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第67話:三人目

午後だった。二度目の午後だ。日が、まだ高い。影は短い。川も風も、変わらない。違うのは体のほうだ。ラヒーマが水袋を結び直す。途中で手が止まる。腰にそっと触れる。息を一つ吸う。吐く。俺はすぐ分かる。近づく。


「来たか。さっきからだな。前と同じ入りだろ。止まらない感じか」


ラヒーマは小さくうなずく。

「うん。さっきから。重さじゃなくて、押される感じ。間も詰まってきてる。もう始まってる」


少し離れたマリークが顔を上げる。

「呼ぶか。外で粘るより中に入れたほうがいい。すぐ回せる」


俺はうなずく。

「頼む。水と布だけでいい。慌てなくていい。止めるな」


すぐに女たちが来る。足は速いが、声は低い。年上の女がラヒーマの顔をのぞく。

「いい顔してる。呼吸も乱れてないし、入り方もきれい。今回、進みが早いよ」


別の女が腹に手を当てる。

「もう間、詰まってるね。このまま中に入ろ。外で粘る段階じゃないよ」


ラヒーマは息を整えながら。

「うん、分かってる。止めないで、このまま流したい」


女がやわらかくうなずく。

「大丈夫、そのまま行こう。力入れすぎなくていいからね」


布が広がる。水が運ばれる。誰も空を見ない。誰も名を呼ばない。ラヒーマは支えられて中へ入る。俺は入口で止まる。杭に腰を下ろす。歩き回らない。中から呼吸が聞こえる。遠くでサジークが杭を打つ。どん。どん。振り向かずに。

