第64話:杯と新しい線
夜だ。
外の空気が、少し、冷えている。入口の上に、布が、垂れている。油と煙で、色が、くすんでいる。湯気が、顔に、当たる。米の匂いと、油の匂いが、混ざっている。
奥で、鍋を、かき回す音。油が、はねる。皿の縁は、ところどころ、欠けている。指を置くと、ざらつく。机は、まっすぐ、ではない。足の一本が、少し、短い。肘が乗るたびに、わずかに、揺れる。
灯りは、安い油だ。芯が、黒く、焦げている。火は、小さい。壁に、影が、薄く、揺れる。奥で、誰かが、咳をする。乾いた音。すぐには、止まらない。
隣の卓で、銭が、木に、置かれる。短い、乾いた音。椅子は、揃っていない。高さも、形も、ばらばらだ。足元に、白い米粒が、いくつか、落ちている。踏まれて、潰れている。
俺は、茶碗を、持つ。縁が、欠けている。唇に、少し、引っかかる。湯気が、目を、細めさせる。
ここでは、肩書きは、湯気より、軽い。名は、腹を、満たさない。
誰も、大きな声では、話さない。だが、静かでも、ない。匙が、皿に、当たる音。布の、擦れる音。外の、足音。それだけで、十分だ。
入口の布が、ふわりと、揺れる。外の風が、ひとすじ、入る。油の火が、わずかに、揺れる。
その隙間に、影が、立つ。
顔を見る前に、分かる。
上の段で、向き合った、若い男だ。風の中に、立っていた、あの目。同じ目。同じ背。
だが、今日は、何も、つけていない。紋も、色も、ない。重さも、ない。ただの、衣。
若い男。彼は、軽く、手を、上げる。
「やあ、元気?」
俺は、茶碗を、置く。欠けた縁が、音を、立てる。
「……来たのか?」
若い男は、肩を、すくめる。ナーヒルが、俺を見る。それから、若い男を見る。
「そいつ、誰だ?」
俺は、短く。
「王族の人だ」
ナーヒルの声が、少し、上がる。
「は?なんで、ここに?」
若い男は、気にしない。空いている椅子を、見つける。それを、引く。脚が、床を、擦る。
若い男は、そのまま、座る。
湯気が、まだ、立っている。油の火が、揺れている。夜は、いつもと、変わらない。
ただ、上の段で風に立っていた男が、今、同じ机の高さにいる。
その高さに、まだ身体が、馴染んでいない。
若い男は、椅子に、深くも、浅くも、寄りかからない。背を、預けない。肘も、つかない。
居場所を、決めない座り方だ。肩を、わずかに、すくめる。
「実はさ、王族、降りた」
ナーヒルが、吹き出す。
「は?何だよ、それ。冗談じゃねえのか」
若い男は、湯気を、指で、払う。
「もう、王族じゃない。ただの、肩書きだったし」
ナーヒルが、眉を、ひそめる。
「そんなの、できるのか?勝手に降りて、済む話かよ」
サジークが、低く、言う。
「追われないのか?」
若い男は、箸を、持つ。ひと口、口に、運ぶ。味を、確かめるみたいに、噛む。
「追うほどの価値は、ないだろ」
ナーヒルが、俺を見る。
「マジか?」
俺は、肩を、すくめる。
「本気らしい」
ナーヒルが、首を、かしげる。
「なんで、捨てる?上にいれば、全部揃ってるだろ」
若い男は、杯を、指で、ゆっくり、回す。中は、空だ。底に、細い、ひびが、走っている。
「オレはさ、最初から、空っぽだと思ってる」
ナーヒルが、鼻で、笑う。
「はあ?」
若い男は、そちらを、見ない。卓の端の、水差しに、手を、伸ばす。安い陶器だ。口が、少し、欠けている。持ち上げると、底が、かすかに、鳴る。杯を、少し、傾ける。水を、注ぐ。細い音が、静かに、落ちる。灯りが、水面に、揺れる。ひびの線が、水の中で、歪む。満ちる。こぼれない。
若い男は、水差しを、戻す。それから、杯を、持ち上げる。
「これが、オレだ」
