第48話:フェランに、星が降る夜(第3部・完)
谷が、暗かった。
坑口の火は落ちている。炉も閉じている。けれど、それだけではこの暗さにはならない。空の天蓋が、消えていた。白く濁っていた煙の膜が風に流されて、その向こうから——本物の夜が降りてきていた。
千年ぶりの、夜だった。
人々は、外に出ていた。三千人が、坂に、道に、剝がされた砂利道の跡に立って、ただ空を見上げていた。誰も喋らない。
どう喜べばいいのか、この人たちは知らないのだと思う。喜び方は経験から作られる。この谷には、夜を喜んだ経験が千年、無かった。
やがて、雲が切れた。最初の一つが、瞬いた。次の瞬間、空の東側が、ざあ、と一面に開いた。
星だった。
「おくがた、さま」
袖を引かれた。ジュリオが、口を開けたまま空を見上げていた。桶を落として、水をこぼしているのにも気づいていない。
「あれ」
「星です」
「ほし」
少年は、その言葉を覚えたての言葉のように繰り返した。
「あれ、ぜんぶ?」
「ええ。全部、星です」
「ぜんぶ……」
ジュリオはしばらく空を見上げていた。それから、急に不安になったように私を見た。
「なくならない?」
「なくなりません」
私はしゃがんで、少年と目を合わせた。
「朝になったら見えなくなりますけれど、また夜が来たら必ず戻ります。毎日です」
「まいにち」
「毎日です」
少年の目から、涙が落ちた。自分でも、なぜ泣いているのか分からない顔をしていた。
私は胸元から、色褪せた押し花のしおりを外した。夢見の都の子どもが昔、私にくれたものだ。「よる、こわくなくなるおまもり」。たどたどしい字の、私の宝物。
「これを、あなたに」
「え」
「今日から、あなたには夜が来ます。夜は、時々、少し怖い。そのときに、これを」
ジュリオは両手でそれを受け取り、月光に翳して押し花を見た。
「これ、よるにさくはな」
「月見草です」
「ここでも、さく?」
「咲きます」私は言った。「今日から、咲きます」
その夜、フェラン鉱山領は眠った。
筵の小屋の五十人が、順に瞼を落とした。私は一人ずつの額に手を当てて、唄を紡いだ。糸は、今度は素直に降りた。この土地の底には、夜がある。
長屋でも、館でも、坑口の脇でも、人が眠った。三千の寝息が、谷にたまっていくのが分かった。私は坑口の前に立って、それを聞いていた。
こつ、と、音がした。
空の鳥籠は、返された鉤の代わりに、新しい木の枝に吊るし直されていた。誰かが通りすがりに叩いていったのだ。癖なのだろう。千年、続いてきた癖。
その籠の中に——一羽、いた。
息を、呑んだ。
灰色がかった、小さな鳥だった。籠の底の止まり木に、当然のような顔で止まっている。扉はとうに落ちている。どこからでも出ていける。
鳥は、私を見た。それから、喉を膨らませて、ひとつ鳴いた。高く、澄んだ、鈴のような声だった。
その声を聞いて、長屋のあちこちで人が身じろぎをした。眠りが一段深くなったのが、空気で分かった。
夜を告げる鳥。千年前、この谷から夜と一緒にいなくなり、夜と一緒に戻ってきた鳥。
私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
ノクスが、いつのまにか私の足元にいた。この谷に来てからずっと毛を逆立てていた黒猫が、坑口の石の上で体を伸ばして丸くなっている。
均衡の番が、眠る。それが、この土地の答えだった。
その夜、夢見の都から早馬が着いた。クラリスの手紙だった。要件は三つ。麦の刈り入れが例年より早いこと。市の税を一割下げたこと。そして三つ目に、こう書いてあった。
——月見草が、二度目の花期を過ぎても咲いております。おかしなこともあるものですわ。留守を預かる者としては、報告の義務がありますので、お知らせするだけです。深い意味はございません。
その下に、小さな字で、一行。
——認めませんけれど、早くお帰りになって。
私は、その手紙を二度読んだ。
朝が来た。尾根の堂で、私は約束を果たした。
