第66話:線が増える
あれから、だいたい九か月が過ぎた。季節も、少しずつ変わった。
朝。
ラヒーマが、水場へ向かう。歩幅が、前より少し短い。一歩。止まる。もう一歩。俺は、水袋を二つ肩にかける。ラヒーマは、一つだけ。前なら、二つ持てるって言っていたはずだ。今日は、言わない。
俺は横に並ぶ。
「一つでいいのか。持てるなら、もう一つ渡す」
ラヒーマは歩幅を崩さず、そのまま前を見る。
「いい。今は一つで回る。無理に増やすと後で響く。一回で多く持つより、回数で合わせたほうが安定する。遅くなっても、取れれば足りる」
俺は短くうなずく。
「分かった。距離も回数も、合わせて見る」
ラヒーマは、少しだけ息を整える。
「前と同じやり方は、もう使わない。それだけ」
昼。
ラヒーマが、桶の前で布をすすいでいる。絞る。もう一枚。途中で、手が止まる。止まりきらない。間だけ伸びる。腰に手が回る。俺が近づく。
「止まってるな。さっきから間が長い。どこがきつい」
ラヒーマは顔を上げない。
「痛いわけじゃない。重いだけ。中でゆっくり動いてる感じがする。一気にやると続かないから、少しずつやってる」
俺は少ししゃがむ。
「休むか。一度止めてからやればいい」
ラヒーマは首を振る。
「まだいける。今は止めるほどじゃない。ただ、やり方を変えてるだけ。動けるうちに、この動き方に慣れておきたい」
庭の向こうで、アザールの手が止まる。こちらを見る。何も言わない。また削り始める。俺は桶を引き寄せる。
「今日はここまででいい。残りは俺がやる。無理に続けるより、一回切ったほうが後が楽だ」
ラヒーマは、少し間を置いてからうなずく。
「……分かった。無理に続けるより、分けたほうがいい」
数日後。
ラヒーマは遠い水路へ行かなくなる。近い浅場だけで済ませる。マリークが、荷を持ったまま声をかける。
「代わるか。遠いほうは俺が行く。無理に距離を伸ばす必要はない。今の距離で回せるなら、それで十分だ」
ラヒーマは首を振る。
「浅いところだけでいい。ここで回るなら、それで足りるよ。遠いところに合わせるより、近いところで回したほうが崩れない」
マリークは少しだけ目を細める。
「距離を縮めて回すか。量を増やすより、取り方を変えたほうが安定するな」
ラヒーマはうなずく。
「そう。減った分は、取り方で補う」
俺はそのやり取りを見ながら言う。
「道も同じだな。長く取るより、回るようにする」
夜。
火を小さくする。ラヒーマは横になる。向きを変える。また変える。ようやく止まる。手は腹にある。俺は横を向く。
「落ち着く位置、見つかったか。さっきからずっと探してるだろ」
ラヒーマは目を閉じたまま。
「仰向けだと重い。横のほうが楽。少し丸めたほうが呼吸も通る。前と同じ姿勢じゃ寝られない。体が勝手に変えてくる」
俺は小さく息を吐く。
「分かった。布、もう少し寄せるか。風が当たらないようにする」
「いい。このままで平気」
ラヒーマが続ける。
「水が遠くなっても、やれる。やり方を変えれば、まだ回る。今のまま引っぱるより、先に合わせたほうが崩れない」
俺は少しだけ笑う。
「まだ遠くなってない」
ラヒーマは目を閉じたまま。
「でも、なるかもしれない。一人なら無理もできる。でも二人だと崩れる。だから最初から変える」
俺は腹を見る。何も見えない。
「水は増やす。回数も変える。道も広げる。今のままじゃ足りない」
ラヒーマは小さくうなずく。
「そう。今のままじゃ足りない」
虫が鳴く。ラヒーマの呼吸が、ゆっくり落ち着く。俺は空を見る。
「守れるかどうかは、やり方次第だな。場所より、回し方だ」
ラヒーマは、目を閉じたまま。
「回せるなら、どこでもいいよ」
やがて、東が少し白む。ナーヒルが寝返りを打ちながらぼそりと言う。
「……もう起きるのか。昨日と同じじゃ回らねえな。水も距離も、全部ずれてきてる」
俺は目を閉じないまま答える。
「ずれた分は詰める。今日から全部見直す」
ナーヒルが小さく笑う。
「やること増えたな」
俺は短く。
