第35話:子守唄が、届かない夜
その夜、私は坑口脇の小屋で夢織りを行った。筵の上には二十人ほどの男たちが横たわっていた。足の止まった者たち。六日、七日と眠らず、もう坑道へは戻れないと判じられた者たち。
「ここで、何をなさるおつもりで」
戸口に立ったマレーヌが、腕を組んで言った。
「眠っていただきます」
「無理ですよ」
「ええ。無理だと言われた方を、これまで何人か眠らせてまいりました」
私は膝をつき、母のペンダントを両手で包んだ。目を閉じる。呼吸を落とす。母の唄を、喉ではなく体の奥から引き上げる。
——ねんねの子には、月がひとつ。
銀の糸が、指先から流れ出した。
夢織りは、糸を紡ぐ術ではない。その場に元からある夜を糸に縒って、眠れぬ人の上に掛け直す術だ。だから必要なのは私の力ではなく、その土地の夜そのもの。
王都の悪夢を織り替えたときは、太陽の都にすら、まだ夜が残っていた。灰の下の熾火のように、細く、けれど確かに。だから拾えた。この谷でも、そうするつもりだった。
けれど。
指先から伸びた銀の糸は、男たちの上へ届く前に——ふつり、と切れた。張ろうとした糸が、掛ける先を見つけられずに宙で解けていく。
「……え」
もう一度。今度は、深く。唄が二節、三節と伸びる。糸は長く、太くなり、筵の上へ届いた。届いて、そして、するりと滑り落ちた。男たちの体に、それは掛からなかった。まるで濡れた石に布を掛けようとするように。
三度目。四度目。息が上がった。額から汗が伝い、ペンダントを握る指が痺れてくる。
五度目で、私はこの土地の底に触れた。
地面の下に、夜が無かった。
言葉にすれば、それだけのことだった。どの土地にも地の底には夜が眠っている。昼のあいだ日を浴びた大地が、日が落ちると、溜め込んだ静けさを地表へ返す。人はそれを吸って眠る。当たり前すぎて誰も気づかない仕組み。
この谷には、それが無い。いや——あるべきものが抜き取られた痕があった。私の指が、地の底の乾ききった空洞に触れる。かつてそこに何かが埋まっていて、今は無い。抜けた歯の跡のような、その空白から、乾いた熱が吹き上げてくる。
この土地の人々が眠れないのは、働きすぎているからでも、灯が明るいからでもない。
土地が、眠っていないのだ。眠っていない大地の上では、人は眠れない。
銀の糸が、音もなく途切れた。
私は、筵の脇に膝をついたまま動けなくなった。男たちは変わらず天井を見つめていた。誰一人、瞼を落としていない。私が四半刻をかけて織ったものは、この人たちの上を風のように通り過ぎただけだった。
「……申し訳、ありません」
声が、みっともなく震えた。
「私は、眠らせることだけは、できると思っていました」
王都の悪夢を鎮めた手だった。死神と呼ばれた人を四百二日ぶりに眠らせた手だった。その手が今、目の前の一人も眠らせられない。与えることでしか、私は人と繋がってこなかったのに。
視界が滲んだ。手のひらを見つめる。何も持っていない、ただの手だった。
「セレネ」
背後から腕が回された。ルキウス様が、私を後ろから抱きしめていた。夜着の上からでも分かるほど、その腕は強く、そして温かかった。
「もう、いい」
「まだ、あの方たちが」
「君の手が冷えている」
彼は、私の手を取って自分の頬に押し当てた。
「……昔、逆のことをした」
低い声が、耳のすぐ後ろで響いた。
「私が眠れず、君が眠らせようとして、うまくいかない夜が何度もあった。あのとき君は、私に何と言った」
覚えている。
——今夜は眠れなくても構いません。私が起きています。
「同じことを、私が言う」ルキウス様が言った。「今夜は、織れなくていい。私が起きている」
喉の奥が詰まった。与える側でいることが、私の立つ場所だと思っていた。役に立たない私には価値がないのだと。その足元を、この人はいつも静かに掘り崩してくる。
「一人で背負うな」彼は、私の髪に唇を寄せて言った。「君が万能でなくても、私は困らない。困るのは、君が一人で倒れることだけだ」
私は、その腕の中で少しだけ泣いた。
小屋を出ると、坑道の炎に照らされて小さな影が立っていた。十歳ほどの少年だった。痩せて、煤で汚れて、目だけが大きい。手には水を運ぶ桶を提げている。
「あんた」
少年は、私を見上げて言った。
「さっき、うたってたひと?」
「……ええ」
「ふうん」
彼は少し首をかしげてから、聞いた。
「あれ、なんのうた?」
「子守唄です。眠るための唄」
「ねむる」少年は、その言葉を外国語のように繰り返した。「ぼく、ときどきしか、ねむれない。とうさんも」
私は、桶を持つその手を見た。掌にはもう、豆と、潰れた豆の痕がある。
「お名前は」
「ジュリオ」
「ジュリオ。あなたは、この谷で生まれたのですか」
「うん。ずっと、ここ」
少年は、白く濁った空を見上げた。
「なあ、おくがたさま。ほし、って、なに?」
息が、止まった。
「まちからきたひとが、いってた。よるは、そらにほしがでる、って。ぼく、みたことない。よるって、なに? いつくるの?」
私はその場にしゃがみ、少年と目の高さを合わせた。自分の声が思っていたよりも落ち着いていることに、自分で驚いた。
「夜は、これから来ます」
「くる?」
「ええ。私が、来させます」
言ってしまってから、それがどれほど大きな約束かを知った。けれど、取り消す気にはならなかった。
「星も、見せます。あなたが、この空で」
ジュリオはしばらくぽかんとしていた。それから、桶の水を少しこぼしながら走っていった。
その背を見送っていると、隣にマレーヌが立っていた。
「……無責任なことを、おっしゃる」
「ええ」
「あの子の父親は、二年前から坑道に詰めっぱなしです。ひと月に一度も上がってこない。母親は、去年、足が止まった」
彼女は、赤い灯の滲む山の腹を見上げた。
「あんたの唄が効かないのは、見ました。ここは、そういう土地です。……月に一度、王都から司祭様がおいでになる。あの方だけが、この谷を『正しい土地だ』とおっしゃる」
「司祭、様」
「覚醒の司祭様ですよ。眠らずに働く民こそ美しいと。……次のお越しは、十日ばかり先のはずです」
槌の音が、地の底から響き続けていた。私の握りしめたペンダントは、まだ氷のように冷たかった。
セレネが、初めて「与えられなかった」夜です。
人が眠れないのではなく、土地が眠っていない——この違いが、第3部の背骨になります。
そして、夜を知らない子ジュリオへの約束。次回、「眠らぬことを誇る、領主の館」。
主人公が何もできない回を書くのは怖いのですが、ここが第3部の心臓です。評価・ブックマークをいただけると励みになります。