「早いな。昼のうちに来るとは思わなかった。昨日は普通だっただろ」


俺は短く。

「慣れてる。体が覚えてる。迷いがない分だけ速い」


木陰にアザール。何も言わない。視線は遠い。


布の中。


ラヒーマの呼吸が変わる。

「……来る」


女がすぐ。

「いいよ、そのまま。その呼吸でいい。止めないで、合わせていこう」


ラヒーマは短く。

「うん、止めない」

波が来る。布をつかむ。

「……っ」


女が背を支える。

「そう、そのまま。押し返さなくていい、抜いていこう」


次。呼吸が深くなる。

「……はっ」


「いいよ、もう少し。今のままでいけるから」


そして、泣き声。はっきり。強い。


外。


俺は顔を上げる。

「……出たな。さっきより強い、ちゃんと通ってる」


アザールが布のほうを見る。

「声がまっすぐだ。最初から崩れてないな」


俺は立つ。迷わない。布を上げて中へ入る。火の光。ラヒーマは息を整えている。目は開いている。女がそっと差し出す。

「ほら、抱ける?少し重いよ。前よりしっかりしてるから」


俺は手を伸ばす。受け取る。

「……重いな。前より詰まってる」


ラヒーマが少し笑う。

「前より?ちゃんと覚えてる?」


俺は持ち直す。

「少しな。でもこのほうがいい、弱くない」


赤ん坊が泣く。すぐ静まる。指が俺をつかむ。ラヒーマが静かに。

「どう?ちゃんと持ててる?力、入れすぎてない?」


俺はうなずく。

「大丈夫だ。前より分かる。迷わない」


一瞬だけ目が合う。俺は赤ん坊を見る。

「セム」


ラヒーマが小さく繰り返す。

「……セム。いいね、呼びやすい」


女の一人がやわらかくうなずく。

「いい名前。すっと入るね」


入口の影でアザール。

「セム。短いな、残る」


それで終わる。


外へ出る。


光はまだ高い。マリークが水路の端を手でならす。

「ここ、また弱いな。さっきより流れ落ちてる。このままだと止まる」


ナーヒルが足で踏みながら。

「踏み固めすぎだ。締めすぎると水が逃げ場なくなる。少し逃がせ」


マリークが手を止めない。

「固めないと崩れる。流す前に持たなくなる。先に支えとかないと崩れるぞ」


ナーヒルが少し強く踏む。

「だからって詰めすぎるな。見ろ、細くなってるだろ。流れ弱くなってる。動いてるうちに少し抜け」


マリークが水面を見る。

「……分かってる。少しだけ下げる。止まらないくらいで戻す」


言い合いは止まらない。怒っていない。ただ続いている。少し離れたところで子どもたちが走る。ヤフェトも混じっている。


ヤフェトが声を上げる。

「まって、ぼくもいく。ぼくもそっちいく。いっしょにいく」


別の子が振り返る。

「ヤフェト、お前だよ。足見ろって言っただろ。前ばっか見てるとまた転ぶぞ」


ヤフェトが足元を見ながら。

「みてる。ぼくの足みてる。ここにある。ちゃんとある。だいじょうぶ。さっきとちがう。もうころばない」

一歩。少しよろける。踏みとどまる。

「ほら、ぼくころんでない!」


もう泣かない。


遠くで大きな影が動く。長い首が草を引きちぎる。どん、と低い足音。


ヤフェトが一瞬だけそっちを見る。

「あれ、またいる。あの大きいやつ、また来てる。さっきよりちかい?」


子どもが肩をすくめる。

「同じだよ。あいつはいつもあそこ通るだけだ。こっちには来ない」


ヤフェトが小さくうなずく。

「じゃあいい。ぼく、こっちいく。ぼく、あっちいく」


サジークが杭を打ちながら声を投げる。

「どうだ。どっちだ、男か」


俺は布のほうへほんの少しだけ目を向ける。

「……ああ、男だ。声も強い。最初からちゃんと出てる」


サジークがもう一度打つ。どん。

「なら、手が増えるな。そのうち外も回せるようになる。遅くてもいいが、止まらなきゃ回る」

どん。

「柵が足りなくなるな。今の広さじゃ足りない。そのうち押し出される」


マリークが水路から顔を上げる。

「増やすなら今のうちだ。後から広げると全部ずれる。先に余裕を作っておいたほうが楽だ」


ナーヒルが鼻を鳴らす。

「最初から広げとけって話だろ。後から足すとやり直しになる」


俺が短く。

「増えた分だけ回す。それでいい。止めなければ崩れない」


水は流れる。土は乾く。恐竜は草を食む。子どもは走る。


ヤフェトがまた声を上げる。

「みて、ぼくはしってる。ぼく、ちゃんとはしれてる。さっきよりはやい!」


遠くで誰かが返す。

「お前が転ばなきゃな。転んでもいいけど、止まるなよ」


ラヒーマは横になる。セムは泣いて、眠る。槌の音がまた落ちる。どん。村は、そのまま動いている。増えただけだ。水は止まらない。土も乾く。子どもはまた立つ。どん。どん。その音は次の日も落ちた。その次の日も。川はあふれた。引いた。またあふれた。水路は崩れた。直した。また崩れた。柵は増えた。穂は揺れた。子どもは転び、立った。