「増えた分だけ、回していく」
空が、ゆっくり明るくなる。
昼。
陽は、ほとんど真上だ。土が、白く、乾いた光を返している。ラヒーマが、一人で川へ向かう。俺は遠くからそれに気づく。呼ばない。止めない。理由は分かる。川辺。浅いところまで、ゆっくり入る。裾を少し上げる。足首に水が触れる。
ラヒーマが小さく息を吐く。
「……冷たい。でも、嫌な冷たさじゃない。ちょうどいい。体の熱が抜ける感じがする」
流れは同じだ。足を少し動かす。砂が指のあいだを流れる。ラヒーマはしゃがむ。手のひらを水面に置く。しばらくして、俺は少し近づく。
「冷たすぎないか。長く入ってるときつくなるぞ」
ラヒーマは目を上げない。
「大丈夫。これくらいなら平気。それにここならすぐ戻れるし、無理になる前に止められる。……近いね。この距離なら何度でも来れる。もう遠くまで行かなくていい」
俺は短くうなずく。
「ここで回すか。距離を使わずに回数で合わせる」
ラヒーマは小さく。
「うん。そのほうが崩れない」
立ち上がるとき、少しゆっくりになる。俺が低く。
「戻るか。今日はこれ以上やらなくていい」
ラヒーマはうなずく。
「うん。今はこれで足りる」
夜。
虫の音が、いつもより濃い。ラヒーマは座っている。途中で言葉が途切れる。手が腹の下へ行く。俺が顔を向ける。
「……来たか。さっきから様子が違ってた」
ラヒーマは息を一つ吸う。もう一つ。
「たぶん。さっきより来るのが早くなってる。重さじゃなくて、押される感じに変わってきた」
俺はすぐに立つ。
「マリーク」
マリークが顔を上げる。
「始まったか。さっきから気にしてた」
俺は短く。
「たぶん。間が短くなってる」
マリークは短く。
「なら入る。水を温める。布も増やす。慌てるな。まだ余裕はあるはずだ」
ナーヒルが小声で。
「早いな。昨日まで普通に動いてただろ。急に来るもんなんだな」
マリークが短く返す。
「九か月だ。来るときは、一気に来る」
遠くで。どん。ナーヒルが振り向く。
「今かよ。よりによってこのタイミングで来るか。落ち着かねえ音だな」
マリークが静かに。
「近づいてはこない。さっきから距離は変わってない。気にするな。今はこっちだ」
ラヒーマがゆっくり立つ。
「大丈夫。まだ歩ける。今のうちに中に入る。止まってるほうが、きつい」
俺はうなずく。
「分かった。支えるか」
ラヒーマは首を振る。
「いらない。自分で行ける」
布の中。
「……はっ」
「……はっ」
誰かが背をさする。
「いい、そのままでいい。力入れすぎなくていい。息を合わせて、押されるのに合わせればいい」
外。
俺は歩く。三歩。止まる。また三歩。何もできない。
ナーヒルが横で小さく。
「落ち着かねえな。こういうの一番苦手だ。戦うほうがまだ分かる」
アザールは、少し離れた場所に立っている。視線は地面。何も言わない。遠くで。どん。どん。ナーヒルがぼそり。
「止まらねえな、あいつらも。こっちも向こうも、同時に動いてるみたいだ」
布の中。
「……はっ」
「……はっ」
音が少し強くなる。俺は布を見る。俺の中だけ、急に狭くなる。
布の内側。
ラヒーマの声が少し強くなる。
「……っ」
短く切れる。押さえている。誰かが支える。
「いい、そのまま。逃がさなくていい。今の波に合わせて押して」
水が注がれる音。ラヒーマが息を吐く。
「……はっ、来てる……さっきより強い。切れない……でも、まだいける」
別の女が背をさする。
「いけるよ、そのまま続けて。力は抜きすぎないで、流れに乗せて」
外。俺は座る。すぐ立つ。ナーヒルが小さく。
「落ち着かねえな。見てるだけってのが一番きつい。手も出せねえし、何も分かんねえ」
俺は短く。
「今は入れない。邪魔になるだけだ」
ナーヒルは息を吐く。
「分かってる。でもな……音だけで待つの、長えな」
アザールが一度だけ俺を見る。何も言わない。ただ視線だけ置く。布の向こう。ラヒーマの呼吸が深くなる。
「……はっ、……はっ、押される……今、来てる……」
女が低く。
