第9話 シンギュラリティ
ズグロは駆け出した。あの拳を構えたユウメには近づくなと、肉体が神経痛のような悪寒を発しているが、それでも駆け出した。絶壁の崖に飛び込むが如く。踏み込みを終えた彼女の正拳が放たれる。ズグロは肉体の警鐘を支配し、拳の下へ潜り込んで躱すことに成功する。しかし、耳は潰れた。ただの人間の拳が気圧変動を起こしたのだ。
「人の力じゃねぇ……」
「特務は『機関』だ」
二発、三発、彼は左腕一本で受け流した。破損した右腕は血を垂らすのみで使い物にならず、彼女の拳は放っておくには危険すぎる。
しかし、突如ズグロの視界からユウメの姿が消える。彼女は後ろに倒れ込むように上体を倒し、空間を掴んで蹴りを繰り出そうとしていた。
地表に背中が接するほど、顔に砂粒が当たるほどの低空にて身体の柔らかさを活かし、掴んだ空間を支点に、相手の足を刈り取るように繰り出される回し蹴りにズグロは対応できずに体勢を崩し、左腕を地面につく。
ユウメにとっては必殺の間合い。
「──殺す!」
起き上がったユウメはロクに防御出来ない右腕ごと、奴の顔面をぶち抜こうとした。だが、ズグロは、右腕を軽く振って血液を飛ばしてきたのだ。
目潰しにもならないであろう、少量の“血液”。
関係ない。血液に毒は付着出来ない。この距離で毒を付着させれば自らも致死毒を食らう。このまま殴り抜けば勝てるのだ、このまま気にせず殴るべきだ。
──いや待てと、ユウメの勘はこの血液に猛烈に警鐘を鳴らしていた。
この行動には何か意味がある。彼女は感覚では無く、ゆっくりとした思考の中でそれに気づいた。なぜ彼は、距離を詰めたのかと。片腕で自身に勝てないと知りながら。実際に、彼は防戦一方だった。だが、疑念は確信に覆る。彼は、そうしたかったのでは無い、そうせざるを得なかったのだ。
血液がゆっくりと自分の顔に近づいてくるのを感じながら、ユウメは咄嗟に構えた右腕を収め、血液を防ぐ様に何重もの空間の壁を設置した。
防壁と血液が接触した瞬間、触れた空間が次々と溶け始める。
ユウメはその間にズグロから距離を取った。
「チッ……簡単じゃねぇな」
ズグロはゆっくりと立ち上がり、右腕から湧き出てくる血を払う。ぼたぼたと落ちる血液に当てられ、緑色の草が赤く染った。
ふと、ズグロの一部の視界に背後の黒い獣が映った。振り向いたズグロの目に凶悪な爪が映る。頭部を狙った攻撃、脳裏に浮かぶ致命傷。
彼は咄嗟に巨大な翼を広げた。天から降り注ぐ暴風、皇女の風を利用したのだ。風の抵抗を受け、身体が地面に押さえつけられる。頭を傾け、頭部を狙うはずだった彼女の攻撃はギリギリで側頭部をめくらせるに留まった。
ズグロはそのまま押さえつけられる勢いを利用し、倒された上体から跳ね上がるように蹴りを放つ、全身で縦に回転するように放たれた蹴りはカッツィの腹を強く打った。
「少し、上手いな……」
思わずユウメは言葉を零していた。 隙を伺っていたカッツィの頭部を確実に切り裂く為の攻撃、背後を取ることは出来たが、ズグロの本能的な勘に気づかれたか、致命傷を与える事は出来ない。
ズグロに蹴りを食らったカッツィはそのままこちらに飛んできて、唸り声を上げながら声を発した。その姿にダメージは感じさせない。
「奴の足元に落ちた血も怪しいです、恐らく……」
「私たちに着いた返り血は大丈夫みたいだね、防御魔術のおかげかな」
ユウメは彼から一時も目を離さず呟いた。ユウメが翼を殴った際に手袋に付着した血液は毒が付いていない。
「いや、毒になってはいないのか」
ユウメは彼の足元で赤く染った草と地面を見る。
「たぶん、自分の魔力が籠ったものへ毒を活性化する信号を送ってる。私たちの身体に付いてしまえば防御魔術に妨害されて、信号を送れないのかもしれない」
