第19話:眠り猫ノクスが告げる、均衡の傾き
ノクスは、不思議な猫だった。
ルキウス様が眠れずにいた呪いの時代、城のすべてが不眠に蝕まれていたなかで、この灰色の猫だけは、いつも気持ちよさそうに眠っていた。まるで、呪いが届かない聖域を、自分の周りに作っているかのように。
「この子は、母上の代から城にいる」ガイが言った。「いえ、もっと前から——歴代のノクターン家に、この毛色の猫が、必ず一匹、住み着くのです。眠りの加護に最初に懐く生き物。我らは古くから、この猫を『均衡の番』と呼んでまいりました」
均衡の番。
言われてみれば、ノクスの眠りには、いつも不思議な静けさがあった。この猫が窓辺で丸くなっていると、その周りだけ、空気がやわらかく凪ぐのだ。呪いに蝕まれていた頃でさえ、ノクスのいる場所にはほんの少しだけ、安らぎの気配が漂っていた。世界の夜が傾けば、誰よりも先に、この小さな生き物が、それを肌で感じ取るのだろう。
その日、ノクスは、いつになく落ち着かなかった。喉を鳴らすことも、丸くなることもせず、城の窓から窓へと渡り歩く。そして、西の空に向かって、何かを訴えるように、しきりに鳴いた。尾の毛を逆立て、金色の瞳を、じっと一点に据えて。
「西……」私は呟いた。「ガイ、母の故地は、どちらにありますか」
「……西の山あい。『月の谷』と呼ばれる、隠れ里にございます。眠りの巫女の一族が、迫害を逃れて隠れ住んだ地。イレーネ様も、そこのお生まれです」
ノクスが、私の足元にすり寄ってきた。そして、私の胸元——母のペンダントに、ちょん、と前足を触れた。
その瞬間。
ペンダントが、淡く光った。盤面の楽譜が、月光もないのに浮かび上がり、その光が、すうっと西を指す矢印のように、細く伸びた。
「……これは」
「楽譜が、残り半分を、呼んでいるのです」ガイが、息を呑んだ。「奥方様。前半の譜は、あなた様がお持ちの、このペンダントに。そして後半の譜は——おそらく、月の谷の、巫女の祠に。二つが揃って初めて、夢織りの術は、完成いたします」
夢織りの完成。
悪夢を安眠に、暴走を鎮め、荒れた夜を織り直す術。それが完成すれば——王都の悪夢も、ゼフィールの暴走も、鎮められるかもしれない。胸の奥で、希望と不安が、同時に脈打った。母様が、命がけで遺してくれた術。その残り半分が、母の生まれた谷で、私を待っている。
窓の外では、夕暮れの荒野が、藍色に沈みはじめていた。月見草が、宵闇の中で、白くほのかに光っている。この穏やかな夜を、もっと遠くまで、王都の隅々まで届けたい。そう思った。
「行きましょう」私は、立ち上がった。「月の谷へ。後半の譜を、迎えに」
「危険だ」ルキウス様が、眉を寄せた。「ゼフィールも、巫女の故地を知っているはず。先回りされるかもしれん」
「ええ。でも、待っていても、夜は戻りません」私は、彼を見上げた。「あなたが、私の夜を守ってくださるなら——私は、世界の夜を、取り戻しに行きたいのです」
ルキウス様は、しばらく私を見つめ、それから、ふっと表情をやわらげた。
「……かなわないな、君には」彼は、私の手を取った。「わかった。共に行こう。どこへでも。私は、君の夜の守人だ」
ノクスが、満足げに「にゃあ」と鳴いた。
まるで、それでいい、とでも言うように。
旅の支度が、静かに始まった。
月の谷へ。母の生まれた、隠れ里へ。
小さな眠り猫が指し示した、母の故地「月の谷」。
そこには、夢織りを完成させる後半の楽譜が眠っています。
次回「聖騎士団、夢見の都を囲む」。旅立ちの前に——ゼフィールの刺客が、都に迫ります。
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