第47話:眠りなさいと、誰も言わなかった人へ
「奪いに来られたのでしょう」
アドリアンは、台座の前に立ったまま言った。
「どうぞ。……もっとも、私の許しなく触れれば、これは熱を上げます。あなたの手が焼けるだけだ」
「奪いには参りません」
私は敷石の上に座ったまま、両手を膝に置いて見せた。
「三日、立っておられますね」
「二日と、半日ほどです」
「お座りになりませんか」
「座れば、落ちます」
彼は微笑もうとして、失敗した。頬の筋が、うまく動かなかったのだ。
風が、堂を吹き抜けた。その風は三日前より、少しだけ湿っていた。谷の底で千の欠片が地に還ったぶん、この土地はわずかに息を取り戻している。アドリアンも、それに気づいていた。
「谷の連中は、石を返しているそうですね」
「はい」
「愚かなことだ。壁を崩し、道を剝がし、かまどを壊して、明日から何を食べるのです」
「壁は、また積めます」
「夜は、麦を実らせません」
「実らせます」私は言った。「眠った人が、翌朝、種を蒔きますから」
彼は答えなかった。答える代わりに、台座に片手をついた。体がゆっくりと傾いだのを、腕一本で支えた。
「アドリアン様」
「……なんです」
「三十年前の雪の夜、あなたを起こした方がおられました」
私は、静かに続けた。
「頬を打って、外套に包んで、村から連れ出してくださった。そのおかげで、あなたは今日まで生きておられます。それは間違いなく、あなたを救った手です」
「では、なぜ、あなたはそれを否定なさる」
「否定しておりません」
私は、首を振った。
「ただ——あの晩から今日まで、あなたに『眠りなさい』と言った人が、一人もいないのです」
アドリアンの瞼が、痙攣した。
「三十年です。あなたは一度も、誰にも、眠っていいと言われていない。浅く落ちるたびに、ご自分で頬を打って、雪の村から自分を引き上げてこられた。……ずっと、お一人で」
「それが、私の務めです」
「務めは、交代するものです」
私はそこで、母の唄を口ずさんだ。
力は込めなかった。込めても、この核の傍では銀の糸は一本も立たない。それは四度試して、鼻血を出して思い知っている。だから、ただの唄だった。子守唄。母が私に、そして私が眠れぬ人の枕元でずっと歌ってきた、それだけの唄。
——ねんねの子には、月がひとつ。
——月の子には、夜がひとつ。
アドリアンは、目を閉じなかった。閉じないまま、聴いていた。二節目に入ったとき、彼の膝がかくりと折れた。台座に縋って、こらえた。
「……やめてください」
「はい」
私は、やめた。
「なぜ、やめるのです」
「やめてくださいと、仰いましたから」
彼は、私を見た。三日ぶりに、微笑みではないものがその顔に浮かんでいた。困惑だった。
「眠れば」
しばらくして、彼は言った。
「あの村へ戻ります」
「はい」
「年寄りたちが、座っています。皆、穏やかな顔をして、雪を被って。……私だけが、立っている。あの夢を、三十年、見ています」
「存じております」
「あなたに、何が分かる」
「分かりません」
私は、正直に言った。
「私は、あの雪の中にいませんでした。あなたの見るものを、私は一度も見たことがありません」
風が、堂の穴を鳴らした。
「ですから、これだけを申し上げます」
私は立ち上がり、彼の傍へ行って、その前に膝をついた。手は、触れなかった。
「眠りなさい、アドリアン様」
彼の肩が、大きく震えた。
「もし、あの村に戻ってしまわれたら——朝に、私が起こします」
沈黙が、堂に満ちた。
「……起こす」
「はい。朝に」
「私を」
「あなたを」
彼は口を開いて、何かを言おうとした。言葉は出てこなかった。
三十年間、この人が欲しかったのは、眠らずに済む理由ではなかったのだと思う。眠っても、また起こしてもらえるという、それだけの保証だった。目を閉じることが「終わり」ではなく「明日の朝まで」であるという、当たり前のこと。誰も、それを言ってくれなかった。師も、教義も、彼が拾い上げた三千人の谷も。
アドリアンの手が、台座から離れた。膝が折れた。今度は、こらえなかった。
私は、その体を両腕で受け止めた。思ったよりずっと軽かった。
「……巫女、様」
「はい」
「朝に」
「朝に」
白い衣の司祭は、私の腕の中で、三十年ぶりに眠りに落ちた。
しばらく、私はそのまま座っていた。腕の中の人は、深く息をしていた。眉間の皺がほどけ、握りしめられていた指が少しずつ開いていく。掌から、小さな赤い石が転がり落ちた。落ちずに済むための石だ。もう、要らないのだろう。
堂の入口に、影が差した。ルキウス様が、いつのまにかそこに立っていた。
「……終わったか」
「はい」
「あの男を、どうする」
「朝に、起こします」
ルキウス様はしばらく黙っていた。それから堂に入ってきて、私の隣に膝をついた。
「私を眠らせたときと、同じことをしたな」
「ええ」
「あのとき君は、私に何も要求しなかった。眠れとも、呪いを解けとも、心を開けとも言わなかった」
「言いませんでした」
「ただ、隣にいた」
彼は、眠っている司祭の顔を静かに見下ろした。
「……この男は、私だ」
その言い方に、憐れみはなかった。
「眠るのが怖くて、意地で起きていた男が、ここにもう一人いただけだ。私は運が良く、君に会った。この男は運が悪く、雪の村で助かった」
私は頷いた。この人が、かつての自分を通してでなければ敵を見られない人であることを、私はよく知っている。だからこそ、この人は誰も憎まずに済んでいる。
核が、台座の上に残された。誰の手も触れていない。それでも、赤い脈がゆっくりと遅くなっていくのが分かった。まるで、抱いていた腕が緩んだ子どもが、そっと寝台に置かれたように。
私は、坑夫たちを呼んだ。バルドリックとマレーヌが二人がかりで、それを布に包んだ。熱はもう、人の手を焼かなかった。
「重いか」
ルキウス様が聞くと、バルドリックは汗を拭って笑った。
「うちの娘のほうが、重い」
地の底へ。梯子を三つ、斜坑を二つ。灯の列が、球形の広間へ降りていく。円い窪みの中央、拳三つ分の欠けたところへ、二人はそれをゆっくりと収めた。
かちり、と音がした。
私は、両手をかざした。母の唄を、頭から。
銀の糸が走った。今度は、途切れなかった。中心から外へ、外から中心へ、糸は縦横に渡り、千の欠片を一つの球に縫い合わせていく。
最後の一針が、閉じた。
地が、鳴った。地鳴りではなかった。深く、低く、長い——息のような音だった。千年ぶりに、この土地が息を吸ったのだ。
窪みの底から、冷たいものが立ち上ってきた。それは私の足首を撫で、膝を撫で、坑夫たちの体を通り抜けて、坑道を昇っていった。
誰かが、坑口へ向かって走った。私も、ルキウス様の手を借りて梯子を登った。
地上へ顔を出した瞬間、頬に触れたものに、私は立ち尽くした。
暗かった。谷が、暗かった。
第3部の決着です。力ではなく、「朝に起こします」の一言で決まりました。
そして、千年ぶりに、フェランの谷に夜が降ります。
次回、最終話「フェランに、星が降る夜」。ジュリオとの約束を果たします。
「朝に起こします」の一行を書きたくて、第3部を始めたようなものでした。ご感想をお待ちしています。




