第41話:地の底に、千年ぶりの灯を
その人は坂を登りきると、丁寧に礼をした。
「はじめまして。覚醒の司祭、アドリアンと申します」
若かった。三十にもならないだろう。顔立ちは整っているが、印象に残らない類の整い方だった。声は柔らかく、話す速さは一定で、目はいつも少しだけ微笑んでいる。
ゼフィールとは、何ひとつ似ていなかった。あの大司教は部屋に入ってきただけで空気を押しのける人だった。この人は押しのけない。ただ、いつのまにかそこにいる。
「眠りの巫女様。それに、夜の守人閣下。まさか、こんな辺鄙な谷でお目にかかれるとは」
「アドリアン様」私は言った。「領主様のお嬢様の枕元から、赤い石を退けました」
彼は微笑んだままで、二度、瞬きをした。
「そうですか」
「あの石は、お嬢様を眠らせないものでした」
「はい。存じております」
あっさりと、彼は言った。
喉の奥が、ひやりとした。
「……ご存じで、あの父君に、掘れと」
「掘っていただきました。二年ですね」
アドリアンは、少し首をかしげた。
「巫女様。誤解のなきよう申し上げますが、私はあの子を害したかったのではありません。あの子には、眠らずにいてもらう必要があった。それだけです」
「必要」
「はい」
彼は、白い袖を整えた。
「眠りは、死の稽古です。人はみな、日に一度、死ぬ稽古をさせられている。目を閉じ、意識を手放し、何もできぬ状態に沈む。……あれを恵みと呼ぶ神経が、私には分かりません」
「けれど、人は眠らねば生きられません」
「ええ。ですから、世界のほうが間違っている」
その言い方は、あまりに穏やかだった。声を荒らげる者は怖くない。信じ切っている者が、いちばん怖い。
「あの子は死にますよ」アドリアンは館を見上げて言った。「眠らせてしまえば、あなたが殺したのと同じです。……まあ、そう思う者は、この谷には私しかおりませんが」
「なぜ、そうまでして」
「私が、そうして生き延びたからです」
初めて、その微笑みがわずかに崩れた。崩れて、すぐに戻った。
「では、また。私は、坑道に用がありますので」
その背が坂を下りていったあと、ルキウス様が低く言った。
「あれは、ゼフィールより厄介だ」
「はい」
「ゼフィールは、権威を欲しがった。あれは、何も欲しがっていない」
私は、その背を目で追いながら思っていた。——あの人は、坑道に用がある、と言った。第七坑は今朝、領主が封じたばかりだ。
「降ります」
私が言うと、バルドリックは渋い顔をした。
「あの坑は、二年、まともに支保も入れていない」
「それでも、降ります。あの方より先に」
結局、領主自らが先頭に立った。鍵を持ち、角灯を持ち、道を知っているのは彼だけだからだ。ルキウス様が続き、私、そしてマレーヌとトマが縄と鶴嘴を担いだ。妹はリゼの枕元に残した。眠っている子の傍に、誰かが要る。
格子の錠が開き、冷たい風が吹き上げてきた。地の底の息だった。乾いて、鉄の味がして、そして——微かに、月見草に似た匂いがした。
降りた。梯子を三つ、斜坑をふたつ。角灯の輪の外は完全な闇だった。この谷に来て初めての、まともな暗さだった。可笑しなことに、地上より地の底のほうが夜に近い。
坑道は下るほどに古くなった。新しい支保が途切れ、黒ずんだ古材が現れ、やがてその古材も無くなり、剥き出しの岩肌になる。
鶴嘴の跡が、変わる。
「……形が違います」
私は、壁に灯を近づけた。今の鶴嘴の跡は深く鋭い。ここに残っているのは、もっと浅く、幅の広い、丸みのある傷跡だった。
「千年前の道具の跡だ」ルキウス様が言った。「ここは、この谷の坑夫が掘った穴じゃない」
斜坑の途中で、マレーヌが立ち止まった。
「領主様。ここ、行き止まりでしたよね」
角灯が壁を照らした。岩肌に、新しい穴が開いていた。人が屈んで通れるほどの、粗い掘り抜き。切り口はまだ白く、削り屑が足元に散っている。
バルドリックの顔から、血の気が引いた。
「……俺は、掘っていない」
「じゃあ、誰が」
トマが、屑を指で掬った。
「乾いてない。三日と経ってません」
私は、穴の奥へ灯を差し入れた。細い坑道が下へ、下へと続いている。支保はない。灯を置く窪みだけが、几帳面な間隔で壁に彫り込まれていた。急いで掘った穴ではない。二年かけて、一人で、少しずつ掘り進めた穴だ。
「白い衣の人ですね」マレーヌが言った。「あの人、領主様が閉じたあとも、ずっと降りてた」
「そう考えるほかない」
バルドリックの声は掠れていた。
「俺は、鍵を握っていれば、この坑は俺のものだと思っていた。……あの方は、鍵の要らない道を、俺の足元に掘っていたわけだ」
最下層に、その部屋はあった。自然の空洞ではなかった。人の手で球のように削り出された広間だった。天井は高く、壁は滑らかで、床の中央には——直径にして三歩ほどの、円い窪みがある。
窪みの底は抉れていた。何かがそこに埋まっていて、掘り起こされた跡だった。抜けた歯の跡。私が地の底に触れたとき、指先が撫でた、あの空洞。
私は、窪みの縁に膝をついた。冷たかった。母のペンダントが、これまでで最も強く、氷のように冷えていた。
ここに、あった。夜を配る石が、千年前まで、確かにここに。
壁に、文字が彫られていた。角灯を掲げると、削り込まれた古い文字が光の輪の中に浮かび上がった。均衡の書と同じ、覚醒派の書記の手だ。
私は、声に出して読んだ。
——ここに、北の要石ありき。
——我ら、覚醒の理を唯一とせんがため、これを掘り出し、千に砕きて、地の底へ返せり。
——夜は、これより、この地に昇らず。
最後の一行だけ、字が違った。彫りが浅く、震えていて、他の行よりずっと後から刻まれたように見えた。
——赦されよ。掘りし者、我らなり。
私は、その一行を指でなぞった。千年前、この穴を掘った誰かは、掘り終えたあとに戻ってきたのだ。灯を持って、この暗い部屋へ一人で降りてきて、震える手で、赦されよ、と刻みつけたのだ。
命じられて掘った者が、掘ったあとで後悔したのだ。
背後で、バルドリックが掠れた声を出した。
「……俺と、同じじゃねえか」
角灯の火が、揺れた。千年を隔てて、この部屋には、同じ男が二人いた。
第七坑の底。千年前に月の要石が掘り出された、その跡です。
「赦されよ。掘りし者、我らなり」——命じられて掘った者が、後から戻って刻んだ一行でした。
次回、「掘ってはいけないものと、明日の糧」。掘るのをやめれば、三千人が食べていけません。
千年前の誰かが最後に刻んだ一行は、この物語でいちばん書きたかった台詞かもしれません。評価が励みになります。