飛び散った血液は、目に見える罠だとユウメは言う。
「追い詰められているのはどちらか、厄介だ」
ズグロの足元に飛び散った血液を踏む直前に毒が活性化すれば足が失われる。彼が振り撒く血液に少しでも当たれば死ぬ。
ズグロはあの場から動かないだろう。血液の毒が起動すれば血液自身が溶けて消える。それを待ちながら少しづつ距離を詰めるべきだ。細心の注意を払いながらの立ち回りが要求される。彼女はそう考えていた。
「よし。来ないなら、こっちから行くぜ」
「なっ――!?」
ズグロは地の利を捨て、一瞬で接近した。風の抵抗を利用するように黒翼を広げ、角度を調節し、埒外の加速を可能にしたのだ。
その勢いのまま、右腕を振るい血液を飛ばす。その血液は赤黒い煙を伴っていた。毒が起動しているのだ。彼がどれ程の技量を持っていようと、血液の一粒一粒をコントロール出来はしない。もし、この血液にズグロが当たれば、彼も死ぬのだ。
「お前……! そこまでして、何のためにイムを狙ってる!」
どうにか、飛来する血液の粒は空間を壁にして回避する。予測不可能の動きにユウメの思考は荒らされていく。
「何だっていいさ!」
空虚で空白な言葉に聞こえた。彼は左腕での絶妙な角度での拳をユウメに打ち込む、彼女は右腕の血液に注意を払わなければならず、この拳を防ぐ事は出来なかった。
「ち……」
思いっきりボディに食らったユウメに対しての、馬車からフィアの悲鳴が聞こえた。左腕の拳は下から突き上げるように放たれたのである。それはユウメの右脇腹に命中する。その位置は肝臓であり、内蔵を打つ強烈な衝撃はユウメの体力を大きく削ったと彼は確信した。
拳を振り抜いたズグロに、ユウメを援護するように飛びかかったカッツィだったが、ズグロは背中に目でも付いているかのようにそれを察知し、一瞬だけ翼を展開した。
「見えてんだよ、猫は寝てろッ!」
カッツィの極限まで野生化された動体視力でも、一瞬だけ黒い影が見える程の速度。それが彼女の体を打った。翼を叩くように動かし、カッツィを殴ったのだ、風の抵抗を受けないよう、一瞬で。鼻っ面を殴られたカッツィは攻撃を続けることが出来ずに、ズグロから距離をとらざるを得ない。
周囲に沈黙が降りた。また、隙を伺うように周りを彷徨くカッツィと、獣の姿を視界に入れながらも、ユウメの目を見つめるズグロ。
ユウメは腹部からの痛みの信号に苛つきを覚えながらも、彼を睨みつける。内蔵を打つ衝撃がユウメに興したのは激怒と覚悟だった。
こいつは、無傷で勝てるような相手では無い。イムを護る為には、こちらも覚悟を決めなければならないだろう。今私達が押されているのは、この男に覚悟があるからだ。自らの血液が付着し、死ぬ危険を犯してでも私達を殺すという覚悟。理由は分からない、分からないが、その覚悟は賞賛に値する。
この男に対抗するには、同じような覚悟を持たなければならない。
「私が、お前を殺す」
ユウメの瞳にズグロが好んだ、意志の色が濃く見えた。強さへの執着によって痛みの精神と肉体を御す、烈火の意志を。一歩、さらに一歩、ズグロに近づく、奴との距離がユウメの防御魔術の範囲に入った瞬間、奴が嗤った。哄笑だった。
「ハハッ! その目だッ! いいぜ、のってやるよ……」
歩き、接近し、拳を握る。そして、来たるその瞬間、両者の拳は交差した。同時に、いや、若干ズグロの拳が先に相手の顔面に命中する。遅れてユウメの拳が命中するが、相手の腕に邪魔され掠らせるに留まった。
ユウメの口から血が流れる、殴られた右頬が切れたのか、痛みに襲われているのは明白だが、ユウメの瞳は妖しく輝いていた。
