第33話:北へ発つ朝と、留守を預かる人
第3部「夢見の都と、月の盟約」、はじまります。
遠い北の空に瞬いた、不穏な灯。眠りの巫女と夜の守人は、次の眠れぬ地へ発ちます。
夢見の都に、季節がもうひとつ巡っていた。月見草の畑は二度目の花期を迎え、水路には水車が回り、市が立つようになった。かつて「眠れぬ荒野」と呼ばれた土地に、今は麦と、羊と、子どもの声がある。
朝はパンの焼ける匂いで始まる。昼は羊飼いの笛が丘を渡る。そして夜になれば、誰に言われるでもなく灯りが落ちて、家々の窓がひとつずつ暗くなっていく。
その、なんでもない暗さが私は好きだった。眠れる土地の夜は静かに重い。人が安心して意識を手放している重さが、空気に沈んでいる。
王都から届く便りも穏やかなものばかりだった。夜が戻った太陽の都では、眠りと覚醒の盟約が少しずつ制度として根を張りはじめている。宮廷には「夜の刻限」が定められ、寝具の商いが復活し、子どもたちは寝物語を聞いて育つようになったという。
けれど。
北の空の、あの赤い灯だけが消えなかった。季節が巡っても、雪が降っても、明けても暮れても。北の稜線の向こうで、それは薄く、赤く、明滅し続けていた。
そしてあの夜から、母のペンダントは、ときおり、ふいに冷たくなる。
「フェラン鉱山領」
執務室の卓に広げた地図を、ルキウス様が指でなぞった。王国の最北。山ばかりの、痩せた土地だ。
「鉄と銀を出す。王国の鉱山の、七割がここだ」
「その領が、眠っていないのですね」
「あぁ。……盟約に加わっていない領の、ひとつだ」
私は顔を上げた。
「加わって、いないのですか」
ルキウス様は、王都から届いたばかりの書簡を卓の上へ滑らせた。宮廷の書記官の、几帳面な字が並んでいる。
——フェラン領主、盟約への署名を三度辞退。理由、「当領に夜は不要」。
三度。私は、その数を指でなぞった。
「盟約は結ばれた。だが、結ばれただけだ」ルキウス様の声は静かだった。「王都で紙に判が押されたことと、北の谷底で人が眠れることは、別の話だな」
その言葉は、思っていたよりも重く胸に落ちた。私たちは確かに世界の傾きを直した。夜を取り戻し、均衡を証明し、盟約という名の約束を国の背骨に埋め込んだ。
けれど、直したのは天秤であって、天秤の下にいる一人ひとりの夜ではない。夢見の都だけが眠れる国では、意味がないのだ。
「私たちが結んだものは」私は、書簡を見つめたまま言った。「都の外でも、守られるのでしょうか」
ルキウス様はすぐには答えなかった。答えないことが、この人の誠実さだった。分からないことを、分かると言わない人。
「……見に行けばいい」
やがて彼はそう言った。それだけが、確かめる方法だというように。
北へ発つ支度は三日で整った。
「わたくしが、留守を預かりますわ」
旅装を検分する私の背に、鈴を転がすような声が飛んできた。クラリス・ド・ヴァントゥールが、腕を組んで戸口に立っている。
「認めませんわ。認めませんけれど……ここの帳簿と、市の差配と、月見草の刈り入れは、わたくししか把握しておりませんもの。仕方なく、仕方なく引き受けて差し上げますの」
「クラリス様」
「呼ばないでくださいまし。泣きそうになりますでしょう」
彼女はぷいと横を向いた。それから、小さな声で付け足した。
「……早く、お帰りになって。ここの夜は、あなたがいてこそですのよ」
私は深く頭を下げた。この人がいる限り、都の灯は消えない。
もう一人、旅に加わった者がいた。
「お姉様。どうか、お連れください」
翌朝の中庭で、妹が——アウレリアが膝を折った。覚醒の加護を失い、贖罪の日々を選んだ妹は、この一年、都の片隅で夜着を縫い、月見草を摘み、領民に頭を下げ続けてきた。かつて宮殿で誰よりも華やかに笑っていた指は、今は針だこと土で汚れている。
「わたくしは、奪う側にいました」妹は顔を上げずに言った。「だから、返す側の景色を、この目で見なければなりません。荷を運びます。水を汲みます。……お邪魔でしたら、後ろを歩くだけでも」
私は、その手を取って立たせた。
「側仕えとして償う、と言ったのは、あなたでしょう」
妹の目がみるみる潤んだ。
「では、私の側にいなさい。荷ではなく、あなたの手が要ります」
出立の朝、城門で老執事が待っていた。
「閣下。奥方様。行ってらっしゃいませ」
ガイは深く腰を折った。この一年でまた少し背が丸くなった老人を、私は今回、置いていく。北の谷は険しく、冬は早い。
「留守を頼む」ルキウス様が言った。
「かしこまりました。……奥方様」
ガイが、そっと包みを差し出した。中身は干した月見草の茶だった。
「眠れぬ土地の水は、硬うございます。これを一つまみ、湯に落とせば、いくらか眠りやすくなりましょう。母君も、旅先ではそうしておられました」
喉の奥が熱くなった。母がしていたことを、私は今、なぞろうとしている。
馬車が北へ向かって動き出したとき、眠り猫のノクスが当然のような顔で膝に飛び乗ってきた。
「あなたも来るのですか」
ノクスは答えず、進行方向——北をじっと見ていた。均衡の番が行くというのなら、それはもう、行くべき理由になる。
窓の外を、都の灯が流れていく。門前で手を振る領民たちの列は、坂を曲がるまで途切れなかった。やがて畑が尽き、荒野が尽き、道は岩がちの登りに変わった。空気が少しずつ乾いていく。
三日も進むと木が減った。五日目には草も減った。街道沿いの宿場では、旅籠の主人が「北へ行かれるのか」と、決まって眉をひそめた。
「あそこは、日が沈まねえ土地だ」
六日目の宿で、老いた主人がそう言った。
「いや、沈むんだが。沈んでも、暗くならねえ。炉の火と、坑道の灯と、あの赤いのとで、空がいつも白く濁っててな。……あすこの生まれの若いのは、星ってものを、知らんそうですよ」
私は、湯呑みを持つ手を止めた。
星を知らない。
それは、私にはうまく想像のできない不足だった。眠れないことよりも、なぜか胸に刺さった。
その夜、私は気がついた。胸元の、母のペンダントが冷たい。手のひらで包んでも体温を吸うばかりで、少しも温まらない。まるで、遠いところにある何かと細い糸で繋がってしまったように。
銀の月が、北の稜線の向こうをぼんやりと赤く染めていた。
あれは、月の色ではない。
「……ルキウス様」
私は、その冷えたペンダントを握りしめた。
「あの土地は、私たちを、待っているのでしょうか」
「呼んでいる」
彼は、私の手ごと自分の手で包んだ。
「呼ばれたなら、行くだけだ」
第3部、開幕です。
夢見の都は満ち足りて、王都には夜が戻りました。けれど「盟約が結ばれたこと」と「そこに住む人が眠れること」は、まだ別のことのようです。
次回、「赤い灯の下、鉱山は眠らない」。北の果て、槌の音が止まない土地に着きます。
第3部もお付き合いいただけたら嬉しいです。ブックマーク・評価が支えになります。




