第3話:死神は、私の隣で初めて眠った
その夜、ルキウス様は眠れずにいた。
与えられた部屋で横になっても、私はなんとなく寝つけなかった。城のどこかから、低い、苦しげな息遣いが聞こえてくる気がしたのだ。
廊下に出ると、執務室の扉の隙間から、まだあの蝋燭の灯りが漏れていた。
「……閣下」
そっと扉を押す。
ルキウス様は、椅子に座ったまま、両手で顔を覆っていた。肩が小刻みに震えている。私の気配に気づくと、彼は弾かれたように顔を上げ、けれどすぐに、力なく俯いた。
「……来るな。今夜は、特に悪い。魔力が、暴れている」
部屋の空気が、ぴりぴりと肌を刺した。彼の周りで、見えない何かが渦を巻いている。生気を削る、暴走の予兆。使用人たちが恐れた「死神」の正体。
「君まで巻き込みたくない。頼むから、離れて——」
「いやです」
気づけば、私はそう言っていた。
自分でも驚いた。あの夜会で、何を言われても「申し訳ございません」しか言えなかった私が。
私は彼の傍へ歩み寄り、震える手に、そっと自分の手を重ねた。
「閣下。今夜は、何も考えずにお眠りください。あとのことは、朝の私にお任せを」
「……無理だ。私は、もう、眠り方を忘れた」
「いいえ」
私は彼の手を握ったまま、ゆっくりと膝をついた。そして、ずっと胸の奥に眠らせていた、たった一つの歌を、口ずさんだ。
——おやすみ、わたしの月。
夜は、こわいものではないよ。
あなたの瞼に、わたしが灯りを消してあげる。
母様が、私にだけ歌ってくれた子守唄。意味もわからず、ただ覚えていた歌。
歌いながら、私は祈った。生まれて初めて、自分の力を「呪い」ではなく「贈り物」として、誰かに差し出したいと思った。
そのとき。
私の指先から、淡い銀の光が、綿雪のようにこぼれ落ちはじめた。
光は彼の肩に、髪に、瞼に、やわらかく降り積もっていく。月の光を、糸のように細く解いて織るように。
ルキウス様の、墨のような隈の刻まれた瞼が、ゆっくりと落ちた。
あれほど暴れていた魔力の渦が、凪いでいく。荒れた呼吸が、深く、長く、穏やかなものに変わっていく。
「……ぁ」
彼の唇から、声にならない吐息が漏れた。
「……静か、だ……。あぁ……これが……夜、か……」
そして、何百日ぶりかもわからない眠りが、ついに死神を捕らえた。
椅子に身を預け、彼は眠り落ちた。閉じた瞼の端から、一筋、透明なものが頬を伝った。眠れた人間の、安堵の涙。
私はその寝顔を、しばらく見つめていた。
恐ろしい死神は、どこにもいなかった。そこにいるのは、ただ、ようやく休めた、ひどく疲れた一人の青年だった。
ふと、窓の外が明るんだ気がして、顔を上げる。
ずっと曇っていた荒野の空に、雲が割れ、月が顔を出していた。
冴え冴えとした、青白い満月。その光が、眠れぬ荒野に、初めて穏やかな夜を降らせていた。窓辺の枯れた鉢に、いつの間にか、月見草が一輪だけ、ひっそりと白い花を開いている。
「……お嬢様」
いつの間にか、扉の外にガイが立っていた。皺だらけの頬を、涙が伝っている。
「閣下が……眠っておられる。あの方が、お眠りになっている……。何百日、私どもは、この日を……」
声を詰まらせるガイの後ろで、隈を浮かべた使用人たちが、信じられないという顔で、眠る主と、窓の外の月を見つめていた。
握りしめた手の中で、止まっていた懐中時計が——
かち、と、ひとつだけ、小さく針を進めた気がした。
死神に、初めての夜が訪れました。
けれど、目を覚ました彼が私に告げた言葉は、想像をはるかに超えて——重く、甘いものだったのです。
次回「眠れた朝の、世界で一番優しいおはよう」。
お気に入り登録・評価をいただけると、とても励みになります。