朝。


三年が過ぎた。川はまたあふれたが、畑は残っている。俺はしゃがみ、一本折る。ぱき、と軽い。マリークは穂先を指でこすりながら。

「水、抜けすぎたな。軽いし、そろってない。高いのもあるし、曲がってるのもある。中身も、ばらけてる」


ナーヒルは弱い列を足で押す。ぐしゃ。

「ここ、死んでるな。踏んだら終わりだ。根、浅い」


俺は土を握って崩す。

「南は、抜けが早い」


マリークはうなずく。

「水にも傾きにもな。素直すぎる。だから全部流れる」


ナーヒルは斜面を顎で示す。

「止めたくなるだろ。でも止めすぎると溜まる。溜まったら、腐る」


マリークは短く返す。

「じゃあ、止めるな。でも流しすぎるな」


少し離れたアザールは視線を動かさないまま。

「止めるから、崩れる。流れるなら、流れる幅を作る」


ナーヒルは鼻を鳴らす。

「幅、か。逃がすってことだな」


俺は土を押す。言い合いはいらない。必要なのは角度だ。ヤフェトが走ってくる。

「こっち、いっぱいある!」


穂を引く。ぱら、とこぼれる。俺はその手を見る。

「引くな。まだ根が浅い。抜くと終わる」


ヤフェトは振り向いて、地面を見る。

「なんでだよ。いっぱいあるのに」


少し黙る。後ろから来たセムが足を取られて転ぶ。どさ。遠くでラヒーマの声。

「踏むなよ!」


ヤフェトは慌てて足を上げる。

「え、じゃあどこ踏めばいいの? 踏めないだろ、これ」


ナーヒルは肩を揺らす。

「全部だ。でも潰すな」


マリークは穂を見たまま。

「踏むな。でも立て。重さ、逃がせ」


ヤフェトは顔をしかめる。

「どっちだよ。無理だろ!」


ナーヒルは笑う。

「考えろってことだ。置き方で変わる」


風が吹く。穂が揺れて、曲がって、戻る。完璧じゃない。だが倒れていない。乾いたところ。サジークが先にしゃがみ、土に指を押し込む。

「……固い。入らない。押すと跳ね返る。上だけじゃない、下まで締まってる」


マリークは周りを見ながら。

「去年、踏みすぎたな。締まりすぎてる。このままだと抜けない。また死ぬ」


ナーヒルは腕を組んだまま。

「だから言った。抜けなくなるって。踏めば固まるだろ。戻すの面倒だぞ」


俺はかかとで土を崩す。

「掘り直す。全部じゃない、流れだけ作る」


サジークは手を抜いて土を見る。

「浅くでいい。割れば通る。深くやると、また崩れる」


少し離れたアザールは視線を動かさず。

「深くやるな。去年はやりすぎた。抜けすぎて、残らなかった」


俺は短く返す。

「浅く。角度だけ変える。止めない。流す」


ナーヒルは土を踏みながら。

「今度は流しすぎるなよ。全部逃げたら意味がない。残す分も考えろ」


マリークは低く笑う。

「流れたら、また直す。それでいい。形を探すだけだ」


言い合いじゃない。調整だ。遠くの草が揺れる。大きな影。長い首。ヤフェトが止まる。

「あれ、こっち来ない? やばくない? 近くないか」


マリークは穂を見たまま。

「腹、満ちてる。来ない。見てない、食ってるだけだ」


ナーヒルは柵を見て。

「低いけどな。でも通らない。通る動きしてない」


アザールは淡々と。

「通り道、外してある。交わるようにしてない。だから来ない」


恐竜は草を食み、こちらを見ずに去る。それで終わりだ。刈る。しゃっ、しゃっ。


ラヒーマは束をまとめながら。

「そろえて。乾かすから。ばらけてると乾かない」


セムは手元の穂を見て。

「なんでそろえるの? ばらばらじゃだめ? 同じにしないとだめなの」


ラヒーマは手を止めない。

「腐るから。そろえると、早く乾く。それだけ」


セムは少し考え、ぎこちなくそろえる。ヤフェトは刈った穂を抱える。

「重い。持てない。ばらばらで持ちにくい」


俺は受け取る。

「だから束にする。ばらけると持てない。形にすれば持てる」


ラヒーマはそのまま足す。

「形にすると持てる。それだけ。余計なことはない」


山を積む。ヤフェトは上から押し込む。

