第65話:開かれた地、掲げない角
灯りは、最後に、消す。油は、ほとんど、残っていない。ラヒーマが、紐を、結ぶ。布で、道具を、包む。俺は、縄を、肩に、かける。サジークが、鍬を、巻く。マリークが、袋を、持ち上げる。アミーヌが、戸口を、見る。ナーヒルは、何も、言わない。アザールは、ただ、立っている。
ラヒーマが、振り返る。
「忘れ物は?」
俺は、部屋を、一度、見る。壁。床。空になった、水瓶。
「ない」
ラヒーマが、うなずく。
「じゃあ、出よう。長く置いても、軽くならないし」
戸を、引く。音は、軽い。ナーヒルが、隣を、見もしないまま。
「見送り、なしか」
サジークが、短く。
「要らない」
マリークが、袋を、持ち直す。
「静かな方が、出やすい」
アミーヌが、外を見たまま。
「止める人も、いませんね」
俺は、先に、足を、出す。
「行くぞ」
石の床が、続く。足音は、短い。乾いて、響かない。
ナーヒルが、段を、降りながら。
「こうして出ると、案外あっさりだな。もっと何かあるかと思ってた」
俺は、前を、見たまま。
「街は、街のままだ。俺たちが動いても、すぐには変わらない」
ラヒーマが、静かに。
「だから出やすいんだよ。大きく止められないまま、外へ出られる」
壁が、低くなる。石の、冷たさが、薄れる。やがて、土に、変わる。サジークが、足元を、見る。
「変わったな。踏み返しが、柔らかい」
マリークが、短く。
「音も違う。こっちは散る」
俺は、歩幅を、合わせる。
「上は音が残る。ここは抜ける」
風が、まっすぐ、頬を、通る。アミーヌが、空を、見上げる。
「広いですね。音も、上で止まらないです」
ナーヒルが、鼻を、鳴らす。
「息はしやすいな。まだ何もねえ」
誰も、振り返らない。やがて、硬さが、消える。土は、まだ、乾いている。踏むたびに、細かい粉が、舞う。
ナーヒルが、肩の袋を、かけ直す。
「南って、暑いんだろ」
マリークは、前を見たまま。
「川が、分かれる」
ナーヒルが、少し、顔を、しかめる。
「分かれると、どうなる」
マリークが、歩きながら、答える。
「流れが散る。ひとつに集まらない。ひとつが止まっても、全部は止まりにくい」
後ろから、サジークが、低く。
「散れば、溜まりにくい。溜まらなければ、奪い合いも減る」
俺は、歩幅を、変えない。
「集まらなければ、押し合いも減る」
ナーヒルが、鼻を鳴らす。
「奪い合うほど、人がいるかよ」
ラヒーマが、少し、歩みを、落とす。腹に、手を、添えたまま。
「休むなら、日が高くなる前がいい。暑くなると、歩幅、落ちる」
前を歩いていたナーヒルが、振り返らずに。
「あと、どれくらいだ?」
俺は、空を、ちらりと、見る。
「今日で、半分だ」
マリークが、地面を、靴先で、崩す。
「土は、悪くない。掘れば、まだ使える」
サジークが、うなずく。
「水さえ、あればな」
そのとき、アザールが、短く。
「流れる」
ナーヒルが、横目で、見る。
「何がだ」
アザールは、前を、見たまま。
「南は、水が止まりにくい。だから、まだ回る」
誰も、問い返さない。風が、横に、消える。川の音が、少し、近づく。やがて、川が、二つに、分かれる。太い流れと、細い流れ。間に、砂の浅瀬。
ナーヒルが、石を、蹴る。
「どっちだ」
マリークが、しゃがむ。
「南は、こっちか?」
アザールは、分かれ目を、じっと見る。触れない。手も、伸ばさない。ナーヒルが、待ちきれずに。
「分かるのか、それ」
アザールは、水面を、見たまま。
「見た目は、弱い。でも、底が深い」
マリークが、目を、細める。
「細いほうか」
アザールが、顎で、示す。
「南は、こっちだ。昔、来たことがある。水が増えても、道が消えにくい」
マリークが、うなずく。
「土も、やわらかい」
アザールは、水面から、目を、離す。
