第45話:焼ける地と、銀の糸の限界
半日で、谷は変わった。
空が赤い。雲が焼けて、暮れることを忘れた夕焼けのように、天蓋の全体が鈍く光っている。井戸の水位が下がった。水路が細くなった。羊が柵を破って走り回り、犬が鳴きやまない。
そして、人が倒れはじめた。筵の小屋では、二十人が三十人になり、三十人が五十人になった。眠れないのではない。目を閉じることさえ、できなくなっていた。瞼が乾いて、閉じないのだ。
私は、堂の下の斜面で夢織りを試みた。ルキウス様が背後から私の両肩に手を置いた。夜の守人の力を、私の糸に添える。王都の日輪を三日間覆った、あの重ねかけだ。
銀の糸が伸びた。これまでで、いちばん太い糸だった。谷の底へ向かって、幕のように広がっていく。
届いた——と思った瞬間。糸は赤い空気に触れて、端から焼け落ちた。燃えたのではない。ほどけたのだ。糸を縒っていた夜そのものが、片端から吸い取られていく。
二度。三度。四度目で、視界が白くなった。
「セレネ」
膝が地についた。ルキウス様が、私の体を抱き止めた。鼻から血が垂れていた。指の感覚が無い。息を吸っても、肺に入ってくるのは乾いた熱ばかりだった。
「もう、いい」
「いいえ」
「セレネ」
「いいえ」
私は、震える手で母のペンダントを握りしめた。できないと分かっていることを、四度も繰り返した。それがどれほど愚かか、自分でも分かっていた。
けれど——分かってしまった。四度繰り返して、私はこの土地の底の形を、はっきりと指で読んだのだ。
「……戻せばいいのです」
私は、掠れた声で言った。
「なんだと」
「碑文に、書いてありました。『砕きて、地に埋めよ。二度と、掘り出すことなかれ』」
私は、顔を上げた。
「あれは、覚醒派の命令ではありません。あとから刻まれた、あの一行と同じ手です。——掘った人が、掘ったあとで、書き残したのです」
乾いた風の中で、私はようやく順序を理解した。
千年前、この谷から要石が掘り出された。砕かれ、地の底へばら撒かれた。それでも地の底にある限り、この土地は「眠れない」だけで済んでいた。欠片が地表に出るほど、夜は遠のく。
この千年、この谷の人々はそれを掘り出し続けた。道に敷き、壁に積み、かまどに並べ、灯りの代わりにしてきた。悪意ではない。知らなかっただけだ。千年かけて、この谷は自分たちの夜を、少しずつ地上へ運び上げてしまった。
「なら、戻せばいい」
私は立ち上がった。ルキウス様の腕を借りて、やっと立てた。
「私が織るのではありません。千年かけて運び上げたものを、この谷の人たちが地の底へ返すのです」
「三千人で、何日かかると思う」
バルドリックが言った。
「道の砂利だけで二里だ。壁も、かまども、井戸の縁も——」
「三日で」
「無茶だ」
「三日で焼け死ぬのは、この谷の人たちです」
私は、その目を見た。
「領主様。号令をかけられるのは、あなただけです」
男は、赤い空を見上げた。二年前まで、坑道で倒れた者に自分で水を運んでいたという、その顔で。
「……マレーヌ」
「はい」
「鐘を鳴らせ。全員だ。坑夫も、女も、子どもも」
鐘が鳴った。この谷の鐘は落盤のときにしか鳴らないものだった。だから、全員が出てきた。
坂を埋めた三千人の前で、私は事の次第を話した。夜が地から昇ること。千年前に要石が掘り出され、砕かれたこと。赤い石はその欠片であること。あなた方の家の壁も、道も、かまども、夜そのものであること。そして、それを地の底へ返さねば、この谷は焼けること。
話し終えると、静けさが落ちた。誰も、動かなかった。
当然だと思った。今日まで暮らしを支えてきたものを、今日から毒だと言われて、はいそうですかと壁を崩せる人はいない。
最初に動いたのは、マレーヌだった。
彼女は腰の鎚を外した。二十八年握ってきたという、その鎚を地面に置いた。
「……私は、この谷でいちばん、石を掘った女です」
彼女は、誰にともなく言った。
「掘れと言われて掘って、下の者に掘れと言って、甥にも言ってきた。いちばん運び上げたのは、私だ」
そして屈んで、足元の砂利を一握り拾い上げた。
「だから、いちばん多く、返します」
彼女は、坑口へ向かって歩き出した。
二人目は、トマだった。自分の家の壁から一つ、赤い石を抜いた。三人目は、かまどの縁石を四つ抱えた、あの老いた女だった。
「うちの人が、持って帰った石です」
女はそれを胸に抱いて言った。
「返しに行くのも、うちの人の仕事でしょう」
列が、できた。鶴嘴を捨てた手が石を抱えた。荷車が坑口へ向かって並んだ。子どもたちが砂利を袋に詰めて運んだ。バルドリックは館から自分の手で運んだ。娘の枕元にあったものを廃坑から掘り返して、自分の背で担いだ。
白く濁っていた谷に、赤い光の川が流れた。地上に千年積み上げられた夜が、いま、地の底へ帰っていく。
列の中に、小さな影があった。ジュリオだった。両手で拳ほどの赤い石を一つ、大事そうに抱えている。
「これ、ぼくのだよ」
少年は、私の前で立ち止まって言った。
「ずっと、まくらのよこにおいてた。ひかるから、こわくないんだ」
私はしゃがんで、その石を見た。角が丸い。何年も、小さな手で撫でられてきた石だった。
「返したら、暗くなりますよ」
「うん」
「怖くありませんか」
ジュリオは少し考えた。それから、こう言った。
「よるって、そういうものなんでしょ」
私は、頷くことしかできなかった。
少年は列に戻っていった。自分の背丈ほどの荷を担いだ大人たちの隙間を、ちょこちょこと歩いて、坑口へ。
そのすぐ後ろを、妹が歩いていた。片腕に石を抱え、もう片方の手で痩せた少女の手を引いている。リゼだった。二年ぶりの眠りから覚めたばかりの子が、毛布を巻かれて自分の足で歩いていた。その細い腕にも、小さな赤い石が一つ抱かれている。
「お姉様。この子が、どうしてもと」
妹が、済まなそうに言った。
「わたくしが、止めるべきでしたけれど」
「いいえ」
私は、少女の前に膝をついた。
「リゼ様。それは、あなたのお父様が運んでこられた石ですね」
少女はこくりと頷いた。それから、初めて聞く声で小さく言った。
「おとうさま、ずっと、はこんでた。……だから、いっしょに、かえす」
私は坑口に立って、その列を迎えた。できることは、ひとつだけだった。運ばれてきた欠片を一つずつ、地の底の窪みへ収め、銀の糸で繋いでいく。
織るのではない。継ぎ直すのだ。
セレネの力では、もう届きませんでした。届かないと分かったところから、この回が始まります。
最初に鎚を置いたのは、この谷でいちばん石を掘った女でした。
次回、「千年前に砕かれたものを、継ぎ直す」。
ここから先は、主人公ではなく谷の人たちの回です。続きもお付き合いいただけたら幸いです。