「まだ乗る。いける。もう少し入る」


マリークは横から手を出す。

「崩れるぞ。高さ、限界だ。積みすぎると全部落ちる」


ヤフェトは口を尖らせる。

「でも余る。もったいない。全部使えないのか」


ナーヒルは別の山を顎で示す。

「余らせとけ。それが種だ。全部使うな、残せ」


ヤフェトの手が止まる。

「食わないの? 全部? 残すのか」


マリークは束を手のひらで押さえながら、

「全部食ったら、来年がない。残すのも仕事だ」


ヤフェトは少し考える。

「じゃあ、ちょっとだけ? 全部じゃなければいい?」


ナーヒルは笑う。

「お前がな。調子に乗るな」


俺は山を見る。多すぎない。少なすぎない。マリークは低く、

「足りる。回る分だ。無駄もない」


ナーヒルはすぐ足す。

「増やせる。まだ伸びる。余裕ある」


アザールは穂先を風に向ける。

「急ぐな。急ぐと崩す。形が追いつかない」


マリークは顔を上げる。

「今まとめたほうがいい。乾く前に。時間があるうちにやるべきだ」


アザールは首を振る。

「急ぐと崩れる。整えた意味が消える。順を崩すな」


ヤフェトは指をさす。

「ここ、曲がってる。変じゃない? まっすぐじゃない」


俺は土を踏みながら返す。

「折れてないなら、いい。倒れてない」


ナーヒルは横から。

「まっすぐだと倒れる。風でやられる。曲がるくらいでいい」


ヤフェトは黙る。少し納得した顔になる。俺は立つ。昨日の列は、今日も立っている。今日の山は、明日も残る。それでいい。


夕方。


束は少し傾いて積まれている。大小が混じる。セムはラヒーマの膝で眠っている。口が少し開いている。


ヤフェトは刈ったばかりの穂をかじり、顔をしかめる。

「甘くない。なんだこれ、全然味しない。さっきよりひどい」


ナーヒルは肩を揺らす。

「当たり前だ。まだ若い。乾いてないし、中も詰まってない。でも腹には入る。それでいい」


ヤフェトはもう一度かじる。

「やっぱり甘くない。これでいいのか?もっとちゃんとしたの、ないのか」


ナーヒルは穂を見るでもなく。

「いいんだよ。腹に入れば同じだ。甘さは後だ。残れば勝ちだ。味は関係ない」


ヤフェトは穂を置く。マリークは遠くを見たまま。

「悪くないな。崩れてない。それで十分だ」


俺は立ったまま風を受ける。遠くで恐竜が草を食む。川は変わらず流れる。夕日が畑を赤く染める。まっすぐじゃない。地面もそろっていない。だが、倒れてはいない。風がもう一度抜ける。穂が波のように揺れて、静まる。夜が降りる。川の音は変わらない。


朝。


泥の色がむき出しだ。流れは細い。虫の音がやけに響く。穂先もわずかに下を向いている。


マリークは用水路の縁にしゃがみ、指ですくって落とす。ぽた。

「……水、減ってるな。落ちる音が軽い。流れてる水の量も、押す力も落ちてる。このままだと、水が細いまま土の端だけ削る」


ナーヒルは乾きかけた縁を押す。ぱらりと崩れる。

「端から死に始めてるな。水が当たらないところから先にやられる。このままだと、この土は残らない」


俺は歩いて近づく。

「流れは」


マリークは水面を追ったまま。

「細い。でも水は止まってない。まだ前に流れてる」


サジークは水路に足を入れる。くるぶしまで沈む。

「冷たさはある。水は生きてる。止まってない。動きは残ってる」


アミーヌは岸の印をなぞる。昨日の線と今日の水面。少し下。

「指一本分、下がってますね。昨日より水は減ってます。でも落ちる速さは緩いです。昨日みたいに一気には落ちてません」


ナーヒルは眉をひそめる。

「一日でこれか。でも落ちる速さが鈍いなら、まだ持つな。今日すぐ全部なくなる流れじゃない」


マリークは視線を外さず。

「止まってはない。水が細いだけだ。流れはまだ回ってる」


誰もすぐには動かない。同じ言葉が、少し重くなる。俺はそれを胸に置く。水は止まっていない。それでいい。少し離れて、ラヒーマが立っている。胸にセムを結びつけたまま、岸の濃い土を見ている。

