第42話:掘ってはいけないものと、明日の糧
地上へ戻ると、朝が来ていた。白い朝だった。けれど坑口の火は落ちたままで、槌の音は無い。谷は、静かだった。
その静けさの中を歩きながら、私はあることに気づいた。道の砂利が、赤い。
しゃがんで、拾い上げた。親指ほどの、角の取れた石だった。長年踏まれて丸くなっているけれど、日陰に翳すと内側がぼう、と明滅する。
私は立ち上がって、道の先を見た。谷を貫く道は、二里にわたってこの砂利で敷かれている。
「マレーヌさん。この道は、いつから」
「さあ。私の生まれる前からです」
彼女は何気なく答えてから、私の手の中の石を見て、言葉を切った。
「……まさか」
半日かけて、私たちは谷を歩いた。長屋の土台石。井戸の縁石。炉の内張り。かまどの周り。子どもが川で拾って積んだ塔。坑口の鳥籠を吊るしている、あの鉤。
どれも、赤かった。
千年である。千年のあいだ、この谷の人々は掘り出した屑石を捨てるのではなく、暮らしに使ってきた。売れない石はそこらに転がっていて、頑丈で、手ごろな大きさで、しかも夜になるとほのかに光る。灯りの乏しい谷で、光る石は便利だったのだ。
「壁にも入ってます」
トマが、自分の家の壁を叩いて力なく言った。
「うちの親父が積んだ壁です。ここらの家は、みんなそうだ」
私には、返す言葉がない。
石を退ければ、人は眠れる。それはリゼの部屋で証明した。けれど、この谷から石を退けるということは——この谷を、いったん壊すということだった。
「三千人を、どこに住まわせる」
館の広間で、バルドリックが低く言った。卓の上には帳面が積まれている。彼はこの朝から、二年ぶりに帳面を開いていた。
「家を崩す。道を剝がす。炉を壊す。そのあいだ、掘れん。掘らねば納入が滞る。滞れば王都は取り立てる。……冬までに、ここは無人になるぞ」
「王都には、私が」
「あんたの口添えで、借財が消えるのか」
消えない。盟約は夜を国の制度に戻した。けれど、借財の証文までは書き換えない。
「……時間が要ります」私は言った。「順番と、段取りが」
「その時間で、あと何人が眠れずに倒れる」
男の声には、もう怒気はなかった。ただ、疲れ切った現実があった。この人を悪だと思えたときのほうが、話は簡単だった。
その日の昼、私は妹と一緒に長屋を一軒ずつ回った。石のことを、伝えて歩くためだ。
「壁の赤い石を、いつか外させてください」と言うと、たいていの人は困った顔で笑った。
「外したら、雨が入りますよ」
「冬が来ます」
「うちは、それが柱を支えてるんです」
誰も、私を疑わなかった。疑わずに、それでも動けなかった。石を外すことと、家を保つことが、同じ石の上で釣り合ってしまっている。
三軒目で、老いた女がこう言った。
「奥方様。うちの人は、去年、坑道で死にました」
女は、かまどの縁を撫でた。赤い石が四つ、きれいに並べて積んである。
「これは、うちの人が持って帰った石です。晩に光るから、あの人はこれを枕元に置いて、私の縫い物を照らしてくれた」
私は、頭を下げるほかなかった。この石は、この人たちにとって災いの粒ではない。暮らしの道具で、灯りで、亡くなった人の手の記憶だった。
妹が、その手をそっと取って言った。
「わたくしの姉は、外せと申しません。いつか、あなた様が外したくなったときに、代わりの石を積みに来ます」
女はしばらく妹の顔を見てから、深く頷いた。
帰り道、私は妹に言った。
「上手ですね」
「昔、奪う側にいましたから」妹は俯いた。「奪われる側が、何を言われると心を閉じるかは、よく存じております」
その日の夕刻、坑口に人が集まった。白い衣の司祭がそこに立っていたからだ。アドリアンは木箱の上に登るでも、声を張るでもなく、ただ、集まってきた人々の前に静かに立っていた。
「みなさん」
その声は、不思議とよく通った。
「昨夜、坑道の火が落ちましたね。眠れた方は、何人おられましたか」
答えは、なかった。三千人のうち、三人。皆、知っている。
「私は、責めているのではありません」アドリアンは微笑んだ。「ただ、事実を確かめたいのです。火を落とし、休んでも、あなた方は眠れなかった。違いますか」
人垣が、揺れた。
「眠れないのは、あなた方の咎ではありません。あなた方はそういう土地に、そういう者として生まれついた。それは呪いではなく、選ばれたということです」
私は思わず一歩、前に出た。その袖を、ルキウス様が掴んだ。今、割って入れば、この人たちは「都の女が司祭様を怒鳴った」としか受け取らない。
「掘りなさい」アドリアンは言った。「今日ぶんの糧のために、掘りなさい。あなた方が掘る石は、覚醒の欠片です。それを地上へ運び上げることは、聖なる仕事だ。……教会は、掘った石一貫につき、麦を一斗、お出しします」
ざわめきが、大きくなった。麦一斗。この谷では、一日の稼ぎの三倍だ。
その夜、坑道の火がいくつか、また灯った。
誰が悪いのでもなかった。妻がいる。子がいる。冬が来る。夜の話は分かった。分かったうえで、明日の飯が要る。
私は長屋の前でそれを見ていた。灯が一つ点り、二つ点り、やがて谷の半分ほどがまた明るくなった。槌の音が、戻ってきた。
「……負けました」
私は、正直に言った。
「私は、あの人たちに夜のことしか話していません。飯の話をしていない。あの司祭は、飯の話をしました」
「君は、麦を持っていない」
「はい」
「持っていないものを配れなかったことを、負けとは言わない」
ルキウス様は、私の肩を抱いた。
「配るものを、これから作ればいい」
その夜半、トマが息を切らして駆けてきた。
「奥方様。第七坑です」
「灯が動きましたか」
「動きました。……それも、下りじゃない。上ってきてる」
私は、外套を掴んだ。
「あの人が、何かを持って上がってきます。俺の勘ですが、あれは——」
最後まで聞かなくても、分かった。二年かけて一人で掘り進んだ道の、その先にあるもの。千年前、いちばん深いところへ沈められた、いちばん大きな欠片だ。
掘るのをやめればいい——では済まないのが、この谷の難しさでした。
家の土台も、道も、炉も、赤い石でできています。退けることは、暮らしを壊すこと。
そこへ司祭は「掘れば麦をやる」と言いました。夜の話には、飯の話が要ります。
次回、「覚醒の司祭、アドリアン」。
正しさだけでは人は動かない、という回です。よろしければブックマークをお願いいたします。