「石は、積まないと、形にならない。水は、勝手に、道を作る」
俺は、分かれた流れを見る。太い流れは、重い。細い流れは、速い。
ナーヒルが、浅瀬を、見て。
「じゃあ、細いほうを行くのか」
俺は、短く。
「行くぞ」
アザールが、先に、一歩、出る。迷いは、ない。
俺たちは、細い流れへ、足を向ける。浅瀬を、渡る。水が、くるぶしに、当たる。
ラヒーマが、少し、息を、整える。
「冷たい。でも、こっちのほうが早いね」
サジークが、荷を、持ち上げ直す。
「太いほうは、重い。渡るだけで、削られる」
対岸の土に、足を、乗せる。少し、沈む。ナーヒルが、靴を、振る。
「砂、入るな。面倒だ」
ラヒーマが、前を、見たまま。
「乾けば落ちるよ。それより、止まらないほうがいい」
風が、正面から、来る。日が、少し、高い。影が、短い。アザールは、袋を、背負っている。軽くはない。肩を、何度か、直す。
ナーヒルが、ちらりと、見る。
「お前も重いんだな」
アザールが、少しだけ、笑う。
「見れば、分かるだろ」
俺は、前を、見たまま。
「そのまま行く。次に止まるのは、日がもっと上がる前だ」
誰も、反対しない。そのまま、歩く。ナーヒルが、汗を、ぬぐう。
「なあ。王族から降りてきて、きつくないのか?正直、俺なら無理だ。上で全部揃ってたやつが、いきなり下に来て、同じ顔で歩けるもんか?」
アザールは、すぐに答えない。石を、踏み越える。袋を、持ち直す。ナーヒルが、続ける。
「上には、全部あっただろ。食い物も、金も、力も、困ること、なかったんじゃないのか?今は、全部、自分で探すしかない。水も、飯も、寝る場所も、全部だ」
砂が、舞う。アザールが、ようやく言う。
「きついかもしれないな。でも、それでいい」
ナーヒルが、鼻を鳴らす。
「何がだ。きついのに、いいってのが、もう分からねえよ」
アザールは、前を見たまま。
「困ることだ」
マリークが、すぐ返す。
「困るのが、いいわけない。困れば動きは鈍るし、判断も遅れる。守れるものも守れなくなる」
アザールは、歩き続ける。
「上は、困らなかった。全部あったから、忘れやすい」
ナーヒルが、眉を寄せる。
「何を。何を忘れるってんだ」
アザールは、少し空を見る。
「源だ。自分だけじゃ足りないってこと。全部あるとさ、自分ひとりで立ってる気になる。何でも、自分の都合で回してるって思い込む」
袋を、軽く叩く。
「でも、こうして困ると、水を、どう探すか。飯は、いつ来るか。自然と考えるようになる」
サジークが、短く。
「弱くなるか?削られるだけじゃないのか」
アザールは、首を振る。
「逆だ。本来の位置に戻るだけだ」
ナーヒルが、舌を鳴らす。
「やっぱ、変なやつだな。でも、言ってることは分からなくもねえ。困ると、考え続けるしかねえ」
だが、歩幅は、落ちない。ラヒーマが、静かに言う。
「困るほうが、忘れにくいね。余裕があると、そのまま流れちゃうし。止まらないで、考えなくなる」
アザールは、振り返らない。
「そうだ」
日が、さらに上がる。汗が、背を伝う。水は、まだ、ある。足も、止まらない。困っている。だから、進んでいる。風が、横から、押す。砂が、足に、まとわりつく。道は、待ってくれない。
アザールは、歩幅を、変えない。袋を、持ち直しながら、言う。
「天は全部知ってるだろ」
マリークが、少し、目を細める。
「……知っている。知らないものはない」
アザールは、続ける。
「知ってるのに、わざわざ、世界を、生み出した。理由があるはずだ。なんでだと思う?」
誰も、答えない。ナーヒルは、汗を、拭う。サジークは、黙って、前を見る。アザールが、続ける。
「オレはな、人を、困らせるためだと、思う」
ナーヒルが、足を、止めかける。
「は?それ、わざとかよ」
アザールは、振り返らない。