「ここまで水あったよね。昨日はもっと上だった。今は下がってる。このままだと、ここから乾く」


ヤフェトは細くなった流れのそばにしゃがみ、水を見る。

「なくなる? このまま水が減ったら、流れ、全部消えるのか」


俺は水面を見る。

「水の流れは戻る。戻す。止まらせない」


ヤフェトは顔を上げる。

「いつ戻る? どれくらいで戻る?」


俺は空を見上げる。

「空が決める。雨と風で変わる。今は水を回すだけだ」


ヤフェトは少し黙る。

「じゃあ待つのか? 何もしないで待つのか」


ナーヒルは鼻を鳴らす。

「待つだけじゃない。水が細くなったら、細いまま回す。止めずに流し続ける」


マリークは水面を指で押す。

「流れの道を直す。水が通る幅を広げる。せき止める前に、通り道を作る」


アミーヌは岸を指す。

「削られすぎないようにします。水が落ちる場所を減らします。横に流れる形を保ちます」


サジークは足を抜く。

「止めない程度に触る。止めたら水が詰まる。それで終わる」


俺はうなずく。

「止まらせない」


畝の方へ歩く。葉先が少し巻き、色が薄い。ナーヒルは一本つま先で蹴る。

「早いな。先から来てる。水が減ると、先にここがやられる」


俺は穂先をつまむ。

「水が減ると、先から乾く。上から順に落ちる」


マリークは別の穂をしならせる。

「芯はまだ柔らかい。中は生きてる。根はまだ使える。まだ間に合う」


サジークは用水路を見る。

「堰、閉めるか。水の量、少し上げるか」


マリークは首を振る。

「全部閉めると水が溜まる。上の土が腐る。流れは残す」


ナーヒルは畝をまたぐ。

「溜まりすぎると根がやられる。腐るぞ。前と同じになる」


俺は土を踏む。

「細く回す。止めない」


アミーヌは土を握り、奥まで指を入れて引き抜く。

「表だけ乾いてますね。中は湿ってます。……冷たいです」


俺も指を入れる。奥は湿っている。マリークは土を見たまま。

「根はまだ生きてる。上が割れる前に水を回せばいい」


ナーヒルは鼻を鳴らす。

「じゃあ焦るなってことだな。まだ余裕ある」


アミーヌは立ち上がる。

「西は日が強いです。先にそこをやります。順番に回します」


俺はうなずく。

「浅い方から」


サジークは堰板に手をかける。

「半分、落とすか。水の流れ、少し太くする」


マリークは土を流れに落とし、動きを見る。

「全部は落とすな。水が細いときは、止めるより広げる。先に道を作る」


サジークは手を止める。

「横を削るか。水が通る幅を出す」


マリークは短く。

「浅くな」


ナーヒルは笑う。

「水も畑もわがままだな。放っとくと勝手に崩れる」


少し下の流れ。アザールが一人で水面を見ている。露出した土に触れる。ナーヒルは遠くから声を投げる。

「まだ持つか。この流れ、このまま減るか」


アザールは立ち上がる。

「水は流れてる。それでいい。止まってない」


サジークは堰板を少しずらす。水がわずかに太くなる。アミーヌは岸を見る。

「止まったら、溝を掘り直します。流れを作り直します」


アザールは上の流れを一度だけ見て。

「止まる前にやれ。止まってからじゃ遅い」


俺は水の向きを見る。

「細いが、水は回ってる」


ナーヒルは畝を踏む。

「細くても続けばいい。止まらなきゃ勝ちだ」


マリークは低く足す。

「一度にやろうとするから崩れる。分けて回せば残る」


畑の端。


ヤフェトが棒で水をつつく。

「こっち来い。ここ低いぞ。こっちに流れろ」

水は揺れるが、流れは変わらない。ヤフェトはもう一度押す。

「なんでだよ。ここ通れよ。こっちのほうが楽だろ」


俺は少し離れて水面を指す。

「押しても全部は来ない。水は先に通った道を選ぶ。昨日削った道に流れる」


ヤフェトは水を見る。納得していない顔。ラヒーマはセムを揺らす。

「焦らない。急ぐと水が濁る。流れが乱れる。水も同じ」


ヤフェトは棒を引き抜く。

「なんで、すぐ来ないんだよ」


ラヒーマは答えず、ただ揺らす。


午後。


水音が少し変わる。さら…と、重くなる。


マリークはしゃがみ、指を入れる。

「……戻り始めた。水が押し返してる。流れが少し太くなってる」


ナーヒルは目を細める。

「どこが。さっきと同じに見えるぞ」


マリークは縁を指す。

「ここだ。削られなくなった。水が落ちなくなった。これが戻りだ」


アミーヌは印に指を当てる。

「戻ってますね。昨日の半分くらいまで上がってます。ここまで戻ってます」


ナーヒルはのぞき込む。

「半分か。それで十分だな。全部はいらない」


誰も声を上げない。だが肩が、少し下がる。俺は息を吐く。

「水は止まらなかった。それでいい」


その流れの中で、季節がいくつも過ぎていく。雨が来て、川がふくらむ。引いて、土が割れる。削れた端を戻し、ならして、また植える。柵を打ち直し、踏み固める。声を上げることもなく、同じことを繰り返していく。


二年。


川は三度あふれ、畑の端はそのたびに削れた。俺たちは戻し、ならし、また植えた。


朝。


空はまだ白い。青になりきらない。ヤフェトが裸足で畑を走り、転んで、すぐ立つ。笑い声だけが先に来る。セムは少し離れて、言葉をつなごうとしている。俺は水路に足を入れる。くるぶしまで沈む。途中で引っかかった土の塊で、水が二つに割れている。足で崩す。流れが一本に戻る。音が変わる。


