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第10話 シンギュラリティはこのために

 ユウメの思考は潜航し、世界が遅れた。潜り抜けた修羅場の数だけ、この彼女だけの時間は訪れる。カッツィに突き飛ばされ、絵筆で引き伸ばされたような視界が突如として安定した。瞳だけが、首を空間に固定する鳥類のように落ち着き、目標を真っ直ぐに捉える。猫の彼女はユウメに前足を向け、跳躍している。大きな黒豹、エメラルドの瞳、長い牙、黒い肉球。その傍らに、弾けて僅かに連なる肉。右上腕部に侵食、毒は進行していた。


「防御魔術解いて!」


 カッツィは、動物的感覚か、その声を聞き終わる前に意味を理解する。彼女の防御魔術が肩だけ薄れていくのを確認し、瞬時に刃のような空間を形成、侵食部を切り飛ばし弾けた肉毒を片付けた。大口に切り飛ばされた傷跡から悲鳴と鮮血が吹き出る。直ぐに治療をしなければ失血で死んでもおかしくはない傷だった。しかし、治療はできない、出来るわけが無い。


「ハハッやるじゃねぇか!」


 その声は、隣に座った友人が声をかけるような近くで。横に目を向けたユウメは、視界いっぱいに広がる黒い翼を見て、致命傷にならないことを祈るしか無かった。風を利用した超加速による、本気の体当たり。今の彼女にこれを避けられる手段は、無い。


 全身がバラバラになるような衝撃に襲われ、ユウメの体は木の葉のように軽く吹き飛ぶ、視界が何度も暗転し、身体中に衝撃が走る。最後の暗転が終わると、全身に叩きつけられるような衝撃が走り、右肩にこれまでと比では無い痛みを感じた。


 血液の染みる赤黒い瞳には、肩を貫く木片が反射していた。

 彼女の喉が苦悶に溺れる。頭を打った衝撃は、一本の指を二本にも三本にも見せるほど致命的だった。ユウメには、その景色が赤い理由すら理解し難い。


「あと、少しか。ハハッ、楽しませてもらった、ユウメ・エクテレウ。俺の勝ちだ。この面倒な風にも、もう慣れた」


 そう言うとズグロは翼で、天からの暴風が吹いているにも関わらず、不格好ながらも羽ばたき始め、グングンと高度を上げた。そして、また日の光を隠すように翼を広げ、見下ろした。


「トドメだ。もうお前に手札は――」


「待て」


 どこからか、聞き慣れた声が聞こえた。変形した馬車の御者席に座った皇女は、ふわりと地に降り立つ。


「……お呼びじゃねぇな。なんだ、てめぇの魔力、最初に比べて随分ちいさくなったもんだなぁ」


 皇女の纏う、強大だった魔力は広範囲の強風維持により、見る影もないほどすり減らされていた。


「私はね、鳥が嫌いなの」


  ゆっくりと、もう抵抗する程の魔力が残っていないはずの皇女が歩く。その天衣無縫の歩みに迷いは見えず、一歩一歩ゆっくりと踏みしめるその姿からズグロ・ピトフーイは帝を見た。自身の翼、その影に取りこまれたはずの女の影に濃淡がある。彼女が輝き、まるで彼女自身が影を生み出す存在になったのかと幻視するほどだった。ズグロの余裕の表情に影が差す、皇女の思考が理解できないとでも言うように、その瞳は揺れていた。


「おい……お前のその自信、どっから来てやがる……ハッタリじゃねぇな、()()()()。まるで舞台の結末を知っているかのようじゃないか。何だ、何を隠しているイムグリーネ――」


 まさに、ズグロの言った「何かある」と思わせるようなこの余裕。御者席から、心配そうに顔を覗かせるフィアにもそれは伝わった。ユウメの前に影が落ちる。皇女がズグロから彼女を守るかのように立っていた。


 ユウメの顔が笑みに歪む。


「私、イムグリーネ第二皇女の魔術の名は内の瞳(プピレ・ゲヒルン)。魔力因子そのものの本質を見抜く魔術。私はその人間の魔力の質から、どれほどの魔術師か見抜くことが出来る」