「困るとさ、自分で生きてる気が消える。全部、自分でやれてるって、思えなくなる。だから、辛さを味わった瞬間に、やっと上が見れる。困難は罰じゃない。余計なもんを削るためにあるだけだ」
マリークが、問う。
「何を?削られるのは、どこだ」
アザールは、袋の紐を、引く。
「自分の、思い上がりを」
ナーヒルが、息を、吐く。
「じゃあ、辛いのも必要ってか?避けるもんじゃなくて、通るもんだってことか」
アザールは、肩を、すくめる。
「辛いと、天を、思い出しやすい」
ラヒーマが、静かに言う。
「忘れるのは、楽だもんね。楽なほうは、すぐ慣れるし、そのまま離れる」
アザールは、うなずく。
「だから、困難は、この世に置いてあるんだな」
日が、少し、傾く。道は、まだ、続いている。ラヒーマの歩幅が、わずかに、落ちる。止まらない。だが、間が、少し、伸びる。
俺は、横を見る。数歩、合わせる。
「休むか?歩けてはいるけど、少し落ちてる」
ラヒーマは、すぐには、首を振らない。息を一度整える。額の汗を、袖で、拭う。
「大丈夫。まだ歩ける。止まるほどじゃないし、今止まると流れが切れる」
一歩。また、一歩。俺は、水の袋を、少し、彼女の側へ、寄せる。
「無理はするな。後で崩れる方が面倒だ」
「してない。ちょっとゆっくりにしてるだけ。無理しない速さで歩いてる」
足は、止まらない。ナーヒルが、振り返る。
「平気か?さっきから少し遅れてるぞ。無理して合わせる必要はねえ」
ラヒーマは、うなずく。
「平気。合わせられる。落としてるだけ。止まるほどじゃない」
風が、通る。道は、続く。やがて、足裏の感触が、変わる。ナーヒルが、足元を、見る。
「……変わったな。石じゃねえ」
マリークが、少し、速度を落とす。
「沈む土だな。跳ね返らない」
サジークが、短く。
「音が散る。足音が残らない」
靴の縁に、赤い粉が、つく。ナーヒルが、足を、払う。
「くっつくなこれ。払っても残るな」
マリークが、前を見たまま。
「乾いてるだけだ。湿れば締まる。今はまだ軽い」
視界が、開ける。杭。縄。柱だけ立った家。壁は、まだ半分。ナーヒルが、周りを、見渡す。
「……まだ作りかけだな。壁も埋まってねえし、隙間だらけだ」
サジークが、柱を、見上げる。
「先に骨だけ立ててる。柱と梁を組んで、あとから土で壁を埋めるやり方だな」
アミーヌが、静かに。
「だから風が抜けるんですね。壁が閉じてないから、止まらない」
マリークが、川を見る。
「流れも同じだ。一本に集めてない。細く分けて、そのまま流してる」
ナーヒルが、少し、眉を上げる。
「まとめねえのか?一本にしたほうが強いだろ」
マリークが、短く。
「まとめれば、止まったとき全部止まる。分けておけば、どれかは流れ続ける」
アザールが、耳を、澄ます。
「音が、違う。跳ね返らない。閉じ込められない」
俺は、息を、吸う。
「圧が薄い。ないわけじゃないが、遠い」
ナーヒルが、軽く、肩を回す。
「上よりは楽だな。押し返される感じがねえ」
ラヒーマが、小さく、息を吐く。
「広いと、それだけで違うね。詰まってないだけで、動きやすい」
マリークが、最後に。
「悪くない。まだ整ってないが、回し方は作れる」
風が、抜ける。道は、まだ、続いている。そのとき、足元が、わずかに、揺れる。誰も、すぐには、言わない。川の水面が、細く、震える。波紋が、広がる。木の上で、鳥が、一斉に、飛び立つ。羽音が、空を、裂く。
ナーヒルが、足を、止める。
「……今、揺れたか?風じゃねえよな。下から来てる感じだ」
サジークが、周りを、見回す。遠く。草の向こう。
「揺れてるな。さっきよりはっきり来た。軽くない。重い何かが動いてる」
揺れは、もう一度、来る。今度は、はっきり。土が、細かく、跳ねる。ナーヒルが、足を、止める。
「……来るぞ。数も多そうだ。一つじゃねえ」
