第38話:月鳴鳥の、空っぽの籠
第一坑の入口に、古い鳥籠が吊るされている。鉄の籠だった。錆びて、底が抜けかけて、扉の蝶番はとうに落ちている。中には何もない。止まり木だけが、かろうじて渡っている。
坑夫たちは、坑道へ入る前に必ずその籠を一度、指で叩いていった。こつ、と乾いた音がして、それから鶴嘴を担ぎ直す。誰も、なぜそうするのかを説明しなかった。
「験担ぎですよ」
私が見ていることに気づいて、マレーヌが言った。
「意味は、誰も知りません。私の親父も、そのまた親父も、叩いてから入っていた」
「鳥を飼っておられたのですか」
「昔はね」
彼女は籠を見上げた。その目が、ほんの少しだけ遠くなった。
「月鳴鳥、といったそうです」
交代の合間、マレーヌは差配小屋の戸口に腰を下ろして話してくれた。
「夜になると鳴く鳥だそうで。坑道の奥に巣をつくって、日が落ちる頃に、ひとつ鳴く。坑夫はそれを聞いて、鶴嘴を置いて、飯を食って、寝たとか」
「時計の代わりに」
「そう。ここには日が差しませんからね。昔は、鳥が夜を教えてくれたんだと」
彼女は、指で籠を示した。
「その鳥が、ある年、一羽残らずいなくなった。おふくろの話じゃ、うんと昔——先祖の、そのまた先祖の代のことだそうです。以来、この谷で夜を教えるものは、何もない」
千年前。私は、均衡の書の余白の走り書きを思い出していた。砕きて、地に埋めよ。夜が昇らなくなった土地から、夜に鳴く鳥が消えた。順番として、それは正しい。
「籠だけが、残ったのですね」
「捨てると、坑道が落ちると言われてます」マレーヌは少しだけ笑った。「馬鹿な話でしょう。空の籠に、守ってもらってる」
私は、そうは思わなかった。この土地の人々は、失ったものの形を、意味も分からないまま千年間、手のひらで覚えていたのだ。こつ、と叩く、その一度で。
その日の午後、ジュリオが水を運んできた。私が長屋の前で均衡の書を写していると、少年は桶を置いてしゃがみ込んだ。書物というものを、そもそも見たことがないらしい。
「これ、なに」
「本です。古い、記録の本」
「よめるの」
「読めますよ」
ジュリオはしばらく紙面を睨んでいた。それから、私の胸元を指した。
「そっちのは?」
ペンダントと一緒に提げていた、色褪せた押し花のしおりだった。
「これは、お守りです。昔、ある子がくれました」
「なんの」
「『よる、こわくなくなるおまもり』だそうです」
少年は、けげんな顔をした。
「よるって、こわいの?」
その問いに、私はうまく答えられなかった。夜を知らない子にとって、夜は怖いものですらない。怖がる対象にすら、なれていない。
「怖いと思う人も、いました」私は言った。「暗いところで一人になると、心細くなるでしょう。だから、その子は私にこれをくれたのです。灯りの代わりに」
「ふうん」ジュリオは、しおりの押し花をそっと指で触った。「これ、はな?」
「月見草といいます。夜にだけ咲きます」
「よるにだけ」
少年は、その言葉をしばらく口の中で転がしていた。
「じゃあ、ここじゃ、さかないね」
私は、返す言葉を失った。
夕刻——といっても空の色は変わらない——マレーヌの甥が長屋を訪ねてきた。トマという、二十歳ほどの若者だった。館で鞭を受けた、あの若者だ。背に晒しを巻いたまま、ばつが悪そうに立っている。
「先日は、庇っていただいて」
「お体は」
「これくらい、坑道じゃ怪我のうちに入りません」
彼は後ろ手に戸を閉めた。そして、声を落とした。
「叔母さんは、詮索するなと言います。でも、俺は、あんたに言っておきたい。……第七坑に、夜、灯が動きます」
私は、写しの手を止めた。
「閉じられていると伺いました」
「閉じられてます。鍵は領主様がお持ちです。……それでも、動くんです」
トマは、指を三本立てた。
「三日にいっぺん、決まった刻限に。坑口の格子の隙間から、灯が下りていく。俺は運搬で夜通し外にいるから、何度も見ました」
「領主様が、お一人で?」
「ときどきは。……ときどきは、もう一人」
若者は、そこで言い淀んだ。
「白い着物の人です。この谷じゃ、白なんて三日で灰色になる。でも、あの人のは、いつも白い」
背筋が冷えた。
「その方は、月に一度おいでになる、司祭様ですか」
「そうです」トマは頷いた。「けど、月に一度っていうのは表向きです。あの人は、もっと来てる。俺の見た限り、ずっと、この谷にいる」
トマが帰ったあと、私はルキウス様に聞いたままを話した。彼は腕を組んで、しばらく板壁の隙間の光を見ていた。
「見に行くつもりだな」
「はい」
「止めても行くな」
「……はい」
ルキウス様は小さく息を吐いた。それから、私の顔を両手で挟んで額を合わせた。
「三つ約束しろ。私の前に出ない。声を出さない。手を離さない」
「三つとも、簡単です」
「君は、いつも一つ目を破る」
否定できなかった。王都の異端審問でも、聖騎士団に囲まれた夜でも、私は気づけば一歩前に出ていた。
妹が、荷の陰から顔を出した。
「わたくしは、どういたしましょう」
「あなたは残ってください」私は言った。「もし私たちが夜明けまでに戻らなければ、トマさんと一緒に麓の宿場まで下りて。書きつけを預けます」
「お姉様——」
「あなたが証人になるのです。均衡の書のときと、同じです」
妹は唇を引き結んで頷いた。かつて公の場で真実を証言した娘の目は、もう震えていなかった。
その夜、私は坑口の鳥籠の前に立った。錆びた鉄に指を当てる。こつ、と、坑夫たちがするように叩いてみた。乾いた音が坑道の口へ吸い込まれて、返ってこなかった。
千年前、ここには夜があった。石があり、鳥があり、夜になれば鶴嘴を置く暮らしがあった。それを、誰かが掘り出して砕いた。そして今、その掘り出す仕事をこの谷の人々が引き継いでいる。閉じられた坑道の底で、白い衣の男が灯を持って降りていく。
——三日にいっぺん、決まった刻限に。
私は、赤く明滅する山の腹を見上げた。
「次は、いつですか」
背後で、トマが答えた。
「今夜です」
月鳴鳥の空籠。意味も分からず千年、坑夫たちが叩き続けてきたものです。
そして、閉じられた第七坑に降りていく、白い衣の人影。
次回、「領主の娘は、眠れない」。館の奥で咳をしていたのが誰なのか、明かされます。
意味を忘れたまま続く習慣、という話が昔から好きです。評価をいただけると嬉しいです。




