第39話:領主の娘は、眠れない
第七坑の坑口は、谷のいちばん奥、崖を削った窪みにあった。鉄の格子が渡され、太い錠が下りている。周囲には廃材が積まれ、近づく理由のない場所だと、そう見えるように作られていた。
私たちは、向かいの岩陰に身を伏せた。待つあいだ、槌の音だけが谷を巡っていた。この土地では、待つ時間さえ静かにならない。
どれほど経った頃だろうか。格子の向こうに、灯が浮かんだ。
揺れながら、灯は昇ってくる。やがて格子が内側から押し開けられ、大きな影が身を屈めて出てきた。
バルドリック・ド・フェランだった。
供はいない。手には角灯。そしてもう一方の腕に麻袋を抱えている。袋の口から、赤い光が漏れていた。領主は格子に錠を掛け直すと、あたりを一度見回した。私はルキウス様の背の陰で息を殺した。
そして男は、館へ続く坂を足早に登っていった。
「……追いましょう」
私が囁くと、ルキウス様は袖を掴んだままで頷いた。
館の裏口の鍵は、開いていた。石の廊下を、灯の影が先へ行く。私たちは十歩の距離を置いて、それを追った。
男は、二階の突き当たりの扉を開けた。
そこで、私は足を止めた。あの咳が聞こえたからだ。乾いて、細く、途切れない。三つ、四つ、五つ。あの夜、広間で全員が聞こえないふりをした、あの咳だった。
扉は閉められなかった。バルドリックが、後ろ手に閉める余裕さえなかったからだ。隙間から、部屋の中が見えた。
寝台に、少女が横たわっていた。六つか、七つか。薄い掛布から出た手首は枯れ枝のように細い。頬は赤く、瞼は落ちていない。天井を見つめたまま、指先だけが小刻みに動いている。
この谷で幾度も見た姿だった。筵の上の男たちと、同じだ。
そして、その枕元に——赤い石が、山と積まれていた。寝台の両脇の卓に、床に、窓辺に。拳ほどの赤い石が数え切れないほど並べられ、部屋中が脈打つ赤い光に満たされていた。
バルドリックは麻袋の口を開けると、その中の石をまた枕元へ積み足した。
「今日のぶんだ、リゼ」
男の声は、広間で聞いたものとまるで違っていた。
「いちばん深いところから採ってきた。いちばん新しい。……もう少しだ。もう少しで、お前は眠れる」
少女は答えなかった。答える力が、もう残っていないのだと私には分かった。
気づけば、私は扉を押していた。
——一つ目の約束を、破ってしまった。
バルドリックが弾かれたように振り返った。角灯が床に落ち、油が散って、火が細く走った。
「貴様……」
「その石を、退けてください」
私は、部屋に踏み込んだ。
「今すぐ、すべて。この部屋から、遠くへ」
「触るな」
男は、寝台を庇うように立ちはだかった。太い腕が震えている。
「これは、あの子の薬だ」
「薬ではありません」
「司祭様が、そうおっしゃった」
バルドリックの声が、裏返った。
「妻は、この子を産んだ年に死んだ。俺には、この子しかいない」
男は、寝台の少女を見た。
「二年前、リゼが眠れなくなった。医者は誰も治せなかった。都から来られたあの方だけが、こうおっしゃったんだ。——この娘は、覚醒の加護に選ばれた尊い子だ。地の底の赤い石は、覚醒の聖なる欠片だ。傍に置けば、いずれ熱が鎮まり、安らかになる、と」
男は、赤い石を一つ掴み上げた。手のひらが、その光に照らされて赤く染まる。
「だから俺は掘った。第七坑を閉じて、俺だけが降りて、いちばん深いところから、いちばん濃いのを選んで持ってきた。三日にいっぺん、二年間、一日も欠かさずだ」
部屋が静まった。少女の、途切れない咳だけが続いていた。
私はゆっくりと床に膝をついた。領主と目の高さを合わせるために。
「バルドリック様。よく、伺ってください」
「なんだ」
「その石は、この谷から夜を奪っているものです」
男の目だけが、ゆっくりと動いて、私を見た。
「千年前、覚醒派が、この地下から月の要石を掘り出しました。夜を大地に配る石です。砕いて、二度と使えないように地の底へばら撒いた。その欠片が、それです」
「……戯言を」
「この谷の人々が眠れないのは、それを掘り出しているからです。地表に近いほど、夜は遠のく」
私は、枕元の石を指した。
「お嬢様は、この谷でいちばん深いところの、いちばん濃い欠片を、二年間、枕元に積み上げられてきました」
バルドリックの喉が、ひきつった音を立てた。
「この国で、いちばん眠れない場所は、坑道の底ではありません」
私は、少女を見た。
「この、寝台の上です」
男は、石を落とした。床に転がった赤い光が、部屋の壁をゆっくりと明滅させる。
「嘘だ」
バルドリックは、掠れた声で言った。
「嘘だ。俺は、この子のために」
「存じております」
「俺は、この子を——」
言葉が続かなかった。二年間、毎日、自分の手で娘の枕元へ毒を積み上げてきた男の顔から、色が引いていくのを私は見ていた。
罰なら、これ以上のものはない。この人はもう、誰にも罰されない。自分の手のひらが、生涯、証人になる。だから私は責めなかった。
「バルドリック様。その司祭様は、どのような方でしたか」
男は、床を見つめたまま切れ切れに答えた。
「若い。……三十にもなっていまい。物腰の柔らかい、声を荒らげたことのない方だ」
「お名前は」
「アドリアン様。覚醒の司祭アドリアン様だ」
私は、その名を口の中で繰り返した。
「金は一切、取らなかった」バルドリックは続けた。「祈祷料も、供物も。ただ、赤い石を掘れとだけ。掘れば掘るほど、この子の徳が積まれると」
「掘った石は、どうなさいました」
「半分はリゼの部屋へ。半分は、あの方が持っていかれる」
半分。二年間、三日にいっぺん、この谷でいちばん濃い欠片が、半分ずつ、どこかへ運ばれ続けている。
「どこへ、運ばれるのですか」
「知らん。……訊いたことも、ない」
男は、両手で顔を覆った。
「訊けば、疑うことになる。疑えば、この子を救う道が消える。俺は、あの方の言葉だけを頼りに、二年、生きてきたんだ」
その気持ちは、痛いほど分かってしまった。溺れている人に差し出された藁を、藁だと疑えと言うのは酷なことだ。差し出した側が、それを知っていて差し出したのなら——なおさら。
寝台の少女が、身じろぎをした。乾いた唇がかすかに動いた。父を呼んだのだと思う。声にはならなかった。
「領主様」
私は、立ち上がった。
「石を、外へ出す許しを」
バルドリックは、床に膝をついたまま答えなかった。やがて——太い肩が、一度だけ大きく震えた。
「……出せ」
男は、額を床につけた。
「頼む。出してくれ。俺の娘を、眠らせてくれ」
館の奥で咳をしていたのは、領主の娘リゼでした。
父が二年間、毎晩積み上げてきた「薬」が、そのまま娘を眠らせないものだった——という話です。
次回、「眠らせることで、勝つ」。この作品の勝ち方で、決着をつけます。
この回だけは、書き終えたあとしばらく席を立てませんでした。ご感想をお待ちしています。