杯を、少し、揺らす。水面が、円を、描く。油の灯りが、ゆらゆらと、映る。
「空っぽの器に、天が、水を、注いだ」
水を、くるりと、回す。ひびの線が、水の中で、曲がる。
「知性。身分。力。全部、水だ」
ナーヒルが、眉を、上げる。
「だから?」
若い男は、肩を、すくめる。
「水は、オレのものじゃない」
杯を、口に、運ぶ。一口、飲む。音は、小さい。卓に、戻す。乾いた、軽い音。
「オレが注いだわけじゃないからな。最初から、王族の身分は、オレのもんじゃなかった。王族でも、何も、なくなっても、オレは、最初から、同じだ」
ナーヒルが、鼻を、鳴らす。
「変なやつだな」
若い男は、杯の縁を、指で、なぞる。ひびに、爪が、わずかに、引っかかる。
「まあ、少し、考えれば、分かる話だ。お前、自分の生まれた場所も、親も、才能も、選んだわけじゃないだろ?」
ナーヒルが、箸を、止める。
「そりゃ、そうだけど」
若い男は、うなずかない。
「だから、今お前が持ってるものも、本当はお前のものじゃない」
水を、指先で、そっと、揺らす。灯りが、水面に、ゆらゆら、映る。
「この水が、例えば、お前の知性、体の大きさ、生まれた身分。お前が、自分で、注いだわけじゃないだろ?最初に、注いだのは、天だ」
杯を、卓に、戻す。
「天が、オレたちの杯に水を注いだ。人の違いは、そのあとから、ついてくる」
ナーヒルが、腕を、組む。
「言いたいことは、分かるけどさ。それじゃ、俺たち、天の奴隷みたいなもんだろ」
若い男は、少しだけ、笑う。
「そうだよ。オレたちは、最初から、何も、持ってない。だから、王族でも、下の貧民でも、上から、見下す理由は、ない」
ナーヒルが、半笑いで、言う。
「急に、聖人ぶるなよ」
若い男は、首を、横に、振る。
「違う。王族でも、貧民でも、最初から、同じだ。平等だ」
サジークが、静かに、問う。
「俺たち、全員が、同じだと?」
若い男は、迷わず、うなずく。
「人の違いは、天が、杯に、どれだけ水を入れたかだ。それだけだ」
ナーヒルが、鼻で、笑う。
「プライド高いやつほど、聞きたくない話だな」
若い男は、うなずく。
「でも、これが分からないと、人に優しくできない」
ラヒーマが、匙を、置く。
「……そっか」
ナーヒルが、頭を、かく。
「筋は通ってる。簡単には否定できねえな」
若い男は、もう、杯を、見ていない。何もなかったみたいに、飯を、口へ、運ぶ。さっきまでの話が、味噌の匂いみたいに、卓の上に、薄く、残っている。夜は、相変わらず、狭い。椅子は、揃っていない。灯りは、安い。奥で、また、誰かが、咳をする。だが、卓の上だけ、ほんの少し、広い。
俺は、若い男を見る。上の段で、風の中に、立っていた男。名を、外したまま、ここに、座っている。
「……名前は?」
若い男は、顔を、上げる。
「アザールだ」
俺は、茶碗を、持ち直す。湯気が、また、顔に、当たる。天は、高い。段も、高い。だが、今は、同じ高さで、飯を、食っている。それで、十分だ。湯気は、やがて、薄くなる。灯りの油が、先に、尽きる。誰かの、笑い声が、遠くで、ほどける。椅子が、引かれる。器が、重なる。夜は、静かに、折れる。
朝。
ラヒーマがたらいに布を浸している。俺は道具の柄に紐を巻き直している。入口の布が揺れる。
「……失礼します」
俺は顔を上げる。二人、立っている。腰に刃はない。手には板。
「少し、お時間を」
俺はうなずく。
「どうぞ」
二人は入る。座らない。ひとりが板を開く。
「区切りを、引き直すことになりました。水の流れも、分け直します」
板を少し持ち上げる。
「水を使える順も変わります。住む場所も変わります」
俺は道具を置く。
「……俺たちは?」