「アドリアン様。朝です」
三十年ぶりに眠った人は、ゆっくりと目を開けた。しばらく天井を見ていた。それから、自分の手を見た。焼けるような赤も、握りしめた石も、そこには無い。
「……起きて、しまいました」
「はい」
「私は、あの村に、戻りませんでした」
「はい」
彼は片手で顔を覆った。指の隙間から、声にならない音が漏れた。
三十年、この人が恐れていたものは、目を閉じたら二度と朝が来ないことだった。朝は、来た。
彼はその日のうちに王都へ発った。誰も縛らなかった。バルドリックが、それを望まなかったからだ。
「俺も、同じ穴を掘った男だ」
領主はそう言って、旅の糧を持たせた。
「裁きが要るなら、俺の分もまとめて受けてこい」
「……はい」
白い衣は、洗われてまた白くなっていた。
「巫女様」
去り際、アドリアンは私に向き直った。
「師に、会ってまいります。幽閉の塔でも、朝は来るのでしょうか」
「来ます」
「では、そう伝えます」
彼は深く一礼して、坂を下りていった。
フェラン領は、盟約に署名した。バルドリックが自分の手で判を押した。三度断った証文の、四度目だった。
「鉄の量は、減る」
彼は押しながら言った。
「夜半から明け方まで、火を落とすからな。王都には俺が行って、頭を下げる。……足りなけりゃ、坑道の造りを変える。人を殺さずに掘る方法くらい、二十年もあれば見つかるだろう」
「二十年」
「俺の代では終わらん」男は、館の窓を見た。「あいつの代で、終わればいい」
窓の内側で、リゼが眠っていた。頬に、赤みが戻りはじめていた。
私たちが谷を発つ朝、坂の上まで三千人が見送りに出た。
マレーヌが、腰の鎚を叩いて言った。
「奥方様。ここの夜は、私らで守ります」
「はい」
「どうせ、次の土地があるんでしょう」
私は微笑んだ。この人には、隠しごとができない。
実は、二日前に王都から早馬が来ていた。ルキウス様が受け取った書簡を、私も読んだ。
——王都の東、ヴェルシア古都にて、異変。
——住民、眠りより覚めず。三日、四日と眠り続け、揺すっても起きぬ由。
眠れない土地を、私たちは三つ見てきた。目覚めない土地は、初めてだった。
馬車が、坂を下る。窓から振り返ると、フェランの空にはまだ星が残っていた。朝が来ても、しばらく消えない星が、いくつか。
坑口の鳥籠の下で、ジュリオが手を振っていた。もう片方の手には、押し花のしおりが握られている。
「またね」と、少年の口が動いた。
私は、手を振り返した。
「ルキウス様」
「あぁ」
「眠れない土地の次は、目覚めない土地だそうです」
「均衡というのは」ルキウス様は、私の手を握った。「傾く方向が、いつも同じとは限らんな」
私は頷いた。胸元のペンダントは、今日は温かい。
夢見の都の月と、フェランの星と、そして——まだ見ぬ、目覚めない都の朝。
眠りの巫女と、夜の守人。二人の旅は、まだ終わらない。
——第3部「夢見の都と、月の盟約」・完。
第3部、完結です。ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。
第3部は、「与えることのできなかった話」でした。セレネの子守唄は、この土地には届きませんでした。届かないと分かってから、三千人が自分の手で、千年分の夜を地の底へ返しに行きました。夜は、与えられるものではなく、その土地の人が守れるようになって、はじめて根づくのだと思います。
そして、フェランに星が降りました。夜を知らなかった子が、毎日戻ってくるものを、ひとつ手に入れました。
眠れない土地の次は、目覚めない土地です。均衡は、いつも同じ方向に傾くとは限りません。
セレネとルキウスの、優しい夜の物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
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