 何が言いたいのか。ズグロは急速に思考の海に落ちていく、この皇女から溢れ出る自信は何なんだ、その源はどこにあるのか。自身の記憶に残る違和感を洗いだす、何をこの皇女は待っているのか、と。


「ユウメが設置した空間を見れるのはこの世で私だけ。そして、あなたの毒の色もこの世で私だけにしか分からない」


 空間。空間魔術。ズグロの脳内で再生されていた一連の戦闘が、ある地点で停止された。それはつい先程、獣人の肩を切り飛ばしていた時だ。


「待て、どういうことだ……?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ」


 既存の空間魔術の情報としてこれは明白な事であり、常識と化していることだった。炎の魔術が酸素を必要とするように、これは摂理、この世界の理だ。なぜならば、目の前にある木が急に横にズレたり、急に景色が逆さまになったり、星が逆向きに回転することなどは有り得ない。それらを認識する頭がおかしくなっていない限りには。

 あの時、カラスが掠った獣人の肩は斜めに切り飛ばされていた。空間を上書きして消し飛ばしたのでは無い。


 空間魔術ではない。いや違う。これはもっと根本的な……


特異点(シンギュラリティ)ってさ、そんなおもしろいもんじゃないよ」


 皇女の後ろから声が聞こえた。戦闘中、何度も聞こえたユウメの声、しかしズグロにはそれが全く別物のように感じた。


 今、なんと言ったのか。そんなにいいものじゃないとは、待て。どういう意味だまさか既に到達しているとでも言うのか。


「私が見るユウメの空間は本当に綺麗なの。本当に魔術を理解したものだけが出せるこの色。澄み切った魔力で出来た規律のある雲みたいな立方体。ほら、見える?」


 皇女が見ているのはズグロの後ろだ、振り向く。何も見えはしない、ただ澄み切った空が広がるだけだ。


 しかし、皇女の瞳には何かが映っている。後ろを振り向くズグロを、見つめ返すように存在する、超大な立方体。太陽を閉じ込めるほどの大きさに設置され、ユウメの魔力に染められて光り輝く立方体が。


「私って鳥が嫌いなの、何故だか分かる?」


 ユウメにとって初めての、ダインが居ない状態の強者、類稀なる強者との対峙。更に、カッツィを助けるために加速された思考。そして、この状況。生存本能と直結された脳による魔術の進化は、ユウメに、新たな真理を見せる。


「答えは、物覚えが悪いからよ。もう一度言う必要があるようね」


  魔術師が最も真理に近づく瞬間は

  命を賭した其の一瞬


 ユウメの脳内で、鍵のかかった箱がひとつ、開いた。


 ズグロはゆっくりとこちらを見る、その頬から雫がポタリと落ちる。


()()()()()()――」


「何時だ……? 一体、いつ()()したというんだ!?」


  特異点(シンギュラリティ)に到達した魔術師が、ある極意とも言える魔術を身につけた時、彼らは自然と、こう名付けた。深みに見えるひとつの点。極めたものだけが見える、たったひとつの点。


「“十年前”」


  特異点(とくいてん)と。


 ――特異点、空間圧縮(ラウンドチャージ)


「マジかよッ……」


 極大の立方体が消える。いや、正確にはそれは確かに存在している。立方体の六面を等間隔に縮めるように移動させ、内容物の質量をそのままに、文字通り、圧縮した。


 ズグロは背後の得体の知れない、異様な殺気の塊から、一センチメートルでも離れようとするが、まるで首輪をつけられたかのように立方体に引き摺られた。圧縮に引っ張られた周辺空間に彼は巻き込まれたのだ。


「おいッ! 待てッ!」


  声を荒らげるズグロの背後に、静かに。目に見えない程の大きさに圧縮された立方体が存在する。その内容物の名は空気。圧縮された空気だ。あれほどの極大な空間に存在していた空気が一ミリメートルもないかという空間に押し込められ、蠢いている。胎動している。解放の瞬間を今か今かと待っている。


