第1話:婚約破棄は、眠れぬ夜会の真ん中で
王都の太陽は、私には眩しすぎました。
でも、ルキウス様の隣の闇は、私の眠りを優しく受け止めてくれる。
「逃がさない。君がくれた一夜の眠りを、私は一生かけて返す」
……重すぎるほどの執着に包まれて、私は今夜、本物の「辺境伯夫人」になります。
眩しくて、眠かった。
大広間に満ちる無数の魔導灯は、太陽の加護を受けるアウローラ王家の力そのものだ。昼のように白く、どこまでも明るい。けれど私にとっては、瞼の裏を焼く毒でしかなかった。
私は欠伸を噛み殺し、まだ続くのかしら、と心のどこかで思った。
「——以上だ。セレネ、何か言い残すことはあるか」
頭上から降る声に、ゆっくりと顔を上げる。
黄金の髪を魔導灯に輝かせて立っているのは、私の婚約者、王太子ユーリス殿下だった。その腕には、私の妹アウレリアが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っている。
「……申し訳、ございません」
唇から漏れたのは、それだけだった。
公爵令嬢であるはずの私のドレスは、妹が「古くて眠たい色」と捨てた三年前のもの。あちこちが擦り切れて、眩い夜会の中では、灯りの届かない隅の影のように浮いていた。
「謝って済む話ではない」
ユーリス様は忌々しげに私を見下ろした。
「私の加護は『覚醒』。次代の王として、この国を昼のごとく照らし続けねばならぬ。だというのに、婚約者のお前はどうだ。傍に立つだけで瞼が重くなる。私の輝きを鈍らせる、眠りの不浄姫。お前といると、私はまるで……生きながら眠らされているようだ」
不浄。
その言葉が、胸に古い棘のように刺さる。
覚醒を尊ぶソレイユ公爵家に生まれながら、私は人を眠らせる「眠り」の力を持って生まれてしまった。父様からは「一族の恥」と罵られ、母様は私が幼い頃に亡くなり、使用人たちからは「お嬢様のお傍は眠くて仕事になりません」と避けられてきた。
私の居場所は、家の中にも、この国の昼の中にも、どこにもなかった。
「お姉様、そんなに悲しいお顔をなさらないで?」
アウレリアが、鈴を転がすような声で笑った。彼女の指先から、ちらちらと金色の光の粉が舞う。覚醒の加護。私が一度も使えなかった、ソレイユの正統の力。
「殿下は、私が支えますわ。私の光なら、殿下の昼をもっと輝かせられますもの。お姉様は、その眠たい体でどこか暗いところへ消えてくださるのが、いちばんの親孝行ですのよ」
「……あぁ。お前との婚約は、今この瞬間をもって破棄する。フレ……ソレイユ公爵とも話はついている。お前は今日限りで国外追放だ」
国外、追放。
ようやく、私は掠れた声を出した。
「……どこへ、参ればよろしいのですか」
「北だ」
ユーリス様は吐き捨てた。
「『眠れぬ荒野』、ノクターン辺境領。あそこの辺境伯ルキウスなら、お前の眠たさも気にならんだろう。なにせあの男は、何百日も眠らぬ化け物——『不眠の死神』と呼ばれる怪物だからな。一睨みで人を死なせるそうだ。眠りの不浄姫には、死神の城がお似合いだろう」
ルキウス・ド・ノクターン辺境伯。
噂は、私も聞いていた。決して眠らず、近づく者を衰弱させ、領地に足を踏み入れた者は二度と帰らないという、絶望の地の主。
家族に捨てられ、婚約者に嘲笑われ、私は怪物への生贄として差し出されるのだ。
「……承知いたしました」
私は深々と頭を下げた。
涙で視界が滲みそうになるのを、必死で堪える。ここで泣けば、また「湿っぽい」「眠たい顔だ」と笑われるだけだから。
私の心は、もうずっと前から眠っていた。痛みも、悲しみも、絶望も、全部やわらかな闇の中に沈めて、何も感じないようにして生きてきた。
「あぁ、そうだ。持っていくものは、その布きれ一枚で十分だろう。お前のものなど、何一つこの国に残したくない」
背後で、ユーリス様の高笑いが響いた。アウレリアの甘ったるい声が追いかけてくる。
私は振り返らず、眩しすぎる夜会を後にした。
冷えた指先で、たった一つだけ——母様が遺してくれた、銀の小さな月のペンダントを握りしめて。
馬車に揺られ、北へ、北へと向かう。
車窓の景色が、緑から、寂しい枯野へ、やがて灰色の荒野へと変わっていく。風は刃のように鋭く、けれど不思議だった。王都のあの眩しい喧騒よりも、この何もない静けさのほうが、ずっと呼吸がしやすい。
(……いっそ、眠るように消えられるのなら、それでいい)
瞼を閉じると、母様の声が、遠い子守唄の切れ端のように耳をかすめた気がした。
——おやすみ、わたしの月。あなたの眠りは、いつか誰かの夜になる。
その意味を、このときの私はまだ、何ひとつ知らなかった。
追放された先は、何百日も眠れぬ「死神」の城。
けれど次回、その死神閣下と出会ったとき、私の体に起きた“ある異変”が、すべての始まりになります。
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