「いい、そのまま。止めなくていい。今は出るほうに合わせて」
そのとき。
「……ぁ」
小さい。ナーヒルが顔を上げる。
「今の……聞こえたか?」
俺は答えない。もう一度。
「ぁあっ」
ナーヒルが息を止める。
「……出たな。今のは違う」
布の中で声が変わる。
「出たよ。大丈夫、ちゃんと出てる。そのまま落ち着いて」
俺は布の前で止まる。中から声。
「ノア」
俺は入る。中。女が俺を見る。
「持てる?強く抱かなくていい。落とさないようにだけ」
俺はうなずく。
「持てる」
布ごと渡される。俺が小さく。
「……軽いな。これで全部か」
女が少し笑う。
「軽いよ。でもちゃんといる。怖がらなくていい、腕はそのままでいい」
腕の中。小さな手が動く。俺は低く。
「動いてる……ちゃんと息してるな。弱いけど、切れてない」
女がうなずく。
「それでいい。最初はそんなもんだ」
ラヒーマが目を開ける。
「……どう。ちゃんといるよね?」
俺は腕を少し上げる。
「いる。ちゃんといる。動いてるし、息もしてる」
ラヒーマが小さく。
「……よかった。それでいい」
女が聞く。
「名前はどうする。決めてる?」
俺は少しだけ間を置く。
「まだ決めてない。でも……今ここで置く」
腕の中を見る。
「ヤフェト」
ラヒーマが繰り返す。
「……ヤフェト。ちゃんと入ってくる名前だね」
女たちがうなずく。
「いい名前だ。呼びやすい」
入口。アザールが立っている。黙ったまま。ナーヒルが小さく。
「名前、決まったか」
俺は振り向かず。
「ヤフェトだ」
ナーヒルが息を吐く。
「そうか。じゃあもう一人前だな。名前ついたら、もう逃げられねえ」
腕の中。ヤフェトが小さく声を出す。俺は低く。
「ちゃんといるな。軽いのに……重いな」
外。どん。ナーヒルがぼそり。
「向こうも動いてる。こっちもだな」
ラヒーマが静かに。
「水も流れてるし、止まってないね。全部そのまま動いてる」
俺はうなずく。
「そうだな。止まってない」
火が小さく揺れる。俺はもう一度言う。
「ヤフェト」
ラヒーマが静かに。
「ヤフェト」
誰もそれ以上足さない。それで足りている。
朝。
光はやわらかい。川の音が近い。俺は布の下から出る。前を見る。遠くで、恐竜が草を食んでいる。足音。アザールが川のほうから来る。横で止まる。しばらく何も言わない。アザールが前を見たまま。
「泣いたか。夜のうちに声が変わるはずだが、ちゃんと出たのか。弱くてもいい、続いていれば問題ない」
俺は短く。
「夜中に泣いた。細いけど切れてない。ちゃんと続いてる。今も寝てる。まだ弱いが、息は安定してる」
アザールはうなずく。
「それでいい。最初はそれだけで十分だ。小さいが、そこからしか始まらない」
俺は布のほうへ目を動かす。
「小さい。守りも薄いし、このままだとすぐ崩れそうだ。だから、やり方を変えないと回らない」
風が抜ける。アザールが静かに。
「広がるな。場所じゃない、回し方のほうだ。昨日までの並びじゃ足りない。一つ増えた」
俺は少し間を置く。
「広がるかどうかは分からん。まだ歩けもしないし、動けないうちは、そうそう変えようがないだろ」
アザールの口元がわずかにゆるむ。
「歩くのは後だ。今は回し方を変えるだけでいい。増えた分に合わせて、先に道を広げる」
俺は短く息を吐く。
「水も距離も全部見直す必要があるな。一人のときのままじゃ回らない」
アザールは視線を動かさない。
「もう変わってる。認めるかどうかだけだ。止めても戻らない」
足音。マリークが水路のほうから来る。杭を持っている。
「杭、少し打ち直す。昨日のままだと浅いし、このままだとすぐ緩む。雨が来る前に締めておいたほうがいい」
俺がうなずく。
「やってくれ。土も少し柔らかい。このままだと持たない。広げるなら今のうちだな」
マリークが続ける。
「水も見直す。近い流れだけで回す。距離を伸ばすより回数で合わせたほうが安定するし、無理も出ない」
少し離れて。ナーヒルが土を踏み固める。
「ここ踏んどくぞ。このままだと足取られるし、昨日より沈む。まだ締まりきってねえな」