マリークは鍬を立て、泥を払う。

「昨日の崩れ、もう戻ってるな。さっきは分かれてたが、今は一本だ。止まってない」


ナーヒルは畝を踏み、足裏で高さを確かめる。

「そこ、下げすぎだろ。水が逃げるぞ。このままだと、端から削れていく」


俺は流れを見たまま。

「止まるよりはいい。流れていれば戻せる」


少し離れたサジークは杭を打ち直す。どん、どん。

「緩んでるな。昨日の雨で浮いた。締め直さないと柵ごと持っていかれる」


その背後から声。ラヒーマは腹に手を添えたまま立っている。

「……来た」


俺は一歩近づく。

「どれくらいだ」


ラヒーマは目を閉じ、息を吐く。

「まだ間はある。でも、もう始まってる」


マリークは鍬を肩にのせたままこちらを見る。

「呼ぶか。早めに動いたほうがいい。外で粘るより、中のほうが回しやすい」


俺はうなずく。

「頼む」


ナーヒルは手の土を払う。

「三人目だな。間違えるなよ。流れと同じだ。止めるな、詰まらせるな」


俺はラヒーマの横に立つ。

「歩けるか」


ラヒーマはうなずく。

「うん。ゆっくりなら行ける」


一歩。息。もう一歩。揺れない。ヤフェトがこちらを見る。

「どこ行くの?」


ラヒーマは足を止めず。

「すぐ戻るよ」


ヤフェトはそれ以上聞かない。女たちはすでに動いている。布を広げ、水を運び、火を少し強める。年配の女は肩に手を置く。

「早いな。体、覚えてるな。前より入りが軽い」


別の女は腹に触れる。

「下りも悪くない。このまま行けるな」


ラヒーマは短く。

「大丈夫」


布の内側へ入る。俺は水路に戻る。水は止まっていない。さっき崩した土の跡を、細くすり抜けていく。どん。杭の音。布の向こうで呼吸。サジークは水の線を追う。

「堰、触るか。少し上げれば流れは太くなる。このままだと細すぎる。持たないかもしれない」


俺は小石を押し込む。

「触るな。ここで止めたら詰まる。今は通すだけでいい、流れを切るな」


サジークはわずかに口を上げる。

「細いのに強気だな。でも通ってるな。途切れてない。これならまだ回る」

水が石に当たって鳴る。

「細いからだ。細い分だけ、止めずに通す」


中から息。長く吐く音。マリークは小屋を見たまま。

「落ち着いてる。呼吸も乱れてない。流れも切れてない。このまま行く」


俺は水面から目を離さない。

「ああ。止まってないなら、それでいい」


木陰にアザール。空の端を見ている。何も言わない。中で呼吸が深くなる。女の声。

「止めるな」


すぐに返る。

「止めない」


俺は小石を置き直す。流れがわずかに整う。その瞬間。泣き声。細くない。かすれない。まっすぐだ。俺の手が止まる。

「元気だ。弱ってない、声が張ってる」


マリークは息を吐く。

「張りがあるな。力が抜けてない、ちゃんと生きてる」


木陰からアザール。

「濁ってない。息も、音も、まっすぐだ」


俺は水から上がり、小屋へ入る。湿った空気。布と水と汗の匂い。ラヒーマは額に汗。だが目は揺れていない。布に包まれた子が差し出される。両手で受け取る。重い。