草の向こう。木立の上に、何かが、見える。マリークが、目を、細める。
「枝、か?」
一拍。
「……いや、違う。あれ動いてる。風の揺れじゃない」
ゆっくり、動く。サジークが、視線を上に引く。
「首だ。あり得ない長さだな。あれだけで木と同じ高さだ」
長い。信じられないほど、長い。ナーヒルが、眉を、ひそめる。
「顔、小せえな……あの体で。釣り合ってねえだろ。あんな細くて折れそうなのに」
口が、高い枝を、挟む。葉を、まとめて、引きちぎる。ぱき、と、枝が、折れる。
ラヒーマが、小さく、息を、吸う。
「雲に届きそう。下の葉は見てない。ずっと上だけ見てる」
やがて、全身が、見えてくる。四本足。太い脚。マリークが、見上げる。
「あの脚……柱みたいだな。家より太い。あれで動いてるのか」
サジークが、足元の揺れを確かめる。
「だからゆっくりなんだ。あの重さじゃ、速くは動けない」
一本、脚が、上がる。ゆっくり、下りる。どん。地面が、鳴る。ナーヒルが、喉を鳴らす。
「音が違うな。叩いてるっていうより、地面を押してる感じだ」
もう一歩。どん。だが、走らない。急がない。ナーヒルが、呟く。
「遅いな……本気で来られたら逃げられねえけど、追ってくる感じはねえ」
サジークが、続ける。
「速くはないが、止まらない。同じ速さでそのまま来る感じだな」
その後ろ。さらに、もう一頭。ナーヒルが、数える。
「一、二……奥にもいるな。でかいのが並んでる」
ラヒーマが、目を、凝らす。
「群れ……だね。同じ距離で動いてる。ぶつからないように間を取ってる」
ナーヒルが、喉を、鳴らす。
「襲ってこないのか?こっち見てねえけど、あの大きさで来られたら終わりだぞ」
アザールは、首の動きを、じっと、追っている。目が、迷わない。
「草を、食ってる。ずっと上の葉だけ見てる。下は見てない」
葉を、まとめて、口に、巻き込む。高い枝ばかり、狙う。アザールは、首の動きを目で追う。
「あれは草しか食わない。動きも遅い。こっちから追わなきゃ来ない」
ナーヒルが、横目で、見る。
「知ってんのか?見ただけで分かるもんじゃねえだろ」
アザールは、うなずく。
「前に、ここへ来たとき、見た。この辺りじゃ、ディプロドクスって呼ばれてる」
ナーヒルが、眉を上げる。
「ディ……なんだって?名前長すぎだろ」
長い首が、空を切る。
「ディプロドクス。群れで動く。葉を食う。こっちから近づかなきゃ来ない。距離を取ってればいい」
その間も、大きな脚が、落ちる。どん。ナーヒルが、喉を鳴らす。
「腹、満ちてるな。こっちに興味ねえって感じだ。ずっと葉しか見てねえ」
サジークが、ぽつり。
「音は、重い。だが、荒くない。暴れてるわけじゃない」
マリークが、続ける。
「流れに近いな。止まらず、押さず、そのまま進んでる」
ナーヒルが、目を細める。
「……こっち見ねえな。まるで、いないみたいだ」
アザールが、短く。
「必要がないからだ。葉がある。それで十分だ」
ただ、食べて、歩いている。そのとき。横の草が、大きく、揺れる。ばさり、と、音。
ナーヒルが、足を、止める。
「まだいるぞ。さっきのとは違う。高さがねえ。低いまま横に来てる」
草の中から、低い影が、出てくる。背中が、波打っている。マリークが、目を、細める。
「……枝じゃない。板だ。背中に並んで立ってる。全部、同じ向きだ」
ナーヒルが、前へ。
「板?刃みてえだな。あの数、近づいたら切れそうだろ」
背に、三角の板。人の背丈より、高い。ラヒーマが、目を、上げる。
「背中が……立ってる。風を受けてるね。少し揺れてる。あれで風を受けてる感じ」
サジークが、体全体を、見る。
「首が短い。高い葉は届かない。地面の草を食う体だ。重さも下に集まってる」
体は、低い。草を、ゆっくり、かじる。ナーヒルが、顎で示す。