二人は一度だけ目を合わせる。それから、板を見たまま。
「今の立場では、この水は先には回りません。場所も移っていただくことになります」
俺は相手の顔を見る。
「罰、ですか?」
二人はすぐに首を振る。
「いいえ。あなたが何かをしたからではありません。誰かを狙って外したのでもありません」
板を指で押さえる。
「線が、引き直されました。その線の外に、今のあなた方がある。それだけです」
俺は少し間を置く。
「……それで、水は?」
もう一人が板をめくる。乾いた音。
「水は、下のほうへ回します。あなた方に回るのは、三日に一度になります」
ラヒーマが低く。
「三日に一度……」
男は続ける。
「仕事も、いったん止めます。ここでの畑は、止まります。今の作は、続きません」
俺は聞く。
「住む場所は?」
相手が板の線をなぞる。
「二段、下です。移るのは、十日以内に。分ける順と量を、改めます。一つの家に回る水も、少し減ります」
ラヒーマがようやく布を持ち上げる。水が、ぽた、ぽた、と落ちる。
「……少しずつじゃないね。まとめて変えるんだね」
役人は感情を乗せない。
「順を、整え直すだけです」
俺は相手を見る。
「話すことを、止めるとは言わないんだな」
二人は黙る。それから、ひとりが答える。
「話すな、とは言われていません」
もう一人が続ける。
「ただ、今の線では、こうなります」
俺は小さくうなずく。
「分かった」
役人が確認する。
「ほかに、聞くことは?」
ラヒーマが静かに。
「聞いたら、変わるの?」
二人は答えを急がない。だが、返ってきた声は平らだ。
「決まった線です。今は、これで動きます」
俺は首を振る。
「……ない」
男は板を閉じる。
「以上です」
二人は軽く頭を下げる。勝ち誇らない。急がない。布を持ち上げて、外へ出る。靴音が遠ざかる。ラヒーマが、しばらく板のあった場所を見る。
「変わってない顔で来て、ちゃんと、変えていったね」
たらいの水に手を戻す。
「水は?」
俺は短く返す。
「三日に一度」
ラヒーマはうなずく。
「ここ、出るの?」
俺は少し間を置く。
「まだ決めてない」
それから、ゆっくり足す。
「追い出されたわけじゃない。ただ、前みたいには動けなくなった」
ラヒーマが顔を上げる。
「……どのくらい?」
俺は水瓶を見る。
「水に行ける回数が減る。畑に立てる日も減る。ここにいられる時間も減る」
ラヒーマは黙る。
「でも、水も畑も、なくなるわけじゃないんだよね」
俺はうなずく。
「ある。ただ、先に触れなくなる」
ラヒーマが小さく。
「……順番、後ろに回されたんだ」
「ああ。同じでも、遅れる」
ラヒーマは少しだけ息を吐く。
「じゃあ、無くなるんじゃなくて、届くのが遅くなるだけか」
俺は短く。
「そうだ」
ラヒーマは、たらいの水を軽く揺らす。
「……ちゃんと残してる顔して、ちゃんと遠くしてるね」
一拍。
「話すのは?」
「ああ。止められてない」
ラヒーマは少しだけ目を細める。
「でも、そのままやると、こうなる」
俺はうなずく。
「道はある。通りにくくなっただけだ」
ラヒーマは布を絞る。
「じゃあいい。水が遠くなるなら、早く起きる。先に行けばいい」
俺は少しだけ笑う。
「そうだな」
ラヒーマはそのまま続ける。
「場所が下がるなら、運ぶだけ。距離が増えるだけでしょ」
俺は水瓶に手を伸ばす。
「持てるならな」
ラヒーマはすぐ返す。
「持てるよ。今はまだ」
俺は水瓶を持ち上げる。
「……ああ。まだ持てる」
ラヒーマが静かに。
「じゃあ変わらないね。ちょっと面倒になるだけ」
俺は敷居の外を見る。
「どこまで回せるかだな。それを見ないといけない」
ラヒーマはうなずく。
