第43話:覚醒の司祭、アドリアン
第七坑の格子の前で、私たちは待った。
私とルキウス様だけではない。トマが仲間を呼び、マレーヌが差配として立ち会い、坑口にはいつのまにか三十人ほどの坑夫が集まっていた。夜半の報せは、この谷では驚くほど速く回る。
地の底から、灯が昇ってくる。ゆっくりと、確実に。二年かけて掘られた細い道を、白い衣の男が上がってくる。やがて格子の内側に、その姿が現れた。
アドリアンは、私たちを見ても驚かなかった。
「おはようございます。……いえ、この谷では、朝も夜もありませんね」
彼の腕には、布に包まれたものがあった。人の頭ほどの大きさ。布越しに、赤い光が脈打っている。今まで見たどの石より濃く、脈の間隔が生き物のように規則正しい。
私は思わず一歩、下がった。母のペンダントが、皮膚を焼くほど冷たくなっていた。
「それは、要石の核ですね」
私が言うと、アドリアンは満足そうに頷いた。
「よくお分かりだ。さすがは巫女様です」
「千に砕かれた、中心の一片」
「はい。いちばん深く、いちばん厚く沈められておりました。二年、かかりましたよ」
彼は、それを愛おしそうに抱え直した。
「地の底にある限り、これは夜を『昇らせない』だけです。けれど陽の下へ出せば——夜を、『消す』ようになります」
「……この谷から」
「この谷から、北の三領まで。私の見立てでは、そのくらいは」
あまりに事もなげだったので、私は聞き違いを疑った。
「三つの領から、夜を消すおつもりですか」
「消すのではありません。返上するのです」
アドリアンは、微笑んだ。
「夜のない土地が、それでも人が生き、麦が実り、鉄が出ると証明されれば——盟約は意味を失う。眠りと覚醒が一対だなどというのは思い込みだったと分かる。私は、それを見せたいだけです」
「ゼフィール様のためですか」
その名を出したとき、彼の足が初めて止まった。
「……師の名を、あなたの口から聞くとは」
「あの方は、幽閉されています。もう、誰も操っていません」
「操ってなど、おられなかった」
声が、わずかに硬くなった。
「師は、世界を正そうとされた。それを、あなた方は寄ってたかって『簒奪』と呼び、証文を突きつけ、公の場で笑いものにした。……そして、その後どうなりました? 世界は、良くなりましたか」
「王都に、夜が戻りました」
「戻って、何が変わりました」アドリアンは言った。「宮廷は夜の刻限を定め、貴族は寝具を買い、皆、朝までぐっすり眠って、そして誰も何もしていない。ゼフィール様が三十年かけて整えた治水も、備蓄も、今の宮廷には維持できません。眠りとは、そういうものです。人から、続ける力を奪う」
「……あなたは」
私は、彼の目を見た。
「あなたは、眠ったことが、ありますか」
白い衣の司祭は、答えなかった。微笑みは消えていなかった。ただ、その微笑みが顔の上に置き忘れられたもののように見えた。
彼は、質問そのものを聞かなかったことにして話を続けた。
「三日後の正午、これを陽の下に置きます」
「アドリアン様」
「場所は、谷の上の日輪堂。千年前、この谷を掘った者たちが建てた堂です。あの者たちは掘ったあとで怖じ気づき、堂に籠って祈ったそうですよ。……愚かなことだ」
彼は、歩き出した。私は、その前に立ちはだかった。
「一つ目の約束を破るなと、言われたのだが」
背後でルキウス様が呟いた。それでも、彼は私を引き戻さなかった。代わりに、私の半歩後ろに並んだ。
「その石を、置いていってください」
「お断りします」
「では、力ずくで」
ルキウス様の影が、動いた。
夜の守人の力は、影を編む力だ。夢見の都では、これで聖騎士団の足を止めた。王都では、暴走した日輪の熱を三日間、覆い続けた。黒い帯が幾筋も伸びて、アドリアンの足元を掬いにかかった。
——届く手前で、それはほどけた。
布の隙間から漏れる赤い光に触れた瞬間、影が灰のように散った。
ルキウス様が、片膝をついた。
「……ルキウス様」
「大事ない」
彼は額の汗を拭って、低く笑った。笑ったけれど、その手は震えていた。
「なるほど。夜そのものを消す石だ。夜の力が効かんのは、道理だな」
アドリアンは、そのやりとりを黙って見ていた。
「お二人とも、お強い方だ。夢見の都でも、王都でも、そうやって勝ってこられたのでしょう」
彼は、静かに言った。
「けれど、今回は勝てません。あなた方の力の源は夜です。私が持っているのは、夜が無くなる石です。……剣が水に沈むのと同じことです」
その言葉に答えたのは、私ではなかった。
「司祭様」
人垣を分けて、マレーヌが前へ出た。腰に鎚を提げたまま、油の染みた革帯のまま、彼女は白い衣の前に立った。
「麦一斗の話ですがね」
「はい」
「私ら、あんたの麦を二年もらってました。三日にいっぺん、坑道の底から石を上げて、そのたびに、麦を」
私は驚いて彼女を見た。聞いていない話だった。
「知りませんでした」
「言えるわけがない」マレーヌは私を見ずに言った。「うちの甥も、その麦で育ってます。……司祭様。あんたに一つだけ、聞きたい。あんた、あの麦を、どこから持ってきなすった」
アドリアンは、初めて答えるのに間を置いた。
「教会の蔵からです」
「王都の教会は、二年前に潰れたと聞きました」
沈黙が落ちた。
「……売っていました」マレーヌは言った。「私、荷を検めたことがあるんです。麦袋の下に、空の木箱が三十。焼き印は、王都の骨董商のものでした」
彼女は、坑口を親指で示した。
「あんたは、この谷の石を売って、その金で買った麦を、この谷に配ってた。私らは、自分で掘った石の代金を、麦で受け取ってただけだ」
「そう仰らないでください」アドリアンは穏やかに言った。「金の出所と、行いの正しさは、別のことです」
「そうかい」
マレーヌは、鼻から息を吐いた。
「私は、字が読めない。理屈も知らない。けど、二十八年、石を担いできた人間として言わせてもらいます。——自分の掘った石で買った飯を、恵んでもらったと思わされるのは、屈辱です」
彼は、坂を登っていった。白い衣が赤い光を抱えて、白い空の下を遠ざかっていく。誰も追わなかった。追っても止められないと分かってしまったからだ。
私は、その場に立ち尽くしていた。夢織りが効かない。夜の守人の影も効かない。私たちが積み上げてきたものが、この谷ではことごとく届かない。
「セレネ」
ルキウス様が、私の手を握った。
「三日ある」
「はい」
「君は、いつもこういうときに何かを見つける」
私は頷いた。頷いたけれど、胸の中は空だった。
——けれど、そのとき、坂の下から、こつ、という乾いた音が聞こえた。交代の坑夫が、坑口の空の鳥籠を指で叩いていく音だった。意味も分からず、千年、叩き続けられてきた音。
私は、顔を上げた。
覚醒の司祭アドリアン。声を荒らげず、金も取らず、ただ信じ切っている人です。
三日後の正午、日輪堂で、要石の核が陽に晒されます。夢織りも、夜の守人の力も届きません。
次回、「眠るな、生きろと言われた子」。彼が眠らない理由を聞きに行きます。
穏やかな敵がいちばん怖い、と思いながら書きました。ご感想をいただけたら嬉しいです。




