第2話:死神閣下の城に、灯りは灯らない
ノクターン辺境伯の城は、灯りを灯していなかった。
夜だというのに、窓のひとつにも明かりがない。月もない曇り空の下、城は黒い岩の塊のようにうずくまっていた。出迎えてくれたのは、白髪の老執事がただ一人。
「ようこそおいでくださいました。執事のガイと申します」
深く腰を折ったその人は、顔を上げて私を見た瞬間、わずかに息を呑んだ。何か言いかけて、けれど飲み込むように口を閉じる。
「……失礼いたしました。あなた様のお顔が、昔、お世話になったさる方に、よく似ておられたもので」
「母を、ご存じなのですか」
「いいえ」
ガイは静かに首を振った。けれどその否定は、肯定よりも雄弁に思えた。
城の中も暗かった。使用人たちは皆、目の下に濃い隈を浮かべ、亡霊のように足を引きずって歩いている。誰もが眠そうで、けれど誰一人として眠っていない。奇妙な、張り詰めた静けさが城を満たしていた。
「皆さん、お疲れのようですね」
「……この城では、誰も眠れぬのです」ガイは声を落とした。「閣下の呪いが、城のすべてに及んでおりますゆえ」
通された執務室には、たった一本の蝋燭が灯っていた。
その小さな炎の向こうに、彼はいた。
ルキウス・ド・ノクターン辺境伯。
噂の死神は、想像とまるで違った。
銀灰の髪。彫りの深い、整いすぎた美貌。けれどその瞳の下には、私の知るどんな隈より深い、墨のような影が刻まれていた。手の甲に、かすかな震えが走っている。書類を持つ指先が、定まらない。
憔悴。
それは、何百日も眠っていない人間の顔だった。
「……君が、王都から送られてきた令嬢か」
声は掠れていた。喉の奥から無理に絞り出すような、痛々しい響き。
「セレネ・ド・ソレイユと申します。本日より、こちらでお世話になります」
「やめておけ」
彼は私を見ずに言った。
「この城にいれば、君も眠れなくなる。私の近くにいた者は、皆そうなった。やつれ、痩せ、心を病んで去っていった。……それでも『死神に喰われた』と噂される。気の毒な話だ。私は、誰も喰ってなどいないのに」
自嘲のように、彼の唇が歪んだ。
「私が一睨みすれば人が死ぬ、というのは半分は本当だ。眠れぬ私の魔力は、制御を失えば暴走し、近くの者の生気を削る。だから私は——人を、遠ざけてきた」
誰も傷つけまいとして、孤独を選んだ人。
その横顔を見たとき、私の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
ところが。
彼の前に立っているうちに、私はだんだんと、おかしなことに気づいた。
眠い。
猛烈に、眠い。
いつもの、私の傍にいる者が眠くなる、あの感覚——ではない。逆だった。私自身が、温かな湯に沈むように、瞼が重くなっていくのだ。まるで、長く張り詰めていたものが、ようやくほどけていくように。
そして、それと同じくらい不思議なことが、目の前で起きていた。
あれほど震えていたルキウス様の指先が、止まっている。
強張っていた肩から、すっと力が抜けていく。彼は怪訝そうに自分の手を見つめ、それから、ゆっくりと私へ視線を上げた。
「……君の、隣は」
掠れた声が、ためらいがちに続いた。
「……なぜ、こんなに静かなんだ」
その瞳の奥に、何百日ぶりかもわからない、かすかな安らぎの色が滲んでいた。
卓上には、針の止まった古い懐中時計が置かれていた。彼が無意識に握りしめているそれは、ずっと昔のある時刻で、時を止めたままだった。
眠れぬ死神の傍で、なぜか私が眠くなり、彼の震えは止まる。
次回・第3話——この城に、何百日ぶりの「夜」が訪れます。本作最初の見どころです。
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