「無理したら倒れるし」
俺は短く。
「その前に止める」
ラヒーマは布を干す。
「残るか移るかは、そのあとでいい」
俺は答える。
「そうだな。まだ決めなくていい」
ラヒーマが最後に。
「じゃあ今は、それだけだね」
俺は水瓶を見たまま。
「ああ。どこまで運べるか、それだけだ」
光は、ゆっくり傾いた。やがて、灯りが、入る。
夜。
ラヒーマが桶を洗っている。俺は縄を結び直している。水の音が止まる。俺は顔を上げる。少しだけ眉を寄せる。
「どうした。手、止まってる」
ラヒーマは桶の縁に手を置いたまま。ゆっくり座る。視線は水に落ちたまま。
「……ちょっと、変。痛いとかじゃないけど、いつもと違う」
俺は縄を持ったまま近づく。腰を落とす。
「どこだ。痛みはないのか。気持ち悪さは」
ラヒーマは首を横に振る。呼吸を一度整える。
「そういうんじゃない。吐き気もないし、立てる。ただ……中が静かすぎる感じ。動いてないっていうか」
俺は少し間を置く。視線を腹に落とすが触れない。
「立てるならいい。今日はもういい、無理するな」
ラヒーマは小さくうなずく。桶を横へずらす。灯りの下。並んで座る。ラヒーマは膝に手を置いたまま。指先を少し重ねる。
「もしかしたらさ、あるかもしれない。まだ分からないけど」
俺は横目で見る。
「何が。心当たりはあるのか?」
ラヒーマは視線を落とす。
「月のが、来てない。一回、過ぎた。遅れることもあるけど、今回ちょっと違う気がする」
俺は少し間を置く。灯りを見る。
「どれくらい遅れてる。いつもと比べて」
ラヒーマは指を軽く動かす。
「ひとつ分。まだ確かじゃない。でも体の感じが違う。さっきのも初めて」
俺は静かに聞く。
「確かになるのはいつだ。どれくらい待てばいい」
ラヒーマは顔を上げない。
「もう少し。数日で分かると思う。はっきりするはず」
ラヒーマは少しだけ顔を上げる。視線は合わない。
「水、遠くなるんだよね。今のままだと、取りに行く回数も減るし」
俺はそのまま答える。
「遠くはなる。順番が後ろに回る。量は同じでも、手に入るのは遅くなる」
ラヒーマは静かにうなずく。
「一人なら、いいんだけど。もし二人だったら、今のやり方じゃ足りないよね」
俺は灯りを見る。少しだけ息を吐く。
「やり方を変える。今のままじゃ回らない。水までの距離、畑までの距離、ここまでの行き来、全部」
ラヒーマはそのまま聞く。
「どこまで行けるか、ってこと?」
俺は短く。
「そうだ。持てる量も時間も、全部見直す」
ラヒーマはゆっくりうなずく。
「もし本当にあったら、ちゃんと守れる?」
俺は視線を動かさない。
「守る。無理はしない。続けられるやり方に変える」
ラヒーマは少し目を閉じる。
「場所はどうする。ここに残るか、下に行くか」
俺は答える。
「選び直す。今のやり方は使わない。動ける方に合わせる」
ラヒーマは小さくうなずく。
「分かった。明日、早く起きる。先に水に行く。一人のうちに、体を慣らしておきたい」
俺はわずかにうなずく。
「そうだな。それでいい」
ラヒーマは最後に言う。少しだけ声が軽くなる。
「まだ分からないけど、先に動いとく。あとで慌てるよりいいでしょ」
俺は灯りを見る。
「ああ。それでいい」
灯りが少し落ちる。同じ夜。下の段。欠けた卓。安い油の灯り。俺は先に座っている。ひとりずつ入ってくる。サジーク。マリーク。アミーヌ。ナーヒル。最後に、アザール。誰もすぐには話さない。
俺は手を卓に置く。
「話がある。長くは言わない。近いうち、父になるかもしれない。まだ確かじゃないが、そのつもりで動く」
湯気が揺れる。ナーヒルが箸を置く。
「……急だな。本当か。体は大丈夫なのか」