「下ばっか見てるな。上は見ねえ。さっきの長いのとは逆だ。届くとこだけ食ってる」
アザールは、背の板を、目で追う。
「ああ。あれは低い草を食う。だから首が短い。動きも重い。無駄に上げない」
尾が、ゆっくり、揺れる。ナーヒルが、目を止める。
「……待て。尻尾の先、見たか?あれ、ただの尾じゃねえ」
四本のとげ。ナーヒルが、息を、吐く。
「槍じゃねえか。振られたら終わりだろ、あれ。一発で持ってかれる」
アザールは、視線を外さない。
「振る。本気で怒らせたらな。距離を詰めたら危ない。近づかなきゃ当たらない」
ナーヒルが、横目で、見る。
「知ってんのか?見ただけじゃ分からねえだろ。あの動きで判断してんのか」
アザールが、板を追ったまま。
「あれはステゴサウルス。前に見た。群れで動く草食だ。自分からは争わない」
マリークが、板を見る。
「守りか?刃みたいに立ってる。ぶつけるために見える」
アザールが、首をわずかに振る。
「違う。熱を逃がすためだ。戦うためじゃない」
ナーヒルが、眉を寄せる。
「熱?背中で冷やすってことか。体温を外に逃がしてるのか」
アザールが、空を、仰ぐ。
「血が通る。風に当たって冷える。それが戻る。そうやって回してる」
ラヒーマが、板を見る。
「大きいから、風を受けるんだね。風が流れる場所じゃないと意味がない」
アザールが、短く。
「こもらない。だから動き続けられる。止まりにくい体になる」
ナーヒルが、鼻を鳴らす。
「でっかい、うちわだな。勝手に冷やしてる。便利な体してんな」
アザールが、わずかに笑う。
「そんな感じだ」
その後ろ。もう一頭。小さい。ラヒーマが、少し、声を落とす。
「子どもだ。親の横から離れてない。ずっと同じ間でついてる」
マリークが、位置を見る。
「間に入ってる。板と体の影に隠れてるな。外から見えにくい位置だ」
ナーヒルが、腕を組む。
「守ってるのか。でも、振らねえな。尾も使ってねえ。警戒はしてるが攻めてねえ」
サジークが、群れを見る。
「押し合ってない。距離を取ってる。食う分が足りてる。取り合う必要がない」
ナーヒルが、首をかしげる。
「どういう意味だ。普通は取り合うだろ。でかいやつほど持ってくはずだ」
サジークが、前を見る。
「広いからだ。食う分がある。詰める理由がない。無理に近づく必要がない」
アザールが、静かに。
「腹が満ちてる。だから争わない。足りてるから無理に動かない」
ナーヒルが、息を吐く。
「でかいのに、静かだな。力はあるのに使ってねえ。無駄に見せつけねえ」
さらに、少し離れた場所。草が、大きく、割れる。ばき、と、音。ナーヒルが、息を止める。
「今度は、でかいぞ。さっきのと違う。前が強い形だ。押してきそうだ」
低い唸り。どしん。マリークが、声を落とす。
「……顔が大きい。体より前が強い。ぶつけるための形だ」
三本の角。ナーヒルが、目を細める。
「盾みてえだな。正面で受けるやつだ。正面から崩さねえ形だ」
ラヒーマが、後ろを見る。
「子どもがいる。前に出てるの、守ってるね。先に立ってる」
母が、一歩、前へ。ナーヒルが、固まる。
「来るか?踏み込まれたら逃げきれねえ。距離が近い」
誰も、動かない。アザールが、目を逸らさない。
「まだ来ない。様子を見てるだけだ。距離を測ってる」
大きな目が、こちらを見る。ナーヒルが、小さく。
「見られてるな。測ってる感じだ。動いたら来そうだ」
それから、視線が外れる。マリークが、息を吐く。
「力はある。だが、押してこない。必要がないと動かない」
ナーヒルが、続ける。
「あの角……刺されたら終わりだな。だが今は使わねえ。ただ見せてるだけだ」
アザールが、短く。
「あれはトリケラトプス。三本の角。群れで動く草食だ。前で受ける体だ」
ナーヒルが、横目で。
「また知ってるやつか。名前長えな。覚えられねえ」