俺がそちらを見る。
「頼む。動きにくいと全部遅れる」
ナーヒルが続ける。
「しかし増えたな。やること全部、一段上がった感じだ。一人のときは雑でも回ったが、もうそれじゃ崩れる」
俺は短く。
「そうだな。雑にやると全部ずれる、だから先に整える」
ナーヒルが鼻を鳴らす。
「まあいい。分かりやすくなっただけだ。守るもんがあると、迷いは減るな」
布のほうから。ラヒーマの声。
「外、もう動いてる?音で分かるけど、思ったより普通だね」
俺が振り返る。
「もう始めてる。いつもと同じだ。ただ、中身が変わっただけだ」
ラヒーマは続ける。
「それでいい。止めないほうが楽だし、止めると全部重くなる。そのまま動かしてていい」
アザールが一歩下がる。
「名前は。呼び方が決まらないと混ざる。区別もつかなくなる」
俺は迷わない。
「ヤフェト。もう決めた。呼べば分かる」
アザールは一度だけうなずく。
「ヤフェトか。ならもう外に出てる。増えた分は止まらない。広がるぞ」
俺は答えない。ただ受ける。アザールは川のほうへ歩いていく。俺は布のほうを見る。小さな影。俺が低く。
「……小さいな。でもここからしか始まらない。増えた分だけ回す。それだけだ」
遠くで恐竜が草を食む。ナーヒルがぼそり。
「止まってねえな。あっちもこっちも動いてる。世界は待ってくれねえ」
マリークが短く。
「だから合わせる。止めずに回す、それが一番崩れない」
川が流れる。俺は前を見る。
「やるか。今日からやり方を変える。全部見直して、一日ずつ回す」
誰も反対しない。それで足りている。
やがて、二年過ぎた。
川は二度あふれた。水路は一度崩れた。杭は何本も打ち直した。そのたびに、やり方を少しずつ変えていった。ヤフェトは歩くようになった。何度も転んだ。泣いて、また立った。
朝。
光はやわらかい。空気はまだ少し冷たい。ラヒーマが水袋を一つ肩にかける。ヤフェトが布の端をつかんで横を歩く。足取りはまだ危ない。でも、止まらない。浅瀬で止まる。俺が後ろから。
「そこ、少し深くなる。足取られるぞ。急に落ちるところがある」
ラヒーマは振り向かない。
「分かってる。このあたりは踏める場所が決まってるから、大丈夫」
ヤフェトが水をのぞき込む。
「つめたい。さっきより冷たい。でも動いてる。同じなのに違う」
俺が短く。
「入るなよ。流れがあるから、足持ってかれる」
ラヒーマが軽く笑う。
「ちょっとだけならいいよ。ゆっくりね。動いてないところだけ」
ヤフェトが足先を入れる。すぐ引く。
「うごいてる。さっきより速い。どこ行くの、これ」
ラヒーマが水面をなぞる。
「下に流れてく。ここからずっと続いてるんだよ」
「どこまで?」
「見えなくなるまで。その先もずっと」
ヤフェトが少し考える。
「じゃあ、戻ってこないの?」
ラヒーマは少しだけ首を振る。
「同じ水は戻らない。でも、また別の水が来る」
ヤフェトはうなずく。
「じゃあ、ずっと来てるんだ」
俺は少し離れて見る。同じ場所。同じ水。だが、昨日より迷いがない。
昼。
俺は杭を打つ。どん。低い。腰より少し下。ナーヒルが腕を組んで。
「それ、越えられるぞ。あのデカいのなら一歩だろ」
どん。俺が打ちながら。
「越えない。あいつらには越える必要がない」
ナーヒルが鼻を鳴らす。
「なんで分かる。気分で来たら終わりだろ」
俺は土を踏み固めながら。
「腹が満ちてる間は来ない。無駄には動かない」
ナーヒルが遠くを見る。恐竜が草を食んでいる。
「飢えたら?」
どん。俺はもう一度打つ。
「その時は変える。今はこれで足りてる」
マリークが来て杭を押す。
「浅い。このままだと緩む。雨で崩れるぞ」
俺はうなずく。
「もう少し入れる」
どん。どん。マリークが続ける。
「間も詰める。広すぎると抜けるし、狭すぎると動きにくい」
俺は杭を押し込みながら。
「今は通れる幅を残す。閉じない」
ナーヒルが地面を踏む。
「石がないと落ち着かんな。囲ってないと、やっぱ不安だ」
俺は土を押さえる。