俺は短く。
「今は問題ない。ただ、変わる前に動く。ここは細くなる。水も、畑も、時間も」
サジークが低く。
「水はどうなる。今のまま使えるのか、それとも順が変わるのか」
俺は答える。
「三日に一度になる。順が後ろに回る。量は同じでも、先には取れない」
マリークが指で卓を叩く。
「区切りの引き直しだな。完全に外されたわけじゃないが、前には出られない。仕事はどうなる」
俺はそのまま。
「止まる。畑も一度切れる。続けるには場所を変えるしかない」
ナーヒルが腕を組む。
「追い出しじゃないが、残れない形にされてるな。じわじわ締めるやり方だ」
サジークがうなずく。
「残るなら削られる。動くならまだ選べる」
俺は卓の縁をなぞる。
「南へ行く。水に近い場所に移る。ここに残る理由がなくなる前に動く」
マリークがすぐに聞く。
「どのあたりだ。流れはまとまってるのか、それとも分かれてるのか」
俺は思い出すように。
「分かれる少し手前より下だ。水は散ってる。一本に頼らない」
マリークの目が少し動く。
「見張りはどうだ。人の目はあるか」
俺はそのまま。
「薄い。常に立ってるわけじゃない」
マリークは息を一つ吐く。
「なら動けるな。完全には抑えられてない」
ナーヒルが椅子を鳴らす。
「食えるのか、それで。移ったあと、すぐ回るのか」
俺は少し間を置く。
「土は借りられる。保証はない。最初は自分で回すしかない」
ナーヒルが鼻で笑う。
「いつも通りだな。結局、自分でやるしかねえ」
アミーヌが小さく、しかし丁寧に。
「広いんですか。動ける余地はありますか?」
俺はうなずく。
「広い。今よりは余裕がある。詰まらない。回しやすい」
アザールが軽く笑う。
「広いなら十分だ。狭い場所は人の考えまで詰まる。空いてるほうが動ける」
ナーヒルが横目で見る。
「お前も来るのか。遊びじゃねえぞ」
アザールは肩をすくめる。
「道があるなら歩く。それだけだ。上でも下でも関係ない」
サジークが俺を見る。
「いつ動く。決めるなら早いほうがいい」
俺は答える。
「決めたらすぐだ。遅らせる理由はない」
マリークが確認する。
「種は持てるな。次を作れるかが先だ。道はどれくらいだ。荷を持っても回せるか」
俺は即答する。
「ああ。持てるだけ持っていく。二日だ。荷を持っても回せる距離だ」
マリークはようやくうなずく。
「なら成り立つ。最初の数日を越えれば続く」
ナーヒルが息を吐く。
「面倒だが、やるしかねえな。ここで削られるよりはましだ」
そのとき、布が揺れる。ラヒーマが入る。座らない。卓の端に立つ。
「南に行くって聞いた。本当に動くの?」
俺はうなずく。
「ああ。水に近いほうがいい。今のままだと回らない」
ナーヒルがラヒーマを見る。
「遠くなるときついか。負担は増えるぞ」
ラヒーマはそのまま。
「朝が早くなるだけ。やることは同じ。先に動けば間に合う」
アザールが杯を置く。
「南は川が分かれてる。一本に頼らなくていい。止まっても全部は止まらない」
サジークがうなずく。
「なら水は持つ。土も回る」
マリークが湯気の向こうで指を止める。
「悪くない。少なくとも今よりは詰まらない」
アミーヌが丁寧に。
「風は強いですか?」
俺が答える。
「強い日もある」
ラヒーマはすぐに。
「なら壁を厚くする。最初から備えればいい。後から直すほうが面倒」
誰も否定しない。匙がまた動き出す。俺はラヒーマを見る。
「決めるのは明日だ。全員で動くか、残るか、それも含めて決める」
最後に、アザールが言う。
「広い場所のほうが息ができる。狭いと、考えまで縮む」
沈黙。誰も笑わない。だが、誰も否定しない。