アザールが、指で示す。
「一本、二本。正面で受けて、押し返す形だ。ぶつかるための体だ」
ラヒーマが、首の後ろを見る。
「後ろの骨は?広がってる。あれも意味あるよね」
アザールが、視線をなぞる。
「首を守る。ぶつかるときに支える。力を散らさない」
ナーヒルが、眉を上げる。
「ぶつかる?同じやつ同士でか。やり合うのか」
「縄張りとか、子どもを守るときだ。必要なときだけ当てる」
母が、もう一歩、出る。ナーヒルが、息を止める。
「使うか?来るか?」
アザールが、短く。
「使わない。必要がない。今は守ってるだけだ」
トリケラトプスが、草を噛む。どし。マリークが、低く。
「石の都なら、あの角、掲げるだろうな。力の印にして、見せるために使う」
ナーヒルが、鼻を鳴らす。
「門の上だな。見せつけるためのやつだ」
マリークは、目を離さない。
「ここじゃ違う。必要なときだけ使う。普段はただ置いてるだけだ」
俺は、角を見る。ラヒーマが、静かに。
「怖くない。向けてないから。こっちを狙ってないし」
ナーヒルが、驚く。
「怖くねえのか?この大きさで、あの角で」
ラヒーマは、少し、首をかしげる。
「……うん。大きいだけ。今はただそこにいるだけ。やる気がない」
風が、横に流れる。ナーヒルが、ぽつり。
「南は、広いな。押し合わなくていい広さだ。詰めなくていい」
恐竜は、遠くで、草を食んでいる。三本の角も、背の板も、空に立っている。だが、誇らない。見せびらかさない。ただ、そこに、ある。俺たちは、足を止める。
マリークが、しゃがんで土を握る。指の間から、こぼしながら。
「やれるな。土が死んでない。まだ動く。掘れば変わるし、水を引けば流れも変わる。石みたいに、積むしかない土地じゃねえ」
ナーヒルが、空を見て、それから、遠くの恐竜を見る。
「石より素直だな。石は削るか、割るか、積むかだろ。最初から形が決まってる。でも土は違う。掘れば変わるし、水を通せば流れも変わる。こっちのほうが、まだ話が通る」
サジークが、土を握る。ぱら、と落とす。
「曲げられる。押さえつけなくても向きを変えられる。固まる前に触れる。石は逆らうが、土は返してくる」
俺は、足元を見る。
「石は積むしかない。高さを決めるしかない。だが土は耕せる。水も引ける。少しずつ手で変えられる」
アザールは、川を見下ろしている。
「広いほうがいい。水がひとつに集まらないほうがいい。人も、ひとつに押し込められないほうがいい。逃げ道ができる」
ラヒーマが、川へ目を落とす。しゃがむ。水面に手を伸ばしかけて、止める。少し横へ歩く。土を踏む。石の色を見る。
ナーヒルが、声をかける。
「どうだ。使えそうか」
ラヒーマは、振り返らない。指で、水をすくう。
「水が近い。流れも死んでない。浅すぎないし、足も置ける。増えた跡も見える。ここなら使える」
俺は、靴を脱ぐ。裸足で土を踏む。それから、水に手を入れる。
「冷たすぎない。沈みすぎない。これなら運べる」
ナーヒルが、辺りを見回す。
「で、どうする。ここでいいのか」
ラヒーマが、立ち上がらないまま。
「……ここで、いい」
俺は、周りを見る。
「壁はない。囲いもない。だが、水はある。土にも触れる。ここから始める」
ナーヒルが、荷の中から杭を取り出す。
「じゃあ、立てるか。見てるだけじゃ始まらねえし」
ごん。杭を打つ。マリークが、横にしゃがむ。
「間、取りすぎるな。最初は狭くていい。風を切るだけの影があれば十分だ」
ナーヒルが、もう一度打つ。
「こんなもんか」
横で土を押さえながら、マリークが視線をずらす。
「もう少し右だ。四つでいい。先に枠だけ出す」
アザールが、布を広げる。大きな布だ。雨よけのもの。ナーヒルが、縄を引く。
「家ってほどじゃねえな」
マリークが、杭を押し込みながら。
