第36話:眠らぬことを誇る、領主の館
領主の館は、谷の中腹に要塞のように建っていた。窓が少なく、壁が厚い。庭には木が一本もなく、代わりに鉱石を積んだ荷車が並んでいる。ここは屋敷というより、鉱山の帳場そのものだった。
通された広間には燭台が二十も灯っていた。夜半だというのに、真昼のように明るい。
「夢見の都の、ご夫妻がわざわざ何用か」
上座からしわがれた声が飛んできた。バルドリック・ド・フェラン。五十がらみの、肩幅の広い男だった。指は太く、爪は割れ、貴族というより古参の坑夫のような手をしている。目の下にはやはり隈があった。
「盟約のことで参りました」
私が言うと、男は鼻で笑った。
「三度断った」
「四度目を、お願いに」
「無駄足だ」
バルドリックは、卓の上の帳面を叩いた。
「うちは王国の鉄の七割、銀の六割を出す。王都の連中が夜だの月だのと寝言を言っていられるのは、うちが掘っているからだ。掘る手を止めれば、国が止まる」
「掘ることを、やめてくださいとは申しておりません」
「同じことだ。夜を作るということは、その分、掘らんということだろう」
そのときだった。広間の隅で、一人の若い坑夫が壁にもたれてずり落ちた。運搬の途中だったのだろう。鉱石の袋を抱えたまま膝から崩れ、そのまま床に頬をつけた。よほど限界だったのか、今度は——本当に、眠ってしまった。
浅く掠れた寝息が、広間に響いた。
私は思わず微笑みかけた。よかった、と。
次の瞬間、鞭の音がした。バルドリックが立ち上がり、壁際の鞭を取って若者の背を打っていた。二度、三度。
「起きろ。ここで寝るな」
「おやめください」
私は、二人のあいだに割って入った。背に鞭の風が触れた。止めたのは、ルキウス様の手だった。振り下ろされかけた腕を、手首ごと掴んでいる。
「……夜の守人殿か」バルドリックが唸った。「離せ」
「その子は、七日眠っていない」ルキウス様の声は静かだった。「打つな。次はない」
広間の空気が、凍った。
鞭は下ろされた。若者は仲間に抱えられて出ていった。
「甘やかすな、と言っているだけだ」
椅子に戻ったバルドリックは、吐き捨てるように言った。
「一人が寝れば、隣も寝る。隣が寝れば、坑道が止まる。坑道が止まれば、納入が滞る。滞れば王都は容赦なく取り立てる。……お優しい奥方様。この領は、三代前から借財の上に立っている」
「存じませんでした」
「知りもせずに、夜を配りに来たのか」
言葉は、痛いところを突いていた。
「夢見の都とやらの噂は聞いている。荒野に月見草が咲き、みんな仲良く眠って、麦が実ったそうだな。結構なことだ」
男は、私を正面から見た。
「だが、あんたの土地に、返さねばならん借財はあったか。妻子を食わせるために、明日も掘らねばならん男が三千人いたか」
私は、答えられなかった。
「眠りは怠惰だ」バルドリックは言い切った。「怠惰を許すと、人は死ぬ。うちの領で、去年、飢えた者は一人もいない。眠らせなかったからだ」
その言葉がまったくの嘘ではないことが、始末に悪かった。この人は暴君の顔をしながら、確かに三千人を食わせている。
王都で「怠惰」と言うのと、この谷で「怠惰」と言うのとでは、言葉の重さが違う。私は都から来て、正しさだけを持ってきた者だった。
「ひとつだけ、伺わせてください」
私は、姿勢を正した。
「なぜ、赤い石を掘らせているのですか」
バルドリックの指が、帳面の上で止まった。
「鉄でも銀でもない。売れないと、差配の方から伺いました。それでも、鉄より優先して掘らせているとか」
「……鉱脈の下見だ」
「差配の方は、そうは聞いておられないようでした」
「マレーヌが何を言った」
声が、あからさまに変わった。怒気ではなかった。もっと薄く、震えのある——怯えに近いものだった。
そのとき、屋敷の奥から咳の音がした。子どもの咳だった。乾いて、細く、途切れずに続く。三つ、四つ、五つ。息を継げていない。
広間の全員が、その音を聞いた。そして誰も、聞こえなかったふりをした。
バルドリックは無言で立ち上がると、帳面を閉じた。
「話は終わりだ。日が昇る前に領を出ろ」
「領主様」
「出ろと言っている」
背を向けたその肩が、ほんのわずかに上下していた。
館を辞して坂を下りながら、私はルキウス様の腕に手を添えた。
「あの方は、何かを隠しておられます」
「あぁ」
「けれど……悪人だと、言い切れませんでした」
私は、正直に言った。
「私は、あの方の帳面を見ていません。三千人の腹も、借財も、知らずにここへ来ました。眠りを配ることは、正しいと信じてきましたけれど」
「君は」ルキウス様が、私の指を握った。「正しさで人を殴らずに済む方法を、いつも探すな」
「……褒めておられますか」
「褒めている。そこが、あの男とは違う」
谷の底から、槌の音が響いてくる。夜半を過ぎても、この土地の音は一度も途切れなかった。背後の館では、まだ子どもが咳をしていた。
長屋へ戻ると、妹が湯を沸かして待っていた。アウレリアは私の外套を受け取り、肩の煤を払いながら、ぽつりと言った。
「お姉様。あの領主様の目つきに、覚えがあります」
「あなたが、ですか」
「はい。……昔の、わたくしの目です」
妹は、湯呑みに湯を注いだ。ガイに持たされた月見草の茶が、板張りの部屋に場違いなほど優しい匂いを立てた。
「わたくしは、加護を手放したら自分に何も残らないと思っていました。だから、姉から奪ったものを必死で握りしめていたのです。握っていないと、明日、床が抜けると思っていた」
「あの方も、そうだと」
「あの方が握っているのは、加護ではなく、帳面でしょうけれど」
妹は、私の手に湯呑みを持たせた。冷えた指が、じんわりと熱を取り戻していく。
「奪う側にいた者には、分かります。あれは、勝っている人の顔ではありません。負けるのが怖い人の顔です」
私は、湯気の向こうの妹を見た。この一年、都の片隅で夜着を縫っていたこの人は、私が持っていない目を手に入れていた。奪う側の内側から、奪う側を見る目を。
「あなたを連れてきて、よかった」
妹は少し驚いた顔をして、それから俯いて笑った。
「……荷運びと、水汲みしか、できませんけれど」
その夜半、差配のマレーヌが長屋の戸口に立った。彼女は中には入らず、敷居の外から短く言った。
「昼間、館で庇っていただいた若いのは、私の甥です」
「お怪我は」
「背は裂けましたが、命はあります。……あんな真似を、あの方はもともとなさる人じゃなかった」
マレーヌはそこで言葉を切った。言いすぎたと思ったのか、あるいは、言いたくてここまで来たのか。
「二年前までは、坑道で人が倒れたら、休ませてくれる方でしたよ。ご自分で水を運んで」
彼女はそれだけ言うと、返事も待たずに去っていった。
二年前。この谷でいちばん深い坑道が閉じられたのも、同じ年だった。——それを知るのは、もう少し先のことになる。
領主バルドリック。眠りを罰する男ですが、三千人を食わせている男でもあります。
そして、館の奥から聞こえる子どもの咳。あれが誰の咳なのかは、もう少し先で明かされます。
次回、「均衡の書の、余白の地図」。千年前の記録に、この谷が出てきます。
憎みきれない悪役を書くのが好きです。バルドリックをどう思われたか、よければ教えてください。