掠っただけだ、しかし、それでも彼女の拳は逃がさない、掠っただけでズグロの頭部は甚大な衝撃に襲われた、脳が揺れ、衝撃でおかしくなったのか、耳鼻から血が溢れ眼球が充血する。だが、彼の震える瞳も、燦然と輝いていたのだ。
しかし、一撃では終わらない、両者血を飛び散らせながらの殴り合いの応酬。超インファイト、数ミリメートルでの戦いが始まった。
「これが……魔術師……」
馬車の御者席で戦いを見守るフィアは呟いた、その声色には驚きと恐れが見える。ただ、その目は一瞬もこの戦いの行方を見逃さないよう見開かれていた。
「この調子だと、ユウメが勝つ」
横に座るイムが呟く、揺るがない余裕であった。
「相手の右腕を自身の防御魔術の範囲に入れて立ち回る、これなら血液の毒を活性化させることは出来ない。でも、少しでもあの腕が範囲から出たら即死。なかなか危ない橋を渡るわね」
「でも、イム様……なぜあの男は、それを許すのでしょう。ユウメ先生との格闘では勝てないと分かっているはずです」
「そうね、それだけが謎。まるで、自分を追い込もうとしているみたい、勝てる可能性は低いのに、自分の力を試しているような……」
凄まじい肉弾戦の応酬、ズグロは先程のように左腕だけで凌いでいる訳では無い、その巨大な黒翼が第三、第四の腕としての役目を果たしていた。皇女の風の影響を受けない速度、超高速で切り払うような打撃を繰り出しているのだ。
ユウメの強力な打撃は、翼への対応により封じられる。十分な踏み込みと振りかぶりが出来ない。彼女がさらに一歩踏み込んだ瞬間、巨大な黒翼が目にも止まらぬ早さで彼女の顔を打った。
「うざ……」
絶妙なタイミングで翼の打撃が来る、拳を構える度に両翼のどちらかが切り上げてくる。十分に力を込めた打撃が与えられない。一瞬でも右腕が防御魔術の外に出れば、死ぬ。一秒でも早くトドメを刺さなければ。ユウメの頭に焦りが募っていく。だが、反比例するようにその瞳の輝きは増していた。その妖しさは、狂気とも。
一方、焦りが募っているのはズグロも一緒だった。たった二発、翼で邪魔して威力を落としたはずの打撃、それがズグロの身体に着実にダメージを与えていた。軽口で返事も出来ないほどの集中を余儀なくされていたのだ。このままではジリ貧、何が仕掛けなくてはと。
そうズグロが思った時、彼の右足が宙に浮いた。正確には、地面が沈んでいたのだ。脳内で瞬時に理解が及ぶ。空間だ。地面を空間で上書きすることで消し飛ばしたのだ。不味い、体勢が崩れる、既に彼女は踏み込みを終えている。翼を……
その瞬間、ユウメの本気の殴りが彼の右脇腹に命中し、彼の体が浮いた。それは、先程彼がユウメに当てた位置と同じ。肝臓の位置だ。ユウメが受けたダメージと比ではない苦しみがズグロの身体で乱反射する。全ての内臓に致命傷を負い、彼は真っ黒な血を吐き出し、顔を青く染めた。
「──勝った」
皇女が呟く、それに答えるようにユウメは動けないズグロの顔面に狙いを定め、ギリギリと音が鳴るほど拳を握りしめた。思いっきり踏み込み、その拳を振りかぶろうとした時、ユウメはズグロの目を見た。
その瞬間、ユウメは踏み込みを止め、一瞬でズグロから距離を取った。彼女の表情は驚きと疑問に覆われていた。
何故、驚いたのか、それは自分の全身から流れ出る冷や汗に気づいたからだ。何故、疑問に思ったのか、それは自分の行動だ。
反射だった。熱湯に触れた手が自らの意思とは関係なく引っ込むように、何故自分が彼から距離を取ったのか分からなかった。
それまで余裕の傍観を崩さなかった皇女が立ち上がっていた、その目は驚きに見開かれている。その言葉は皇女の意志とは関係なく、零れ出るように漏れた。
「特異点……」