「まだ要らない。日を避けて、雨がしのげればいい。壁は後でいい」
アザールが、黙って結び目を締める。布が、ぴんと張る。ラヒーマが、布の下に入る。上を見上げる。
「屋根があるだけでいい。今はそれで足りる」
ナーヒルが、布を引っ張る。
「雨来たら飛ぶぞ、それ」
マリークが、返す。
「その前に打ち直せばいい。今日は立てば十分だ」
サジークが、周りを見たまま。
「風が抜ける。こもらない。見通しもある」
ナーヒルが、空を見上げる。
「広いな。上が塞がってねえ」
サジークが、低く。
「見られてない。壁もないし、監視塔もない」
マリークが、手についた土を払う。
「音も戻らないな。声が溜まらない。石の都みたいに返ってこない」
アザールが、布の影から外へ出る。風を受ける。
「流れるな」
ラヒーマは、座ったまま。
「水は近い。それで十分」
それが、決め手だった。夕方の光が、斜めに差す。遠くで、巨大な影が、草を食んでいる。囲いも、ない。空と、風と、土。張ったばかりの布の屋根。もう、ここにいる。やがて、輪が自然と小さくなる。火は、まだ、つけない。空は、まだ、赤い。
ナーヒルが、仰向けになって、布の向こうを見る。
「……天井ないな。屋根はあるのに、閉じてねえ」
サジークが、杭を踏み込む。
「風が抜ける。押し返されない。布の下でも流れる」
マリークが、空を測るように見る。
「声も上に抜ける。壁がないから戻ってこない。都みたいに残らない」
ナーヒルが、鼻を鳴らす。
「落ち着かねえな。でも、息はしやすい」
俺は、何も言わない。やがて、赤い線が消える。誰かが、小枝を寄せる。火花。細い火が立つ。
ナーヒルが、耳を傾ける。
「音、多いな。静かって感じじゃねえな」
サジークが、火の向こうを見たまま。
「途切れない。どれかが止んでも、別の音が鳴る。ここはずっと動いてる」
どん。遠くで、地面が鳴る。マリークが、顔を上げる。
「……今の、聞いたか。近くないが、腹に来る」
ナーヒルが、息を抜く。
「静かってわけじゃねえな。広いだけで、止まってねえ」
アザールは、遠くを見たまま。
「止まってない。ここは、生きてる」
サジークが、暗がりを見たまま。
「囲い、作るか。風も獣も人も、そのまま通る。何もないのは開きすぎだ」
マリークが、首を振る。
「急がなくていい。まずは水と土だ。閉じるのはそのあとでいい」
ナーヒルが、寝返る。
「石がないと、ちょっと落ち着かんな。囲われてねえと、どこまでが自分の場所か分かりにくい」
アザールは、仰向けのまま。
「石はな、閉じるためのもんだ。壁を作って、音も人もそこで止める。ここは違う。開いたままだ」
ナーヒルが、顔を向ける。
「開きすぎだ」
アザールは、目を細める。
「閉じすぎるより、いい」
誰も、言い返さない。ラヒーマが、ゆっくり横になる。片手が、腹に落ちる。俺は、横を向く。
「寒いか?」
「平気」
それだけで終わる。ナーヒルが、片肘を立てて、闇をにらむ。
「恐竜が来たら、どうすんだ。囲いもねえし、火だけじゃ足りねえだろ」
マリークは、目を閉じたまま。
「腹は満ちてる。さっきずっと食ってただろ。飢えてなきゃ、すぐには来ない」
ナーヒルが、眉をひそめる。
「お前、そこまで見てたのかよ」
マリークが、うっすら笑う。
「見てたから言ってる」
アザールは、星から目を離さない。
「飢えたら、分かる」
ナーヒルが、顔を向ける。
「何が」
アザールは、少しだけ、目を細める。
「走り方が変わる」
火が、ぱち、と鳴る。誰も、その先を聞かない。夜は静かじゃない。だが騒がしくもない。ただ広い。俺は、ラヒーマの影を見る。手は、まだ、腹にある。村は、まだ、ない。畑も、ない。囲いも、ない。ただ、土と、空と、水。それでも、俺たちはもうここに横になっている。夜は、止まらない。生きたまま、動き続ける。




