第32話:夢見の都の月と、次に眠れぬ地の灯(第2部・完)
夢見の都は、すっかり、平和な土地になっていた。
月見草の畑は、地平まで続き、夜ごと銀色に輝く。麦は実り、水路は澄み、子どもたちの笑い声が、絶えなかった。かつて「眠れぬ荒野」と呼ばれた死の地は、今や、王国一の豊穣の地として知られていた。
あの子どもが昔くれた、押し花のしおり。
私は今も、それを、母のペンダントと一緒に、大切に持っている。「よる、こわくなくなるおまもり」。たどたどしい字のそれは、すっかり色褪せたけれど、私にとっては、何よりの宝物だった。すべての始まりの、優しさの証。
「セレネ」
城のバルコニーで、ルキウス様が、私の隣に立った。
眠れる夜を得た彼は、もう、どこにも死神の影はなかった。穏やかで、優しくて、けれど私のことになると、相変わらず重く一途な、私の夫。
「何を見ている」
「月を」私は、微笑んだ。「それから、領民たちの、灯りを。皆、安らかに眠っているのだなと思うと、幸せで」
ルキウス様は、私の肩を、そっと抱き寄せた。
「君が来て、すべてが変わった」彼は、静かに言った。「呪われた死神に、夜をくれた。死の荒野に、緑をくれた。傾いた世界に、均衡を取り戻した。……君は、本当に、私の——いや、世界の、夜だ」
「大袈裟です」私は、笑った。「私は、ただ、子守唄を歌っただけ」
「その『ただ』が、誰にもできなかった」
彼は、いつかと同じ言葉を、そっと繰り返した。
私は、その胸に、頭を預けた。穏やかな、満ち足りた夜。
——その時だった。
遠い夜空の、北の彼方。
一筋の、奇妙な光が、瞬いた。月でも、星でもない。赤く、不穏に明滅する、不眠の気配。
ノクスが、バルコニーに飛び乗り、その方角を見て、低く鳴いた。
均衡の番が、また、何かを感じ取っている。
「あれは……」私は、目を凝らした。「北の、鉱山の領……。たしか、夜も眠らず坑道を掘り続けて、不眠の災いに見舞われていると、噂が……」
「眠れぬ地が、まだ、他にもある」ルキウス様が、静かに言った。「千年の傾きの、爪痕だな。この王国には、夜を失った土地が、まだ、いくつも残っている」
私は、その不穏な光を、じっと見つめた。
胸に湧いたのは、不安ではなかった。むしろ、静かな決意だった。
「行きましょう」私は、ルキウス様を見上げた。「あの地にも、夜を。私たちが、できることがあるのなら」
「あぁ」彼は、頷いた。私の手を、しっかりと握って。「どこへでも。君の隣が、私の居場所だ」
眠りの巫女と、夜の守人。
二人の旅は、まだ、終わらない。夜を失ったすべての地に、安らかな眠りを取り戻すまで。
夢見の都の月が、二人を、優しく照らしていた。
遠い北の灯が、次の物語を、静かに呼んでいた。
——その時、胸元の母のペンダントが、北を向いて、ひやりと冷えた。
手のひらで包んでも、少しも温まらない。
まるで、あの遠い灯の下から、誰かが私の名を呼んだように。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
千年の傾きを正し、眠りと覚醒の盟約を結んだ二人。けれど、夜を失った地は、まだ他にも残っています。
次話から第3部「夢見の都と、月の盟約」。北の果て、槌の音が止まない土地へ発ちます。
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