第37話:均衡の書の、余白の地図
坑夫長屋の一室が、私たちの寝所だった。板壁の隙間から坑口の火明かりが筋になって差し込む。窓を閉めても暗くならない部屋。寝台に横になっても、槌の音が枕を通して背中に響いてくる。
三日目の夜、私は眠るのを諦めて旅の荷を解いた。
油紙に幾重にも包んで持ってきたのは、均衡の書だった。千年前、覚醒派が「眠り」を世界から削り落とした経緯を記した、たった一冊の証拠。月の谷の祠で見つけ、王都の異端審問で読み上げ、大司教ゼフィールの仮面を剝がした書物。
役目を終えた本だと思っていた。けれど、この谷に着いてからずっと気にかかっていた。
——ゼフィールは、この本を燃やそうとした。ただの過去の記録なら、あれほど必死に火をかけようとしただろうか。
「何を探している」
燭台を持ってきたルキウス様が、寝台の縁に腰を下ろした。
「この谷のことが、書かれていないかと」
「千年前の本にか」
「千年前の傾きの、爪痕なのでしょう。ここは」
ルキウス様が、あの夜、夢見の都のバルコニーで言った言葉だ。彼は少し驚いた顔をして、それから燭台を私の手元に寄せた。
頁を繰る。羊皮紙の乾いた音。覚醒派の書記の、角ばった古い文字。均衡の理。夜の分配。巫女の系譜。私が王都で読み上げた箇所には、今も指の跡が残っている。
そして——巻末に近い頁で、指が止まった。
本文の余白に、絵が描かれていた。書き手の手ではない。もっと荒い、走り書きの線。山があり、谷があり、川が二本。谷の中央には深い縦穴が描かれていた。
地図だった。
私は、窓の隙間から外を見た。同じ形の稜線が、赤い灯に照らされて浮かんでいる。
「……この谷です」
声が掠れた。地図の傍らには、小さな字で一行だけ添えられていた。
——砕きて、地に埋めよ。二度と、掘り出すことなかれ。
「何を埋めた」
ルキウス様が、頁に顔を寄せた。
私は前の頁へ戻った。それから、また戻った。本文にはこの地図の説明が無い。誰かが後から余白に書き足したのだ。やがて二十頁ほど前に、それらしい記述を見つけた。
——夜は、天より降るにあらず。地より昇るものなり。
私は、その一文を二度読んだ。
「地より、昇る」
覚醒派の書記は、こう続けていた。大地には夜を配る石が幾つも埋まっている。日のあるうちに光を吸い、日が落ちると、静けさを地表へ返す。人はそれを吸って眠る。石は月の光で満ち、月に照らされぬ地の底で、ゆっくりと呼吸している。
これを、月の要石という。
そして——覚醒の理を国の唯一とせんがため、我らは、北の要石を掘り出したり。
指が震えた。
「掘り出して、どうしたのですか」
次の行は、短かった。
——砕きて、地の底へ返せり。片は千を超え、いずこにあるかは、知らず。
燭台の炎が揺れた。私は、寝台に均衡の書を置いたまま、しばらく動けなかった。
千年前、覚醒派はこの谷の地下から夜を配る石を掘り出した。そして二度と使えないように砕き、破片を地の底へばら撒いた。それきり、この土地には夜が昇らなくなった。
私が地の底に触れたときに感じた、あの空洞。抜けた歯の跡のような空白。あれは、要石が抜き取られた穴だったのだ。
「では、あの赤い石は」
私は、口を押さえた。
「あれは……砕かれた、要石の、欠片」
ノクスが牙を剥いたのも、ペンダントが冷えたのも、それで説明がつく。母のペンダントは月の石でできている。同じ石が、地の底で千年、砕かれたまま埋もれている。
「地表に近づくほど、この土地は眠らなくなる」ルキウス様が静かに言った。「掘れば掘るほど、夜が遠のく」
「……この谷の人たちは」
私は、槌の音のする方角を見た。
「自分たちを眠らせなくしているものを、毎日、自分の手で掘り出しているのです」
確かめたいことが、ひとつあった。
私は外套を羽織り、坑口の集積場へ向かった。番をしていた老坑夫に断って、屑石の山から赤い石をひとつ、布に包んで持ち出す。それを抱えて谷を東へ歩いた。坑道の音が遠ざかり、炉の光が稜線に隠れる場所まで。
半刻ほど登ると、そこはただの岩場だった。空を見上げる。煙の天蓋が切れて、雲の隙間に月がひとつ覗いていた。この谷に来て初めて見る、まともな月だった。
私は岩に腰を下ろし、布包みを傍らに置いて目を閉じた。
母の唄を、一節。
銀の糸が指先から伸びた。今度は切れなかった。地の底の夜が——薄いけれど、確かにそこにある。糸は掛かった。掛ける相手がいないので、私自身の肩に。とたんに瞼が重くなった。この七日、まともに眠っていない体が正直に落ちようとする。
私は、布包みを開いた。
赤い石が、月光の下でぼう、と明滅した。
次の瞬間、瞼の重さが消えた。嘘のように。掛けたばかりの糸がするりとほどけて宙に散る。頭の芯が、氷水を飲んだように冴えてしまう。
包み直す。——眠気が、戻ってくる。
開く。——消える。
三度繰り返して、私は両手で顔を覆った。証明されてしまった。この石が傍にあるかぎり、人は眠れない。そしてこの谷の人々は、その石の上で暮らし、その石を掘って、その石で飯を食っている。
その夜明け前、私はマレーヌを訪ねた。差配小屋の卓には坑道ごとの帳面が積まれていた。彼女は目を通しながら、聞くだけ聞いた。
「千年前の話は、私には分かりません」
彼女は言った。
「けど、赤い石が出るのは、決まって一番深いところです」
「最も深い坑道は、どこですか」
マレーヌの手が止まった。
「第七坑」
彼女は、帳面から目を上げずに答えた。
「けど、あそこは入れません。領主様が二年前から閉じておられる。鍵も、灯も、領主様の手のうちです」
「なぜ、閉じたのですか」
「知りません」
彼女はそこで初めて顔を上げた。隈の濃い目が、まっすぐに私を見た。
「知らないことにしています。——奥方様。詮索は、この土地では、飯を失う理由になります」
小屋を出ると、空がわずかに白んでいた。もっともこの谷では、白むことに意味がない。夜も昼も、同じように白いのだから。
私は、赤い灯の滲む山の腹を見上げた。
第七坑。二年前から閉じられた、最も深い坑道。そして領主は、その坑道から出る赤い石を鉄よりも優先して掘らせている。
閉じているのに、掘らせている。二つは、両立しないはずだった。
「夜は、天より降るにあらず。地より昇るものなり」——本作の世界の、いちばん底にある理屈です。
千年前に砕かれ、ばら撒かれた月の要石。フェランの赤い石は、その欠片でした。
次回、「月鳴鳥の、空っぽの籠」。この谷にも、昔は夜がありました。
世界の理屈を一枚だけめくった回でした。ブックマークしておいていただけると、続きが届きやすくなります。




