何したの? 父さんから言われなくても……死ぬつもりなんて、全く無い。父さんこそ、フィア達を帝国まで絶対届けてよ」
「お前の心配を受け取るほど老いぼれていない。俺はお前に何も渡せるものがない。だから、言葉を贈った。その響きを忘れるなよ」
「うん。じゃあ、帝国で、待ってる」
準備は整った。
防護服はわたし達を護り、わたしはイムを護る。バイザーの黒墨を隔てた世界を歩く。どこまでも続く、穴だらけのコンクリート。灰色の大地の先には白い靄の壁と黒雲が待ち構えている。だが、歩いても歩いても、そのスタートにはたどり着けない。もう背後には、鉄条も管理局も見えないというのに。
警告は意味を失い。人間の道を歩く蟻になったような、何にも辿り着けない空虚な時間が続いた。
〈まもなく、対侵食域です〉
防護服の右手に畳まれた鉄傘を携えた責任者が告げる。彼は、深部とやらまで案内人の役目を果たしてくれるそうだ。彼ら管理局にとって、理由は分からないが、わたし達が汚染地域で死体となることは、最も忌避すべき事態らしい。彼らにとって、勝手に死んでくれればいいという話では無いということだ。わたしは、出来るだけ揺らさないように抱えたイムを持ち直す。
「……ねぇ、ヴァルター」
〈あまり喋りかけないでくれ。お前のお父様に殴られた腹が痛むんだ〉
「わたしとイムだけで、汚染地域を突破するって言ったら、どうする?」
〈――冗談だろ?〉
わたしは彼に空間の刃を振った。防護服に穴を開ければ突破は不可能らしいので。
〈何をっ?! 馬鹿野郎が!〉
不可視の刃が避けられた――ヴァルターの猛獣のような低い声が耳元で響く。ノイズの乗った声を無視して極細の針を何本も展開し、雨のように降らせた。しかし、もうひとつの防護服がわたしとヴァルターの間に割り込んだ。開いた鉄傘に接触した空間が消滅する。ただの傘じゃない。
〈これを壊されるのは困ります。すこし、冷静になった方がいい。僕が冷静なうちにね〉
「いや、冷静だよ。わたしは、疑ってるだけ」
〈お前……とっくに操られてたってワケか?〉
「わたしは生きなきゃいけない、背中から刺されて死ぬなんて許されない」
わたし達は、黒いバイザーに遮られ、誰が誰だか分からないような状況で膠着した。こんなことに時間を使っている場合ではないことは分かっている。それでも、わたしの中で渦巻く疑心を無視することは出来なかった、この疑心は極限状態の中で必ず牙を剥く。少なくとも、わたしとイムだけになれば懐の内を警戒する必要は無いのだ。
〈最悪だ……最も恐れていた事態よりも先があるとは〉
「わたしにとっての『最悪』は、わたしかイムが死ぬことだ」
〈いいや! 違うね!〉
ヴァルターが鉄傘の前に躍り出る。表情のない防護服に彼の毅然とした意志が見える。
いや、何も違わない。芯の芯までわたしは彼を疑っている。王国の中核や、技構の上位層と思われる職位に堂々と忍び込める彼が、帝国が本懐だとどう信じれるというのだ。そして、わたしには遺っている。ズグロの義父、漆黒の羽根と共に死んだアルキメデスは『技術防疫機構のヴァルター』と零して死んだ。
アルキメデスはファルターという偽名を看破し、情報を掴んでいたということだ。そんな彼がわざわざ死に際に遺す言葉が杭となって撃ち込まれ、彼が技構としての一面を見せるたびにわたしの体中に震えを起こし、共振のように不安を想起させた。
「何も、違わない!」
振り下ろした空間の剣は軽々と避けられた。見えもせず、空気の流れも読み取れない状況で、軽々と避けるというのは、わたしの心理を確実に読み取っているということだろう。苛々したが、冷静だという言葉に嘘はつきたくないので、あえて話を聞くことにした。
〈今から俺は、お前が嫌がることを言うぞ〉
「わたしが喜ぶことなんて今まで言ったことないでしょ」
〈人間は良いことは忘れて嫌なことは覚える。そして人間にとって心理を突かれるのはもっとも嫌なことだ〉
「ヴァルターの語る心理がわたしの真理だとは限らない」
〈間違っているかどうか決めるのは、俺でもお前でもなく、お前が決めてほしい人間だろ? ユウメ〉
「なんで知って、聞いてたの?」
〈いいか? 俺が特務に入った理由も、技構や王の身辺に入り込んでるのも、全部、金と! 女のしがらみから逃げるためだ! 大義もクソもねぇよ! だがな、本当の問題は、お前が俺を信用できるかどうかじゃない。ユウメ、お前、自分が思っているより数段、弱くなっているぞ〉
「――はぁ!?」
〈俺を疑っているというなら、防護服を着るのは俺じゃなくてもよかった。隊長でもよかったんだ。だが、お前は俺を、わざわざ切り捨てるために選んだ〉
「それは父さんが馬車の護衛に十分だから……!」
〈いいや、違うね。俺が知っているユウメ・エクテレウは、逆境にビビる女じゃなかった。腸に毒を抱えても、それでもすべて踏み越えると覚悟する女だった。お前はな、ビビってるんだよ。自分自身が死ぬことにじゃない。自分のせいで、誰かが死ぬことに、俺が死ぬことに、お前はとんでもなく怯えてるんだ!〉
反論とか、言葉を返すだとか、それ以前にわたしは驚いた。客観的に見て、いや、見せられた「わたし」はまさに彼の言う通りの行動を取っていた。アァ レウェ相手に怯えて逃げ出し、領域に囚われたフィアを救うためのホテルの破壊は視野にも入れなかった。人間が間違い続けて強くなるというなら、わたしはその間違いにすら気づいていなかったというのだ。
〈俺にとっては嬉しい成長だ。悩めよユウメ。そして、いつものようにその壁を殴り壊せ。その間、俺がお前を護ってやる〉
「護られる側……」
〈そうだ今のお前は護られる側なんだよ。黙って俺についてこい。俺は強いぞ。お前の頭にいる俺よりもな〉
「…………」
〈もういいですか? 茶番には付き合いきれません。実行か撤退か。早急に決めていただきたい〉
不思議な気持ちだった。ずっと闇から見られているような暗い焦燥感が燃え上がっているが、その正体が分かっただけマシだった。
わたしの手が届く場所で人が死ぬのは怖い。わたしが友達を護れないのは、わたしが弱いから……だが、矛盾だとも思った。
不条理の死に逆らうということは、その道中で不条理に巻き込まれるのは当たり前のことだ。自ら強くなるための場に臨み、しかしその試練の代償、つまり『間違い』に怯えるというのは、雑踏に巻き込まれ行き先を忘れ失うような滑稽さだ。
強くなるためには不条理と戦わなくてはならない。だが不条理とわたしの戦いには周りを巻き込んでしまう。戦いを止めれば、誰も死なない。だがわたしに護る力は身につかない。
三竦みの獣王紙のように、時計仕掛けの運命に囚われていることに、ようやく、わたしは気づいたのだ。
「……………………………」
〈行くのか、行かないのか〉
〈ユウメ、今はただ、頷くんだ〉
わたしは、ゆっくりと首を降ろした。




