第34話:赤い灯の下、鉱山は眠らない
峠を越えた瞬間、匂いが変わった。鉄と、硫黄と、焦げた油。喉の奥に金属の味が張りつく。ノクスが膝の上で耳を伏せた。
そして——空が、明るかった。
日はとうに落ちている。ルキウス様の懐中時計は夜の八つを指していた。それなのに谷全体が、うっすらと白い。眼下に広がる盆地には坑口の炎が数え切れないほど並び、鉄を溶かす炉の煙が低く垂れ込め、その煙が下からの火明かりを吸って、天蓋のように光っていた。
星は、一つも見えなかった。
その白い天蓋の、さらに向こう。山の腹のあたりに赤い灯が滲んでいた。あの灯だ。夢見の都のバルコニーから、季節をひとつ跨いで見え続けていた、あの赤い明滅。近くで見るとそれは炎ではなかった。もっと硬く、もっと冷たい。血の色をした鉱石が内側から発光しているような光だった。
谷底へ降りると、音が私たちを迎えた。
槌の音だった。鉄と石を打つ音が、右から、左から、地の底から、絶え間なく重なって響いてくる。それは一人や二人の作業音ではない。谷全体が巨大な鍛冶場のように鳴っていた。
「夜半ですよ、これで」
馬車を降りた私に、迎えの者が言った。背の高い女だった。四十がらみ。日に焼けた首筋、油の染みた革帯、手の甲には古い火傷の痕。髪をぞんざいに縛り、腰に鑿と鎚を提げている。
「マレーヌ。ここの差配をやってます」
女は名乗りだけ寄越して、頭を下げなかった。無礼というより、下げ方を忘れた人の仕草だった。
「夢見の都の——奥方様と、辺境伯閣下でいらっしゃるとか」
「セレネ・ド・ノクターンです」
「ご苦労なことで」
マレーヌはそう言って、初めて私の顔を見た。その目の下には、墨を塗ったような隈があった。ルキウス様の、かつての隈と同じ色だ。
「先に言っときます。うちの領主は、あなた方をお呼びしていません。歓迎もしません」
「存じております」
「じゃあ、なぜ来なすった」
私は、白く濁った空を見上げた。
「星が見えないと聞いたので」
マレーヌの眉が、ほんのわずか動いた。それから彼女は鼻から短く息を吐いて、背を向けた。
「……宿は、坑夫長屋の端に取ってあります。上等じゃありませんよ。ここには、上等なものが何ひとつない」
歩き出した彼女の足取りは速かった。速いが、二歩ごとにわずかに流れる。船の上を歩く人の歩き方だ。
この人も、眠っていない。
私の隣で、ルキウス様が低く言った。
「あの女、何日だ」
「……お分かりになるのですか」
「昔の私と、同じ歩き方をしている」
彼の声には、憐れみではなく静かな敵意があった。誰に向けたものかも分からない、古い怒りのようなものが。
夜の守人となった彼は、この一年で土地の夜の具合を肌で測れるようになっていた。夢見の都では「よく眠っている」と言い、王都では「戻りつつある」と言った。その彼が、この谷に入ってから一度も何も言わない。
「ルキウス様。この土地の夜は、どうですか」
ルキウス様は、しばらく黙っていた。
「……夜が、無い」
彼は、白く光る空を見上げてそう言った。
「暗くないのではない。夜そのものが、この谷には、降りてきていない」
案内された坑口では、交代の鉱夫たちが列を作っていた。昇ってくる者と、降りていく者。すれ違うだけで言葉はない。皆、痩せていた。皆、目が赤かった。そして皆、歩きながらわずかに揺れていた。
そのうちの一人が、私の目の前で崩れた。三十歳ほどの男だった。膝から落ちて鶴嘴を取り落とし、そのまま石畳に額をつけた。
「セレネ」
ルキウス様が制止するより早く、私は駆け寄っていた。男の背に触れる。呼吸はある。だが体は熱く、瞼の下で眼球が忙しなく動いていた。
眠っているのではない。倒れているのに、眠れていないのだ。
「四日目だな」マレーヌが淡々と言った。「そいつ、四日眠ってない。ここじゃ普通です」
「普通、ですって」
「五日で幻を見て、六日で足が止まる。止まったら、外に出す。それだけの話ですよ」
「外に出す、というのは」
「文字どおりです」
マレーヌは、坑口の脇の粗末な小屋を顎で示した。板張りの、窓もない小屋。その戸口の前に寝台代わりの筵が幾枚も並べられ、そこに男たちが横たわっていた。誰も眠っていない。天井を見つめたまま指だけを小さく動かしている者。歯を鳴らしている者。声にならない声で何かを繰り返し呟いている者。
妹が息を呑む音がした。
アウレリアはしばらくその光景を見つめてから、荷を置いて、無言で筵のあいだへ入っていった。水筒の水を布に含ませ、一人ひとりの唇を湿していく。かつて加護を誇り、王宮の広間で誰よりも高く笑っていた娘の手が、今、見知らぬ坑夫の乾いた唇に触れている。
誰も、彼女に礼を言わなかった。彼女も求めなかった。
私は、男の額に手を当てた。子守唄の一節を低く口ずさむ。いつもならそれで足りる。眠れぬ人の額に手を置き、母の唄を三小節も辿れば、たいていの人は瞼を落とす。
男の呼吸が、確かに深くなった。肩の力が抜け、眉間の皺がほどけていく。
——けれど、それはほんの十を数えるあいだのことだった。
男はびくりと痙攣し、また浅い息に戻った。まるで、眠りに落ちかけた体を、地面の下から誰かが引き戻したように。
「……どうして」
私は、その場に膝をついたまま動けなかった。
異変に気づいたのは、ノクスだった。黒い猫は、鉱夫が取り落とした籠の前で背を丸め、牙を剥いていた。籠の中には掘り出されたばかりの鉱石が積まれている。鉄の黒、銀の白、そして——その隙間に、赤い石がいくつも混じっていた。
拳ほどの、角ばった石。表面が脈打つように、ぼう、ぼう、と明滅している。
ノクスがこんなふうに毛を逆立てるのを、私は一度しか見たことがない。覚醒の聖具が暴走した、あの夜だけだ。
私は、手を伸ばしかけて——止めた。
胸元のペンダントが、氷のように冷えていた。旅のあいだ中ずっと冷たかったそれが、今は指先が痺れるほどに冷たい。北を向いていたのではない。この石を指していたのだ。
「マレーヌさん」私は掠れた声で尋ねた。「この赤い石は、なんですか」
「さあ。鉄でも銀でもない、売り物にならない屑石ですよ」
彼女は肩をすくめた。
「けど、領主様は、それを掘れとおっしゃる。鉄よりも、銀よりも、それを掘れと」
槌の音が、地の底から響いてくる。
この土地の人々は、眠れないのではない。眠れなくなるものを、自分たちの手で掘り出し続けている。
フェラン鉱山領へ到着しました。四日眠れない鉱夫が「普通」の土地です。
セレネの子守唄が、十数える間しか効かなかった——この違和感が、第3部の入口になります。
次回、「子守唄が、届かない夜」。第3部の勝負回です。
「四日眠っていない」が普通の職場、という設定は、書いていて少し胸が痛みました。ご感想をいただけたら喜びます。