──魔術師が最も真理に近づく瞬間は
命を賭した其の一瞬
皇女の内の瞳には彼の背後で渦巻き、深淵へと到達しようとする魔術が見えていた。
ユウメの頬から冷や汗が落ちる。
特異点と言った、イムの声が聞こえた。
一般的な属性魔術が特異点に到達するとどうなるか、炎の魔術の一例だが、術師は炎と完全に融合し、身体は炎そのものに変質し、不滅の存在になったと言う。
この話は眉唾物だ、そもそも前例が少なく、この炎の魔術の情報すら誰からの提供か分からないほどだ。魔術師は秘密主義のため、自身の魔術をペラペラ喋るヤツなんて目の前のズグロぐらいしか居ないのだ。
ただ、共通して言えること。特異点に到達したものは、人智を超えた魔術を得る。
もし、致命の溶毒が到達してしまったら。どうなるのか全く分からない、属性魔術でさえ、炎と一体化するなどと訳の分からないことになるのだ。固有魔術が到達すれば、恐らく、勝ち目はなくなる。
止めなければならない、何としてでも“真理への到達”を止めなければならない。だが。
「体が……動かない」
恍惚とした表情で魔力を練るズグロを止めようとするが、足が前に進まない。あの邪悪な魔術に近づくなと、身体が震えていた。魔力を練り続けるズグロ以外、宙に向かって螺旋を組む黒翼への恐怖に侵され身体の自由を奪われていたのだ。
「動け」
ユウメは自身の足を殴り、痛みによって硬直を解いた。どうにか走り出すが、ズグロの魔術は既に到達しようとしていた。
間に合わない。
そう思った瞬間、黒い獣がズグロの背中を切り裂いた。
「がぁぁっ!」
痛みと衝撃によって、ズグロの渦巻きが止まる。
ユウメと同じ方法で無理やり動いたのか、カッツィの右手は血に濡れ、震えていた。本当は致命傷を狙いたかったのだろうが、震えで狙いが逸れたのだろう。だが、上出来だ。一撃を加えた彼女は直ぐに奴から距離を取った。
ユウメの足が大地を強く踏み締める。もう一度あの域まで到達することを許さずに殺さなければならない。到達した瞬間に私達の敗北が確定する。カッツィが作ったチャンスを無駄にすることは出来ない。
「いってぇな……寸止めかよ……」
「安心してよ。一発で逝かせてやるからさ!」
ゆっくりと立ち上がるズグロに罵声を浴びせながら近づく、彼はユウメが近づいているにも関わらず、こちらを見ず、構えも取らなかった。
ユウメはそれに、どうしようもない違和感を抱く。
走りながら、ふと、気づく。こいつの特異点到達は止めたはずなのに、体の悪寒が消えない。何か、何か見落としている気がしている。
「何でカッツィの攻撃が当たったんだ……」
何故、カッツィの攻撃が当たったのか。こいつはこの戦いで一度も背後からの攻撃を受けていなかった、視線はずっと私を捉えていたのに。まるで、上から見ているかのように。
「俺はよ、この獣の特性はあまり好きじゃねぇんだ」
私は足を止める、この道中、私達は常に襲われ続けた。大量の魔獣にだ。彼らは操られているかのように徒党を組んで襲ってきた。
「魔術師は手札を隠すもんだが、殺られると思ってつい、使っちまった。お恥ずかしいね」
上からの視界。魔獣を操る能力。鳥型の魔獣を使っていた。その魔獣の視界を使っていたのだ。ならば、カッツィの攻撃が当たったのは、その視界が失われたから。
じゃあ、その鳥は今。──何をしてるんだ。
「わりぃな。面白くない死なせ方だ」
「ユウメさんっ!」
突如、私の体に衝撃が走る。吹き飛びながら回る私の視界に映ったのは、私を突き飛ばしたカッツィと、黒い羽根を纏った鳥だった。遥か空から急降下してきたであろうその黒い鳥はグズグズに溶けながらカッツィの肩を掠めて彼女の目の前で――爆発した。