「石は重い。動かせない。ここは変えながら使う。軽いほうが回しやすい」
ナーヒルが少し考える。
「壊れてもすぐ直せるってことか」
俺は土を押さえたまま。
「そうだ。崩れる前に変えておく」
ヤフェトが内側を歩く。ふらつく。止まらない。
「ここ、ぼくのとこ?」
俺は少し見てから。
「通る場所だ。止まるところじゃない」
ヤフェトが杭に触れる。
「とおるだけ?」
「ああ。行き来するための線だ。ここで止まる場所じゃない」
ヤフェトは少し考える。
「じゃあ、向こうにも行けるの?」
「行ける。どこも閉じてない」
ヤフェトは小さくうなずく。
「じゃあ、こわくないんだ」
杭が増える。高くしない。厚くもしない。必要な分だけ。閉じない。止めない。ただ、流れを整えるための線だけが増えていく。
夕方。
土はまだ少し湿っている。子どもたちが円になってしゃがんでいる。俺は少し離れて柵を直しながら、横目で見る。アザールが泥の上にしゃがむ。丸いくぼみがいくつも並んでいる。大きい。俺の胴より広い。アザールが縁を指でなぞる。
「踏み跡、いくつある。見えてる数だけじゃなくて、重なりも見ろ。ずれてるやつも数に入れろ」
子どもがすぐに。
「三つ!大きいのが一つと、小さいのが二つ!」
アザールは顔を上げない。
「数え直せ。間を見ろ。重なってるところで一つ増える」
子どもたちが慌ててしゃがみ直す。
「いち、に、さん……あ、違う」
一拍。
「……四つ!ここにもあった、重なってる!」
アザールがうなずく。
「親と子だ。大きいのが前、小さいのが後ろについてる。動きも揃ってる」
ヤフェトが少し離れた跡を指さす。
「大きいの、こっち行った。さっきより深い、沈んでる」
アザールは視線だけ動かす。
「そこに立つな。今のままだと風上だ。匂いが流れる」
子どもがきょとんとする。
「なんでだ。立ってるだけで分かるのか?」
アザールが手のひらを少し上げる。
「風の向きを見ろ。草の倒れ方で分かる。匂いは風に乗る。風上に立てばそのまま届く」
ヤフェトが小さく。
「届いたら、どうなる。見つかるのか?」
「気づく。こっちを向く。来るとは限らんが、動きは変わる。見る側じゃなくて、見られる側になる」
子どもたちが無意識に足を下げる。アザールが踏み跡の縁を崩す。
「新しいな。まだ乾いてない。崩れ方が柔らかい」
サジークが後ろから。
「朝のじゃないのか。さっき見たのに似てる」
アザールは首を振る。
「昨日の夜だ。乾ききってないし、縁がまだ立ってる。朝ならもっと崩れる。風ももう入ってる」
ヤフェトがそっと触れようとする。アザールが軽く止める。
「触るな。形が変わる。読めなくなる」
ヤフェトが手を引く。
「変わったら分からなくなるのか。戻せない?」
「戻せない。消えたら終わりだ。読むのは残ってる間だけだ。残ってるうちに見ろ」
俺は柵を打ちながら聞く。教えている。だが押しつけていない。
昼。
水路の流れが細い。マリークがしゃがみ込む。
「ここ落としすぎたな。流れが弱い。止まりかけてる」
ナーヒルが腕を組む。
「だから言っただろ。平らにしすぎると止まる。傾き残せって」
マリークは土を削る。
「平らにするんじゃなくて均すだけだ。止まるのは角度が足りないからだ。少し落とせばまた動く」
ナーヒルが水を足で蹴る。
「止まらなきゃいい。流れが見えるくらいで十分だ」
サジークが裸足で入る。
「冷たいな。だが流れてる。止まってはいない。これなら詰まらない」
マリークが土を足す。
「冷たいのはいい。動いてる証拠だ。止まるとすぐぬるくなる。そこで詰まる」
水がわずかに向きを変える。ナーヒルがしゃがむ。
「これでどうだ。さっきより速い。止まってない」
マリークが水面を見る。細く続く。
「……いい。このくらいなら流れ続ける」
ナーヒルが息を吐く。
「さっきより動いてるな」
マリークが首を振る。
「水は逆らわない。高い低いに従うだけだ。人が変えたのは角度だけだ」
俺は少し離れて見る。ナーヒルが水路をのぞく。
「結局、曲がったな。真っ直ぐに戻らなかった」
