第22話:母の生まれた、月の谷へ
月の谷への旅は、静かなものだった。
ルキウス様と私、そして老執事ガイ。少数で、目立たぬように、西の山あいを目指す。眠り猫ノクスも、なぜか籠の中から付いてきた。
道中、私はずっと、母のことを考えていた。
母様は、この道を、逆向きに辿ったのだろう。迫害を逃れ、谷を出て、覚醒を尊ぶソレイユ家へと、身を隠すように嫁いでいった。その胸に、どれほどの孤独を抱えていたのか。
「ガイ」
焚き火を囲んだ夜、私は、ずっと聞きたかったことを、ようやく口にした。
「あなたは、母を知っているのですね。ただの『噂で聞いた』ではなく。……本当のことを、教えてください」
ガイは、長いあいだ、火を見つめていた。皺だらけの手が、膝の上で、固く組まれていた。
「……はい。私は、イレーネ様を、存じております」
火が、ぱちりと爆ぜた。
「私は元々、月の谷の生まれです。眠りの巫女に仕える、守人の一族の末でした。ノクターン家が『夜の守人』だったように、谷にも、巫女を守る者たちがいたのです」
私は、息を呑んだ。ガイもまた、母の世界の人だったのだ。
「イレーネ様は、谷で最も力の強い巫女でいらっしゃいました。けれど、覚醒派の追っ手は、年々厳しくなった。ある夜、谷が襲われ……多くの仲間が、命を落としました。私は、イレーネ様を谷から逃がす役目を負った。けれど」
ガイの声が、震えた。
「私は、しくじったのです。追っ手に囲まれ、私は……我が身可愛さに、足がすくんだ。イレーネ様は、私を庇い、たった一人で囮になって、別の方角へ走られた。『あなたは生きて、いつか、次の巫女に仕えなさい』と——そう言い遺して」
火明かりに、老人の頬を伝う涙が、光った。
「私は、生き延びました。けれど、イレーネ様を守れなかった。あの方は、私を逃がすために、追われる身となり……遠いソレイユの地で、お一人で、あなた様を産み、亡くなられた。私は、ずっと、その罪を背負って生きてまいりました」
「ガイ……」
「ですから」ガイは、地に額をつけた。「あなた様が、ノクターンの城に現れたとき、私は、神に許されたと思いました。次の巫女に仕えよ、というイレーネ様の言葉を、ようやく果たせる、と。奥方様。どうか、この老いぼれに、もう一度だけ、巫女をお守りする役目を、お与えください」
私は、立ち上がり、老執事の前に膝をついた。そして、その骨ばった手を、両手で包んだ。
「ガイ。母は、あなたを恨んでなどいません」
涙が、自然とあふれた。
「だって、あなたは、母の言葉を、ずっと守ってくれたでしょう。生きて、次の巫女を——私を、守ってくれた。母の願いは、もう、叶っているのです。ありがとう。母を、私を、守ってくれて」
ガイは、声を上げて泣いた。
六十年分の罪と、悔いと、そして、ようやく解かれた重荷の涙を。
その夜、ノクスが、ガイの膝の上で、まるで慰めるように、丸くなって眠った。
谷は、もう、すぐそこだった。
ガイの長い懺悔。彼もまた、母の世界の、守れなかった守人でした。
こうして、母をめぐる過去のすべてが、繋がっていきます。
次回「夢織りの後半譜、月の祠にて」。ついに、術が完成へと近づきます。
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