第40話:眠らせることで、勝つ
赤い石を運び出すのに、夜明けまでかかった。麻袋に詰め、荷車に積み、館から谷ひとつ越えた廃坑まで運ぶ。深い縦穴の底へ落とし、土を被せ、板で塞いだ。
運んだのは、トマとその仲間たちだった。事情を聞いた若い坑夫たちが、頼みもしないのに集まってきて、黙って荷を担いだ。
「領主様の部屋のものを、俺たちが触っていいんですかね」
トマがそう言うと、荷車の轅を握っていたバルドリックが低く答えた。
「俺が触れと言っている」
誰も、それ以上は言わなかった。
部屋が空になった。赤い光の消えた寝室は、ただの薄暗い部屋だった。窓の外は相変わらず白く濁っていたけれど、それでも闇が少しだけ戻ってきていた。
私は、寝台の脇に膝をついた。リゼはまだ天井を見つめていた。二年間、光の中に置かれ続けた瞳は、焦点の合わせ方を忘れかけている。
その額に、手を当てた。
「リゼ様」
声は届いていないかもしれない。それでも私は名を呼んだ。眠らせるとき、いちばん大事なのは術ではなく、名前を呼ばれることだと、母の唄が教えてくれる。
「もう、大丈夫です。何もしなくていいのですよ」
目を閉じて、呼吸を落とす。
——ねんねの子には、月がひとつ。
銀の糸が、指先から流れた。この部屋にはもう、糸を弾くものがない。石の抜けた寝室には、うっすらと、けれど確かに夜の底が戻っている。
糸はまっすぐに伸びた。少女の胸の上にそっと降りて、掛かった。
二節目で指の震えが止まった。三節目で瞼が下りた。四節目で——初めて、深い息が漏れた。
リゼは、眠った。咳が、止まっていた。
部屋の中で、誰かが息を呑む音がした。
バルドリック・ド・フェランは、寝台の足元で膝を折っていた。巨きな背中が丸まっていた。両手を床につき、そのまま動かない。やがて、押し殺した音が漏れはじめた。泣き方を知らない人間が、無理やり泣こうとしているような、不格好な音だった。
「……二年だ」
彼は、床に向かって言った。
「二年、この子の寝息を、聞いていない」
私は何も言わなかった。言う必要が、なかったからだ。この人は今、自分がしてきたことの全部を寝息ひとつで理解している。眠らせることは、どんな断罪よりも正確に、その人の過ちを本人に見せる。
剣も、証文も、公の場も要らない。ただ、娘が眠っただけだ。
夜が明けて——といっても空は白いままだが——バルドリックは坑口の前に人を集めた。三千人が坂を埋めた。皆、痩せて、皆、目が赤い。
領主は荷車の上に立って、短く言った。
「赤い石を掘るのを、やめる」
ざわめきが走った。
「第七坑は封じる。今日から、鉄と銀だけを掘れ。夜半から明け方まで、坑道の火を落とす。飯は俺が出す。……納入が滞れば、王都には俺が行って詫びる」
誰かが、恐る恐る手を挙げた。
「領主様。俺たち、寝ていいんですか」
「寝ろ」
男は、それだけ言った。
「寝ろ。今夜から」
その夜、谷の火が落ちた。千年ぶりのことだと、後にマレーヌが言った。坑口の炎が消され、炉の口が閉じられ、槌の音が——止まった。
音が止まると、谷は驚くほど広く感じられた。風の音がある。水の落ちる音がある。遠くで羊が鳴く。この土地にも、こんなに音があったのだ。
坑夫たちは長屋の前に出て、空を見上げていた。空はまだ白かった。煙の天蓋が薄くなり、雲の切れ間に月が半分だけ覗いている。それでも彼らは見上げていた。見上げ方を、思い出そうとするみたいに。
その夜、三人が眠った。三千人のうち、三人だった。
いずれも坑道に入って日の浅い若い者で、まだ二日か三日しか起きていなかった者たちだ。長屋の壁にもたれて、汁の椀を持ったまま、こくりと落ちた。
仲間たちはその周りに集まって、しばらく黙って見ていた。
「……寝てるよな、これ」
「寝てるだろ」
「起こすなよ」
誰かがそっと椀を取り上げた。誰かが外套を掛けた。荒くれた男たちが爪先立ちで長屋を出ていく光景は、少し可笑しくて、それから胸が詰まった。この人たちは、人が眠るところを久しく見ていなかったのだ。
ジュリオが、私の袖を引いた。
「おくがたさま。ほし、まだ?」
私は、白く濁った空を見上げた。天蓋は薄くなったけれど、まだ星は見えない。半分の月が滲んでいるだけだ。
「まだです」
「ふうん」
少年はがっかりした様子もなく、また空を見た。
「でも、きのうより、くらいね」
私は、筵の小屋へ行った。足の止まった二十人の男たちが、変わらず横たわっている。石は運び出した。火も落ちた。ならば、今度こそ。
膝をつき、唄を紡ぐ。銀の糸が伸びる。伸びて——男たちの上で、また、するりと滑り落ちた。
二度、三度。結果は、同じだった。
部屋の石を退けたリゼは眠り、この人たちは眠らない。違いは量だ。館の一室から石を出すことはできても、谷の地下に千年ばら撒かれた欠片を、私は退けられない。
この土地の夜は、まだ昇ってこない。
「……そうですよね」
私は、自分の膝を見つめた。悔しさよりも先に、奇妙な納得があった。石を退ければ眠れる。ならば、退ければいい。ただそれだけのことが、この谷では途方もなく大きい。
小屋を出ると、マレーヌが立っていた。彼女は、暗くなった坑口をじっと見ていた。
「……火が落ちた坑口ってのは、初めて見ました」
「眠れそうですか」
「まさか」
彼女は笑って、それから笑いをやめた。
「けど、眠っていいと言われたのは、初めてです。それだけで、ずいぶん違う」
彼女は、腰の鎚に手を当てた。
「私は十二で坑道に入って、二十八年、この鎚を握ってます。眠るなと言われて育って、下の者に眠るなと言って、甥にも言ってきた。……昨日まで、それが仕事だと思ってた」
「マレーヌさん」
「今日は、言わずに済みました」
それだけのことを、この人はひどく大事そうに口にした。
その横顔に、風が当たった。そのとき、坂の下から灯がひとつ登ってきた。角灯ではない。もっと白い、揺れない光。掲げているのは、白い衣の人影だった。
この谷では、白は三日で灰色になる。その衣は、汚れひとつなく白かった。
「マレーヌさん」
私は、囁いた。
「あの方が」
「……ええ」
彼女の声が、硬くなった。
「司祭様です。予定より、五日、早い」
リゼの二年ぶりの眠りと、領主の膝。この作品の決着は、いつも「眠らせること」で付きます。
ただし——石を退けられたのは、館の一室だけです。谷の地下には、まだ千年分の欠片が眠っています。
次回、「地の底に、千年ぶりの灯を」。そして白い衣の司祭が、坂を登ってきます。
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