第44話:眠るな、生きろと言われた子
日輪堂は、谷を見下ろす尾根の上に建っていた。小さな石造りの堂だった。屋根は落ち、扉は無く、風がそのまま吹き抜けていく。正面の壁には丸い穴が穿たれていて、そこから白い空が見えた。
真昼になれば、あの穴から陽が差す。その真下に、石の台座がある。千年前、この谷を掘った者たちが建てた堂。掘ったあとで怖じ気づき、籠って祈ったのだという。
アドリアンは、その台座の脇に座っていた。布に包まれた核を膝に抱き、背を丸めて、まるで子どもを寝かしつける親のように。
「一人で来られたのですか」
「一人です」
「勇敢なことだ」
私は、堂の入口に立ったまま答えた。
「連れがおりましたら、あなたは何もお話しにならないでしょう」
アドリアンは少し笑った。今度の笑い方は、貼りついたものではなかった。
「どうぞ。座る場所はありませんが」
私は、崩れた敷石の上に腰を下ろした。尾根の上は風が強い。ここまで来ると槌の音も届かない。谷底の赤い灯だけが、眼下でぼんやりと明滅している。
「昨日の問いに、お答えいただけますか」
「……眠ったことがあるか、でしたね」
「はい」
彼は、しばらく黙っていた。
「あります」
それから、こう言った。
「一度だけ。八つの冬に」
その冬、彼の村は飢えていた。二年続けて麦が実らず、村の者は町へ出た。出て、戻ってこなかった。残されたのは、老人と子どもだった。
「三日目に、雪が降りました」
アドリアンは、堂の穴から見える白い空を見上げて言った。
「雪が降ると、静かになるでしょう。あの静けさは、とても優しいのです。腹が空いているのに、痛くなくなる。寒いのに、温かくなる。……年寄りたちが、順番に、座ったまま動かなくなりました」
「……」
「私も、座りました。座って、目を閉じました。とても、気持ちがよかった」
彼は、膝の上の布包みをそっと撫でた。
「そこへ、旅の司祭が通りかかったのです。まだ若い、大司教になる前の、ゼフィール様でした。……あの方は、私の頬を打ちました」
アドリアンの声は、淡々としていた。
「二度、三度。私が目を開けるまで。そして、こう言われた」
——眠るな。生きろ。
「私は、その言葉で目を覚まし、あの方の外套に包まれて村を出ました。あの村で生き残ったのは、私一人です。目を閉じた者は、全員、そのまま死にました」
風が、堂の中を吹き抜けた。
「巫女様。あなた方は『眠りは救いだ』とおっしゃる。私は、眠りが人を連れていくところを、この目で見ています。八つの冬に、十九人」
私は、目を伏せた。
この人の言っていることは、間違っていない。凍える夜に眠れば、人は死ぬ。それはまぎれもない事実だ。この人は嘘の上ではなく、本当の記憶の上に立っている。
「以来、私は眠っておりません」
「三十年近く、ですか」
「浅く落ちることはあります。半刻ほど。……そのたびに、雪の村へ戻ります。年寄りたちの、あの穏やかな顔が見える。だから、すぐに起きます」
彼は懐から小さな赤い石を取り出して、掌に乗せた。
「これは、そのための石です。持っていると、落ちずに済む」
私はしばらく、何も言えなかった。
夢織りが効かないのは、この土地のせいだと思っていた。けれど、この人に関しては違う。この人は眠りを、自分の意思で拒み続けている。三十年、たった一人で、あの雪の夜の続きを生きている。
「アドリアン様」
私は、静かに言った。
「あなたのお師匠様は、あの晩、間違ったことは仰っていません」
「当然です」
「凍える夜に目を閉じれば、人は死にます。ですからあの方は、あの晩、あなたに『眠るな』と言われた」
私は、彼の顔を見た。
「けれど、あの言葉には、続きがありました。——生きろ、と」
アドリアンの掌の石が、わずかに揺れた。
「三十年前の雪の夜に、あの方があなたに渡したかったものは、『眠るな』ではなく『生きろ』のほうだったのではありませんか」
「……同じことです」
「違います」
私は、首を振った。
「あの晩だけは、同じでした。けれどそれは、あの晩の話です。雪は、もう溶けています。あなたは暖かい堂の中で、三十年間、雪の中に座り続けておられる」
沈黙が、長く続いた。やがて彼は掌を握りしめた。石の光が、指の隙間から漏れた。
「……巫女様は、お上手ですね」
声は震えていなかった。震えていたのは、手のほうだった。
「あなたは、私を憐れんでいる。憐れむということは、私が間違っていると決めているということだ。……ゼフィール様も、そうやって公の場で憐れまれました」
「私は」
「明日の正午です」
彼は、立ち上がった。
「陽が、あの穴を通ります。真下に、これを置く。……巫女様。もし止めたければ、明日、力ずくでどうぞ。あなた方は、そうやって勝ってこられた」
「力では、止めません」
私は立ち上がって、頭を下げた。
「明日、また参ります。手ぶらで」
尾根を下りると、ルキウス様が岩陰で待っていた。一人で行くと言った私を、彼は止めなかった。止めない代わりに、ここまで付いてきて、ずっと立っていたのだ。
「聞いたか」
「はい」
「憎めたか」
「いいえ」
私は、正直に答えた。
「あの方は、八つのときに助けられた手を、まだ握っておられます。ただ、その手が握り方を間違えて教えたのです」
ルキウス様は、私の顔を覗き込んだ。それから、指で私の目尻を拭った。泣いていたことに、そこで気がついた。
「……私、悔しいのです」
「あぁ」
「あの方を眠らせる方法が、私には分かりません。石を退けても、眠ってくださらない。ご自分で拒んでおられるのですから」
「拒む相手を眠らせた前例が、一つある」
彼はそう言って、自分の胸を指した。
「私だ」
息が、止まった。
「私は、眠るのが怖かった。眠れば魔力が緩んで、誰かを殺すかもしれない。だから四百二日、意地で起きていた。……あのとき君は、私に何をした」
覚えている。何もしなかったのだ。ただ、隣に座って唄っていた。
「傍にいただけです」
「あれが、いちばん効いた」
翌日、正午。尾根の上は、この谷では珍しく風が凪いでいた。
私たちは——ルキウス様、バルドリック、マレーヌ、トマ、そして数十人の坑夫たちは、堂の外に立っていた。誰も、堂には踏み込まなかった。
アドリアンは、台座の上の布をそっと解いた。拳三つ分ほどの、赤い塊。表面に走る亀裂が、脈のように光っている。
白い空の、雲の切れ間がゆっくりと動いた。
陽が、堂の丸い穴を通り抜けた。
光が、核に触れた。最初は、何も起こらなかった。
次の瞬間、足元の地面が鳴った。地鳴りではない。もっと高い、硝子を擦るような音が、地の底から一斉に立ち上がってきた。谷中に散らばった千の欠片が、いっせいに応えたのだ。
顔に、熱が来た。風が凪いだのではなかった。空気が、乾いていくのだ。喉の奥が痛くなる。目が乾く。
眼下の谷を見て、私は息を呑んだ。
白かった空が——赤く、染まりはじめていた。
アドリアンの、八つの冬の話です。彼は嘘の上ではなく、本当の記憶の上に立っています。
「眠るな」と「生きろ」。三十年前の雪の夜、彼が受け取れたのは、前半だけでした。
次回、「焼ける地と、銀の糸の限界」。谷が焼けます。
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