第23話:月の谷の祠と、巫女の試練
月の谷は、廃墟になっていた。
かつて眠りの巫女たちが暮らした隠れ里は、覚醒派の襲撃以来、打ち捨てられたまま、苔と蔦に飲まれていた。崩れた家々、朽ちた井戸。屋根の落ちた家の窓辺に、誰が植えたのか、月見草が一群れ、ひっそりと白い花を咲かせている。
風が渡ると、谷じゅうの梢が、さらさらと子守唄のように鳴った。けれど不思議と、その荒廃には、墓所のような静謐があった。
ここで、母様は生まれた。ここから、母様は追われた。土を踏むたび、見たこともないはずの故郷が、なぜか懐かしく胸に滲んだ。
谷の最奥に、小さな祠があった。
月を象った白い石の社。蔦を払うと、扉には、母のペンダントと同じ、月の紋章が刻まれていた。
ペンダントを紋章にかざすと、光が呼応し、扉が、ゆっくりと開いた。
中は、思いのほか広かった。壁一面に、古い壁画。眠りの巫女の歴史が、描かれていた。そして中央の祭壇に、一巻の古い楽譜が——夢織りの、後半の譜が、安置されていた。
「あれが……」
私が祭壇に近づこうとした、その時。
社の空気が、揺らいだ。淡い光が満ち、私の視界が、白く溶けていく。
——気づくと、私は、夢の中にいた。
月明かりの草原。そこに、一人の女性が、静かに佇んでいた。
銀の髪。優しい瞳。私が、肖像でしか知らない、その顔。
「……母様?」
「セレネ」
母様は、微笑んだ。記憶の中の、あの子守唄を歌ってくれた声で。
「大きくなったわね。こうして、あなたに会える日が来るなんて。……これは、私が祠に遺した、最後の夢。あなたが後半の譜を迎えに来たときだけ、開く扉。本当の私ではないけれど、それでも、伝えたいことがあるの」
涙が、止まらなかった。夢だとわかっていても。
「夢織りの術は、強すぎる力よ」母様は、静かに続けた。「だから、試練を一つ。——セレネ。あなたは、なぜ、夢織りを使いたいの? 憎い者を眠らせるため? 復讐のため?」
「いいえ」
私は、首を振った。迷いはなかった。
「王都の夜を、取り戻すためです。眠れずに苦しむ人々に、妹に、敵だった兵たちにも。眠りを、奪うためではなく、分けあうために。母様が、私に教えてくれたように」
母様の瞳が、潤んだ。
「……合格よ、私の月」
彼女は、私を抱きしめた。夢の中の、温かな腕で。
「夢織りは、奪う者には宿らない。分かちあう者にだけ、力を貸す。あなたは、立派な巫女になったわ。……一つだけ、覚えておいて。夢織りを完成させ、世界の夜を織り直すには、眠りの力だけでは足りない。覚醒の力との、『和解』が要る。月と太陽が、もう一度、手を取り合うことが」
母様の姿が、光に溶けていく。
「愛しているわ、セレネ。あなたの夜が、誰かの安らぎになりますように」
「母様……っ」
夢が、覚めた。
気づくと、私は祠の床に膝をつき、頬を涙で濡らしていた。隣で、ルキウス様が、心配そうに私を支えていた。
手の中には、後半の譜が、あった。
前半と合わさり、ペンダントの光が、初めて、ひとつの完全な楽譜を描いていた。
夢の中で再会した、母。そして託された、夢織りの完成条件——「覚醒との和解」。
月と太陽が、もう一度手を取り合う。それが、世界の夜を取り戻す鍵でした。
次回「均衡の書、千年前に捨てられた半身」。物語は、いよいよ核心へ。
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