「しっかりしてるな。腕に落ちる、逃げない重さだ」


ラヒーマは息の合間に、

「重い? 前よりある? ちゃんと抱ける?」


俺は子の顔を見る。

「ちょうどいい。軽すぎない、弱くない」


腕が動く。前の二人より力がある。小さな目が一瞬開く。外では水が流れている。細い音。三人目。俺は抱き直す。止まっていない。ただ、増えただけだ。ラヒーマを見る。ラヒーマは小さくうなずく。それで足りる。

「ハム」


置くように言う。布の中で腕が動く。入口に影。半分が光。半分が闇。アザールは中へ入らない。

「ハム。重さはあるな。弱くない」


低く、確かめるだけ。何も足さない。


外へ出る。


光が少し強い。目が慣れるまでの、短い白さ。ナーヒルは水路の傾きを見ている。足で土を踏み、流れを探る。

「水、回しとけよ。止めるな。細くても通せ。今は量より流れだ、切らすな」


サジークは柵の杭を引く。土を払って、打ち直す位置を見ている。

「柵、足りるか。三つ目だぞ。このままだと外に寄る。外れたら一気に持ってかれる」


少し離れたところで、マリークは鍬を肩にのせたまま。

「三人目か。数は増えたが、流れは同じだ。回せるかどうかだけだ」


俺は半歩だけ外に出たまま。

「ああ。止めなければ回る」


ナーヒルは振り向かない。足で畝を踏みながら。

「畑も広げるなよ。広げたら水が足りなくなる。今ある分で回せ。崩すな」


祝う声はない。手も止まらない。水は流れ、杭は打たれ、土は踏まれる。生まれた分だけ、回す場所が増える。それだけだ。


夕方。


光が傾く。小屋の中。ラヒーマが横になっている。その隣に、小さな体。ヤフェトが、そっと覗き込む。

「ちいさいな。これで動くのか。ちゃんと生きてるのか」


セムは指を伸ばし、触れそうになって引っ込める。

「動いた。今、動いた。触ってもいいのか」


ハムが腕をばたつかせる。弱くない。ラヒーマは目を閉じたまま、かすかに声を出す。

「触るなら、そっとね。まだ弱い。でも大丈夫」


ヤフェトは少しだけ近づく。

「強いのか? すぐ泣くけど、ちゃんと動く」


ラヒーマは息を整えながら。

「強いよ。重さもある。前の二人と同じで、ちゃんと育つ」


俺は水路の縁に立つ。流れは変わらない。細い。だが、確かだ。サジークは横で水の線を見る。

「細いな。でも止まってない。これなら回る。崩れない」


ナーヒルは遠くから声を投げる。

「そのまま流しとけ。触りすぎるな。いじると逆に崩れる」


マリークは川の方を見たまま。

「今は変えるな。この細さで安定してる。崩さなければ持つ」


川の向こうで、恐竜が草を食む。長い首が、ゆっくり上下する。そのさらに向こう。アザールが立っている。子どもを見ない。俺も見ない。遠い向こうを見る。三人になった。 圧は増えない。ただ、重さだけが増える。世界は止まらない。静かに、広がっていく。

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