マリークが肩をすくめる。
「真っ直ぐだと止まる。流れるなら曲がる。形じゃなくて動きだ」
サジークが上がる。
「冷たいが流れてる。それでいい。止まるよりましだ」
俺は水面を見たまま。
「止まらなきゃいい。流れてる限り回る」
畑の端。ナーヒルが強く踏む。
「柔らかすぎる。足取られる。沈みすぎだ」
俺が押さえる。
「踏め。押し固めろ」
「踏んでる」
もう一度。
「まだ沈む。締まってない」
サジークが杭を立てる。どん。止まる。
「入らない。途中で止まる」
ナーヒルがすぐ。
「だから言ってる。水が多すぎる」
マリークが乾いた土を投げる。
「混ぜろ。水を吸わせろ。このままだと持たない。上だけじゃなく下まで締めろ」
ナーヒルが舌を鳴らす。
「最初からそう言え。これじゃ二度手間だろ。踏み直しも打ち直しも、やり直しだ」
マリークが土を均しながら。
「言った。水の色で分かる。重いって。流れも鈍かった。見てれば気づく」
ナーヒルがすぐ返す。
「聞こえてねえし、そこまで見てねえよ。動かしてみないと分からん」
マリークは手を止めない。
「動かして崩す前に見るんだ。崩れてから直すと倍かかる」
言い合いながら手は止まらない。踏む。混ぜる。押す。打ち直す。俺が体重をかける。沈まない。
「……これなら持つ。さっきより締まった」
ナーヒルが土を蹴る。
「最初からこうなれよ。無駄にやり直したな」
マリークが短く笑う。
「土は急がない。急がせると崩れる。合わせるしかない」
誰も勝ちを取らない。畑が少し強くなる。それで終わる。
夕方。
柵のそばで、ヤフェトが、ふらつきながら歩いている。足は、まだ細い。地面に取られそうになる。板に手をかける。俺は、少し離れて呼ぶ。
「こっち来い。まっすぐじゃなくていい。足見て、一歩ずつ出せ。止まってもいいから、前に出ろ」
ヤフェトが、首を振る。
「やだ。ひとりでいく。手、いらない」
ラヒーマが、水袋を下ろしながら。
「転ぶよ。急がなくていいから、足をちゃんと置いて。滑るとこは避けてね」
ヤフェトは、一歩出る。もつれる。そのまま、前に倒れる。どさ。手をつく。顔をしかめる。
泣く。短く。俺は、すぐには動かない。ヤフェトが、こちらを見る。泣き声が揺れる。
俺は少しだけ顎を引く。視線は外さない。
「立て。転んだだけだ。壊れてない。手使っていい、自分で起きろ」
ラヒーマが、一歩出かけて、止まる。ヤフェトは、鼻をすすり、地面を押す。
「……できる。もっかい。あし、ちゃんとおく」
足が震える。立つ。ふらつく。もう一歩。今度は、踏みとどまる。ラヒーマが、やわらかく。
「そう、そのまま。急がなくていいよ。今の歩き方でいい。止まらなければ進んでるから」
ヤフェトは、自分の足を見る。それで、分かる。
遠くで、草が大きく揺れる。大きな影が、ゆっくり通る。長い首が、夕日に重なる。ヤフェトが、指さす。
「あれ、またきた。きのうの?ずっとあるいてるの?」
アザールが、空を見たまま。
「通り道だ。同じところを回ってるだけだ。変わってない」
ヤフェトが、少し不安そうに。
「こっち、こない?ちかくまできたら、どうするの」
アザールは、視線を動かさない。
「今は来ない。腹が満ちてる。外れない。近づけば向きは変わるが、追ってはこない」
ヤフェトは、もう一歩出る。
「じゃあ、いい?ここにいていい?」
ラヒーマが、軽くうなずく。
「大丈夫。こっちはこっちで動いてるし、向こうは向こうで動いてる。ぶつからなければ、それでいい」
誰も武器を探さない。誰も構えない。恐竜は、草を食み、歩くだけ。俺たちは、土を踏み、杭を打ち、子どもを立たせる。大きなものも。小さなものも。それぞれの速さで、動いている。ヤフェトが、また一歩出る。今度は、転ばない。
「……あるける。さっきより、ちゃんとたてる」
ラヒーマが、少し笑う。
「ほら、進んでる。さっきより崩れてない。それで十分」
俺は、視線を外す。もう、見張らなくていい。ここでは、それが少しずつ普通になっていた。