 そして、皇女の声が、その瞬間を告げた。


「平伏しなさい」


「──解放(クラッチ)


 信号を受け取った空間は、圧縮されていた莫大な空気を解放、その急激な解放は、爆発と呼ぶにふさわしい現象を引き起こした。


 それは、地形を変えた。耳をつんざくような轟音、その暴風は、二十メートルはあろうかという針葉樹を軽々しく倒していく。空間魔術によって守られた皇女達であっても、思わず身構えるほどの衝撃が地面を震わせる。


 三回ほど息を吸って、吐く。そして、やっとそれは収まった。


 爆発が収まった時、クレーターの中心には黒いボロ切れのような人型のものが落ちていた。それは、ズグロの変わり果てた姿だった。


「これが……空間魔術? 信じられない」


 防御一辺倒だったはずの、攻撃手段が存在しない空間魔術の常識を塗り替えるような光景。本来、有り得ないことを当たり前のように顕在させる。それが特異点(シンギュラリティ)、魔術師の到達点である。


「流石に……はぁ……はぁ……もう、勝ったでしょ」


 ユウメの瞳が右に左に揺れ、意識が混濁していく。木片が突き刺さった肩からの出血が止まらず、更に特異点による魔力消費は意識の混濁を無視できない段階まで追い込んでいた。


 シンと静まり返った爆心地から――虫の這うような音がした。


「……嘘でしょ」


 そう言ったのはどちらだったか。

 皇女の表情が驚愕に歪む。クレーターの中心に存在する、黒いボロきれが、上体を起こした。その黒翼は吹き飛ばされているものの、人間の形を保てているだけでも異常、異常の耐久力。


「違う、耐久力じゃない、何、あの黒い魔力は……」


 内の瞳(プピレ・ゲヒルン)はズグロに纏う異様な魔力を捉える。黒く、細長い、まるで線虫のように蠢く魔力が彼の身体を高速で癒していた。よく見れば、ズグロは口元をボソボソと動かしている、皇女は口の動きから言葉を読み取ろうとする。


 あぁ、分かった。理解かったぞ。分かった。理解かったよ。これだな? 心臓の音。ここだ。あぁ、そうだな。見える、これが、これこそが……


 皇女は黒い虫のような魔力に注視していて気づかなかった。クレーター全体を、ズグロを中心として、毒々しい紫色の、彼の魔力の色の渦がとぐろを巻いていることに。


 特異点(シンギュラリティ)


「ユウメッ!」


 皇女はズグロの特異点到達の前にユウメと共に魔術を仕掛けようとする。

 だが、既にユウメは二度目の特異点の準備に入っていた、次は確実に身体をバラバラにできるよう、ズグロの周囲に何個もの空間を設置し、圧縮しようとする。


 だが──ズグロは特異点に到達した。


 加速したズグロの脳内は、深みに存在する、ひとつの点を見つけてしまった。


「特異点、空間圧縮(ラウンドチャージ)


「特異点、致死の渦巻き(メイリアス・モルタル)


 一拍。足りなかったのは一拍だった。ユウメの特異点、空間圧縮(ラウンドチャージ)は所謂、溜めだ。本当の攻撃は解放(クラッチ)の瞬間、一拍、足りなかった。


 ただ、その一拍を埋めるように皇女は風の球を投擲していた。その風球の中心に浮いているのは赤い水滴、ズグロが撒き散らしていた血液。特異点の信号を受け活性化した毒だ。


 圧縮された空間に血液が接触する。その、血液に付いた毒は、魔力を溶かす。


 立方体内の圧縮された空気はそのままに、外殻である空間が溶け、擬似的な解放(クラッチ)が起きた。それによって、二人の特異点による攻撃は、ほぼ同時に行われた。


 もう一度、地形を変える爆発が起きた。


「もう、無理……イム」


 ボコボコにへこんだクレーターの中心にはもう、布切れ一枚すら、無かった。ついに全てが尽きたユウメは一言、皇女の名を呼んで、気を失う。最後に見た皇女の瞳は、未だ戦場にあった。

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