第4話:眠れた朝の、世界で一番優しいおはよう
翌朝、ルキウス様は別人のようだった。
墨のように濃かった隈は、まだ残ってはいたものの、ずいぶん薄らいでいた。掠れていた声には張りが戻り、何より——その銀灰の瞳に、生きている者の光があった。
「セレネ嬢」
朝の食堂に現れた彼は、私を見るなり、まっすぐに歩み寄ってきた。そして、私が止める間もなく、その場に片膝をついた。
「閣下……!? どうか、お立ちください」
「いや。これは、私が一生忘れぬための姿勢だ」
彼は私の手を取り、額に押し当てた。まるで、聖遺物にでも触れるように。
「私は昨夜、四百二日ぶりに眠った」
四百二日。
その数字の重さに、私は言葉を失った。
「目を閉じても、いつも闇しか来なかった。眠りの代わりに、ただ瞼の裏で過去が暴れ続けた。気が狂わなかったのが不思議なくらいだ。……君が来て、初めて、闇が『夜』になった。星のある、休める夜に」
彼の声が、わずかに震えた。
「君は、私の命を拾った。誇張ではない。あと幾日かで、私は魔力の暴走に呑まれて死ぬか、領民を巻き添えにして化け物に堕ちるかの、どちらかだった」
「……私は、ただ、子守唄を歌っただけです」
「その『ただ』が、誰にもできなかった」
ルキウス様は顔を上げ、私を見つめた。その眼差しの強さに、私は息を止めた。
「だから——逃がさない」
低い声が、はっきりとそう言った。
「君がくれた一夜の眠りを、私は一生かけて返す。衣食住も、安全も、欲しいものも、すべて与えよう。君を不浄と呼んだ国も、二度と君に触れさせない。その代わり……どうか、私の傍にいてくれ」
それは、求婚というには、あまりに切実で、あまりに重い言葉だった。
縋るような、けれど決して放さないという、執着のにじむ声。
私は、捨てられてばかりの人生だった。要らないと言われ、消えろと言われ、眠りの不浄姫と笑われてきた。
なのに今、この人は、私を「いてくれ」と言う。私の、一番疎まれた力を、命綱だと言う。
「……私で、よろしいのですか」
声が掠れた。
「私の力は、人を眠らせます。あなたを楽にできても、いつか、あなたの大切な刻を奪うかもしれない。それでも——」
「君以外に、誰がいる」
即答だった。迷いの欠片もなかった。
その瞬間、長いあいだ凍りついていた私の胸の奥に、温かいものがじわりと滲んだ。痛みでも悲しみでもない、もっと別の——たぶん、生まれて初めて感じる種類の温もりだった。
「では」
私は、できるだけ落ち着いた声で答えた。けれど、唇の端が、少しだけ震えていたと思う。
「ふつつかですが、よろしくお願いいたします。閣下」
「ルキウスだ」彼は、ほんの少しだけ表情をやわらげた。笑い方を忘れていた人が、思い出そうとするような、不器用な綻び方で。「これからは、名で呼んでくれ」
窓の外では、昨夜咲いた月見草の隣に、二輪目の蕾が膨らみはじめていた。
——契約結婚。
それが私たちの始まりだった。けれど、後から思えば、あの朝の彼の眼差しは、契約なんて言葉では到底足りないほど、もう、まっすぐに私だけを見ていたのだ。
眠れた死神は、想像以上に一途で、重い人でした。
さて——一方その頃、私を捨てた王都では、ある「異変」がひっそりと始まっていました。
次回「王都に、初めての眠れぬ夜が来た」。
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