第29話:銀の糸で、世界に夜を織る
私の指先から、銀の糸が、無数に伸びた。
それは、月光を解いて紡いだ、夢の糸。一本一本が、安らかな眠りそのもの。私は、母の子守唄を歌いながら、その糸を、暴走する覚醒の力へと、織り込んでいった。
——おやすみ。
もう、戦わなくていい。
燃えなくていい。冴えていなくていい。
ただ、休んでいいの。
歌が、薄闇に響いた。
不思議だった。これほどの惨状の只中で、私の声は、震えていなかった。母様が幾度も歌ってくれた、あの夜のように。指先から伸びる銀の糸は、生きているかのように宙を舞い、灼熱の白光の一筋一筋へと、優しく絡みついていく。糸が触れたところから、眩い光が、月のように柔らかな銀へと、色を変えていった。
ルキウス様の作る夜の影と、私の織る眠りの糸が、溶け合っていく。夜が眠りを抱き、眠りが夜を満たす。月と太陽が、千年ぶりに、手を取り合う。
最初に変わったのは、空だった。
灼熱の第二の太陽——黄金の日輪の光が、ふっと、和らいだ。暴れていた覚醒の力が、銀の糸に包まれ、少しずつ、穏やかな温もりへと変わっていく。壊すのではない。鎮めるのだ。眠らせるのだ。
「効いている……!」ガイが、叫んだ。「奥方様、その調子で……!」
地上でも、奇跡が起きていた。
灼熱の悪夢に倒れ伏していた人々の顔から、苦悶が消えていく。錯乱していた貴族が、深い吐息とともに、眠りに落ちる。何ヶ月も、何年も、眠れずにいた王都の民が——一人、また一人と、安らかな寝息を立てはじめた。
悪夢が、安眠へと、織り替えられていく。
「あぁ……」
群衆の中で、妹のアウレリアが、涙を流していた。覚醒の加護を失って以来、悪夢に苛まれ続けた彼女もまた、生まれて初めての、安らかな眠気に包まれていた。
「お姉様の、夜だわ……。こんなに、優しいものだったのね……」
彼女は、糸の落とす銀の光を見上げながら、静かに、微笑んで、眠りに落ちた。その寝顔は、もう、罪に怯える顔ではなかった。
けれど、夢織りは、私の力を、根こそぎ奪っていった。
王都全体を織り替えるなど、本来、一人の巫女が為せる業ではない。視界が霞み、膝が崩れそうになる。
「セレネ!」
ルキウス様が、夜の力を保ったまま、私を支えた。彼もまた、限界だった。額から汗が滴り、腕が震えている。
「あと、少しだ」彼は、私を抱きしめるように、背を支えた。「私の力を、使え。夜の守人の力を、君の糸に。——二人で、織りきろう」
彼の夜の力が、私の銀の糸に流れ込んだ。
眠りと夜が、完全にひとつになった。私たちは、もう、二人ではなかった。月と太陽、眠りと覚醒、巫女と守人——千年すれ違った半身どうしが、今、ひとつの光になって、世界に夜を織り返していた。
最後の一糸を、織り終えたとき。
黄金の日輪は、ことりと、眠るように、光を収めた。
暴走は、止まった。第二の太陽は消え、空には、本物の——久しく忘れていた、星々の瞬く、夜空が広がっていた。
しん、と。
世界が、静まり返った。灼熱の悲鳴も、錯乱のざわめきも、すべてが凪いで、あとには、ただ、無数の安らかな寝息だけが残った。冷たく澄んだ夜気が、頬を撫でる。見上げれば、満天の星。その中央に、まあるい月が、何事もなかったかのように、優しく王都を見下ろしていた。
千年、奪われ続けた夜が——ようやく、この街に、還ってきたのだ。
夫婦で織りきった、世界の夜。暴走は止まり、王都に星空が戻りました。
妹アウレリアの、安らかな寝顔も、どうか心に。
次回「眠りと覚醒の、夜明けの盟約」。すべての決着と、新たな約束の回です。
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